ラーデアのパン屋さん⑦
なんだってくるときはくる。心の準備など関係ない。
それこそ初めて会ったとき、突然彼がパン屋さんとして顔を出したように。
「ハ、ハディスさん!?」
「ああ、おはようユウナさん」
エプロンに三角巾、ミトンまでつけたハディスが焼き場から顔を出した。口をぱくぱくさせるユウナに、居間のほうから出てきたおばあさんが笑う。
「ほんとにハディスちゃんは、色々突然だからねぇ。ユウナちゃんもびっくりしちゃってるよ」
「だ、だってあの、え……っだ、大丈夫なんですか、ここにきて!?」
「え、だめだった?」
きょとんと見返されて凍り付いた。だめなわけがない。
だがしかし、目の前にいるのがこの国の皇帝陛下だと思うと、難しいことがぐるぐるして思考が固まるのだ。
「ええとごめんね。おばあさんには連絡しておいたんだけど、昨日の夜。みんなをびっくりさせちゃったみたいで……」
「そ、それは……まあ……」
皇帝だからだ。
今後どうするんだろうとみんな気を揉んではいたけれど、本当にきたらどうしたらいいかまでは頭が回っていなかったのだ。
「とりあえず、明日の昼まで時間ができたから」
「明日の昼まで……」
「うん。明日の夕方は大公就任のなんやかんやがあるでしょ。それに出なきゃいけないから、帰らないと怒られる」
「なんやかんや……」
「まぁ、僕はにこにこしてればいいだけだから」
待て、それはこの街にとってものすごく重要な式典じゃないのか。ハディスの背後で一緒に働く職人のひとりはそっと目をそらし、もうひとりは悟りきった目で黙々と作業をしている。
そんなユウナの背中を、そっとおばあさんが叩いた。
「大丈夫だよユウナちゃん。ハディスちゃんだよ」
「……」
その声に含まれたものに、ユウナはハディスを見る。
ハディスの姿は少し前、ここで働いていたときと何も変わらなかった。ただ少しだけ、困ったような顔で口元をゆるめる。
「迷惑かな」
「い、いえ大丈夫です! みんな喜ぶと思うから」
「よかった! ヴィッセル兄上もきっとそうなるだろうからって許してくれたんだ」
その兄上ってこの国の皇太子とかでは――と思ったが、頭をぶんぶん横に振って追い払うことにした。
それよりも確実にやってくる現実がある。
(い、急いで準備しないと)
落ち着いてきたとはいえ、ハディスが残したレシピのパンを、竜帝のパンだと買いにくる客は後を絶たない。
そこへ竜帝本人がきていると知られたらどうなるか。子どもだってわかることだ。ハディスはこの調子だから、隠す気などまったくないだろう。引っこんでいろなどとも言えない。
「お、おばあさん、少しだけ手伝ってもらってもいい? 今日はきっと大忙しになるから……!」
「だよねえ」
焦るユウナにおばあさんが嬉しそうに笑う。
難しいことはわからなくても、それがいちばん正しいことのような気がした。
■
「僕がこられるのは最後かもしれないから、いっぱい作っていっぱい売ろう!」
皇帝が言えばそれは命令だ。だが職人も嬉しそうに笑って、それに頷いた。ユウナもさみしかったけれど、笑って頷き返した。
材料が足りるのか心配する前に、裏口にどっさり小麦粉やバターが届けられた。届けにきたのはハディスを「パン屋」と呼ぶ軍の人達である。ハディスはやはり皇帝なのだ、と思う一方で「兄上はさすが、気が利くなあ」とか本人がのんびりしているものだから、なんだかどうでもよくなってきて、開店する頃にはハディスをパン屋だとしか思わなくなっていた。
竜帝本人がいるらしい。その噂は、午前中にはあっという間に街中に広がった。
いつものカウンターでは追いつかず、外に長机を出し、簡易の店舗を作った。近所のひとまでかり出しての売り出しである。給料はハディスが先日儲けたときのお金で出るらしい。
あまりに人がくるものだから、見かねた街の見回りである兵が、列整理を買って出てくれた。
「パンはおひとり五つまでです。四列に並んでお待ちください。最後尾はこちらですー」
「こちら焼きたてです~!」
たまにハディスが店内からパンを運んでくると、きゃあっと黄色い声があがる。意外にもハディスは人なつっこい笑顔で、きちんと目を向けていた。手を振ってもらってはしゃいでいる女性は数知れず、行列には並ばず遠くから拝んでいる老夫婦まで出てくる始末だ。
できるだけハディスが皇帝だということは意識しないようにしているユウナだが、ハディスがここにくることが許された理由がなんとなくわかった気がする。ハディス自身はどう思っているか知らないが、要は人気とりだ。
あまり自分には関係のない話だと深く考えてこなかったが、ハディス・テオス・ラーヴェといえば呪われた皇帝として有名だった。皇帝になってまだ数年だが、決して評判はよくない。ユウナもたくさんの皇太子が不審死したとか、不吉な噂しか耳にしたことがなかった。
くわえて最近は、幼女趣味という噂まであった。
だが、にこにこ笑っているハディスを見ていると、噂はあてにならないなと思う。
(大変だなあ。皇帝って)
同時に、生きているひとなのだと思う。
お客さんが頼んだパンを用意して、袋に入れて、渡す。ユウナと同じようにそういうことをして生きているひとなのだ。
ありがとうございました、と頭をさげてお客さんを見送り、ざっと今ある商品を確認する。そして声を張り上げた。
「申し訳ありません、いちごのジャムパン、本日売り切れです~!」
「えっ!?」
間近で聞こえた声に、まばたいた。
聞こえたのは、思ったより少し下の位置だ。視線をさげると、金髪に紫の目をした可愛い女の子が、衝撃を受けた顔で固まっていた。