ラーデアのパン屋さん⑨
脇目も振らず一目散に部下のところに戻ったジルは、少しパン屋から離れた街角で叫んだ。
「カミラ、陛下は接客してない、並んでも見つからないって嘘つきましたね!?」
「あらやだ、嘘は言ってないわよアタシ。陛下は接客してなかったでしょ。たまーにパンを運びに店から出てくるだけでしょ」
「そ、そうですけど……わたしは接客されました!」
「そら隊長だったからだろ」
ジークの呆れたような声に、もう一度顔が赤くなった。うう、と胸にパンを抱いて嘆く。
「よ、よりによって陛下に見つかるなんて……」
「いいんじゃねえの、別に」
「よくないです! いちごジャムのパンもなかったし……!」
あれでは、夫の仕事場をこっそり覗きに行っただけみたいではないか。だからどうというわけでもないはずだが、とても恥ずかしい。
ひょいとジルの腕からパンの袋を取りあげて、ジークが抱える。
「堂々としてればいいだろう。なんでそんなに混乱してるんだ、らしくないな」
「だ、だって陛下が」
公衆の面前で、臆面もなく、ジルがいちばんとくべつだと伝えるからだ。
思い出してジルは熱くなった頬を両手で包む。説明のかわりに、またもうううと唸り声が出た。
列に並んでいる間はよかったのだ。ハディスを出し抜いて、パンを食べることにちょっとわくわくもしていた。たまにハディスは店の中からパンを運びに出てきてそのたびにきゃあきゃあ言われているのは気になったが、あの顔だし人気があるのはいいことだ。どれだけ黄色い声をあげられてもてきぱき仕事をしているハディスの姿も、皇帝の顔とは違ってなかなか新鮮で、自分の知らないハディスの顔をまたひとつ発見したことも嬉しかった。
だから気づかなかったのだと思う。
いつも自分に向けられるハディスの目が、表情が、声が、どれだけ違うのか。
見つかったとき動けなくなったのはまずいと思ったからだが、何よりジルを目にした瞬間にあきらかに変わったハディスの雰囲気にあてられたからだ。
もちろんそれこそジルが知っているハディスなのだけれど、自分に向けられている顔は特別だったのだと唐突に自覚してしまった。
(しかも陛下もなんか、いつだって食べられるとかいうし! そうだけど!)
普段ふたりきりで言われたら、そうだなと納得するだけですんだ台詞も、あの場面で言われると威力百倍の睦言だ。
その結果、子どもっぽい捨て台詞しか出てこなかった。思い出すと羞恥が込み上げてくる。
「お、お店のひとになんて思われたか……」
優しく接客してくれたあの女の子には、ただひたすら申し訳ない。きちんとお礼も言えなかった。夫が世話になったのだからしっかり挨拶をしなければなどと張り切っていたことを撤回したいくらい、恥ずかしい。
「まあいいだろ。そういうこともあるって」
「よくないです、ものすごくかっこ悪いですよわたし! 明日のご挨拶でどんな顔すればいいか」
「気になるなら謝ればいいじゃねえか」
「馬鹿ねーアンタ。ジルちゃんは陛下の近くにいる可愛い女の子には、隙のない完璧な妻を演じたかったんでしょ」
カミラの指摘がぐっさり胸に突き刺さる。
ジークが面倒そうに頭のうしろをかいた。
「別にいいだろそんなの……隊長のいつものノリで乗りこんでくほうがまずいだろうが」
「ま、それもそうねえ。たまにはかわいげがあったっていいと思うわよ、アタシも」
「その言い方だと普段まったくかわいげがないってことですね……」
「あらやだジルちゃんがすねてる」
「あの……竜妃殿下でしょうか……!」
三人でいたところに声がかけられた。軍人ではない、街の青年だ。すっとジルをかばうようにジークが前に出て、カミラがよそ行きの笑顔で応じた。
「何かご用? あなたはラーデアの住民かしら」
「あ、はい、そうです。す、すみません、もしやと思って……その……お耳にいれておきたいことが……」
警戒されているのがわかったのだろう。ジークを気にしながら、青年が声をすぼませる。
「何か話したいことがあるってことね。どうしたの?」
ジークが威圧する一方で、カミラが話しやすいよう水を差し向ける。はい、と青年は頷いた。
「さっき、見かけない奴らが昼間から酒場でこそこそ話してて……ああ、ぼくは酒場の店員なんですけど」
「見かけないね。街に入り込んだ盗賊の類いかしら」
「わ、わかりません。でも会話が、その……パン屋の人間を狙って、皇帝陛下を脅そうとか聞こえて、だから知らせなきゃと」
「おうかがいします」
ジルはカミラとジークの間から、一歩前に出た。焦った様子の青年が安心できるよう、にっこりと笑う。
「だから、落ち着いてお話を聞かせてください」
「よ、よろしいですか。ただの聞き間違いかも……」
「大丈夫ですよ。わたしは竜妃なので、竜帝を守るのが仕事です」
だから遠慮なく話せばいい。ほっとした顔で、青年が頭をさげた。