ラーデアのパン屋さん⑥
「――ってことがあったのよジルちゃん。だから陛下の荷物は回収し損ねたわ」
訓練場で丸太に正拳突きを繰り返していたジルは、カミラの報告に深呼吸した。足元ではぺたんと地面に尻餅をついたローがあくびをしている。
「そうですか。確かに非礼でしたね。よかれと思ったんですけど……」
「結構うまくやってたみたいだな、陛下」
「パン屋もすごい繁盛してたみたいだし、人気あったんでしょうね。陛下、生活力が高いから」
ふうっと呼吸を整えて、カミラを見あげる。
「陛下が言うおばあさんにはわたしもちゃんとご挨拶したいと思ってましたし、陛下の仕事が一段落つくまで待ちましょう」
「あら陛下の言い訳、怒らなくていいの?」
「駆け落ちの件ですか?」
右の拳が丸太を折って吹き飛ばしていく。うぎゅっと声をあげてローが飛び起き、カミラとジークが頬を引きつらせた。
「陛下の中ではそうだったんでしょう。陛下の中では」
にっこり笑うジルに、カミラとジークとローがふたりと一匹で固まってひそひそし出す。
「おま、だからやめろっつっただろ……!」
「違うわよこれ、ずっと怒ってるんでしょジルちゃん。ローちゃんなんとかして」
「うぎゅ」
「ねぇ今無理って言った? 陛下の心のくせに無理ってどういうことなのよ!」
「ジルーーそろそろ夕飯の時間だよーーー!」
頭上から声が響いた。顔をあげると、ハディスが訓練場を囲む建物の窓から顔を出して手を振っている。
「わかりましたー! もうちょっとしたら行きますー!」
ちょっと遠いので、声を張り上げると、ハディスも声を張り上げた。
「早くねーー! 僕、明日か明後日、出かけると思うしーー!」
たった今報告を受けたばかりの、件のパン屋訪問だろう。
ひいっと背後で部下たちが震え上がる。
「な、なんつータイミングで」
「ちょ、ちょっとあんた、陛下のところに行って忠告してきて! ローちゃんも!」
「う、うぎゅ」
「わかりました、神器の威力を確かめてから行きますーーーー!」
「うっぎゅうぅぅぅぅ!」
悲鳴をあげたローを抱いてジークが駆け出す。
ハディスはきょとんとしていたが、最後は手を振って顔を引っこめた。
「ほんと、困った陛下ですね。あんなふうに自分の外出予定を堂々と公言して」
「そ、そうね……」
「さてと」
ふうっと肩から息を吐き出したジルは、左の手を前に出す。なぜかカミラが慌てだした。
「ま、待ってジルちゃん。まさかそれで陛下を今から殴っ――」
魔力をこめると、金の指輪の中にある赤と青の宝玉が金色の鞭に変化した。訓練場の端にある的をすべてなぎ払い、もくもくと煙があがる中で、ジルは分析する。
「やっぱり左手に武器を出すほうが出現が早いな。右に出そうとすると一拍遅れる。それとも慣れか?」
「ジルちゃん、アタシとお話しましょ!?」
「でも、鞭はなかなかいいな。お母様が愛用していた理由がわかる。縛りあげるのにも殴りつけるのにも吊すのにも丁度いい……」
「ねえお願い、こっち向いて!」
「怒ってませんよ」
背後からカミラが泣きつくので、向き直った。案の定、カミラは黙った。
本当だ。怒ってなんかいない。敵の奇襲を受けて先手をとられたのに、統率を失った軍をまとめ、ラーデアを救ったハディスに、あれ以上怒ることなんてできない。
(そうじゃなくて、わたしは)
自覚があるから、声がすぼむ。
「ちゃんとご挨拶しなきゃいけないと思ってます。おばあさんは、クレイトスと小競り合いがあった年代の方でしょうし……できるだけ、印象良くしたいし……」
「ジルちゃん、それは……」
「それに、カミラが話したっていう……陛下の荷物を渡さなかったってひとは、きっと女の子なんでしょう」
「え? あ……ああ……」
「陛下はもてるんですよ。妻ですから知ってます」
半分むくれている顔を部下に見られたくなかっただけだ。特にハディス本人と、ローには。
カミラはまばたいていたが、少しだけ真顔になった。
「……アタシの見立てだと、かっこいい近所のお兄さん程度よ? そういうんじゃないわあれは」
「でも、あと半月もわたしが遅れてたら、どうなってたかわかりません」
「陛下は駆け落ちにきたって周囲に説明してたのよ? 結婚してるの隠さなかったって」
「でも、それとこれとは別じゃないですか」
少し黙りこんだあとで、カミラがジルと目線の高さを合わせてくれた。優しい、大人の目だ。
それがなんとなく悔しくて、でも悔しさついでにつぶやく。
「わたし、心狭いので。でも、ただでさえ子どもだし」
「うん、そうよね。好きなひとから子ども扱いされるのはさけたいわよねえ」
「……普通の女の子は天敵です。女神を折るほうが楽です」
最後に肩を落としてつぶやくと、しゃがんでこちらを見ていたカミラがはーっと両腕を組んでその中に顔を埋めた。
「あー陛下ぶっ殺してぇ……」
「なんでですか」
「気にしないで。いいのいいの、さっきの顔が見られただけで役得」
立ちあがったカミラが、腰に手を当てて苦笑いを浮かべる。
「少しはすっきりした?」
「……はい」
「じゃ、行きましょ。陛下が心配しちゃう」
頷くと、するりと金の鞭が指輪に戻った。先に歩くカミラを見て、はっと思い出す。
「あの、カミラ! さっきの話は陛下には」
「わかってるわよ、内緒でしょ」
振り向いたカミラがぱちんと片眼をつぶってみせる。
一瞬ほっとしたが、ジルはすぐそのあとを追いかけて、念を押した。
「絶対ですよ? カミラはたまにそう言って裏切るから」
「あら信用ないのね、アタシ」
「逆に信用があるんですよ。カミラは気を遣うから、わたしと陛下の仲を取り持つとかするでしょう」
「そこまで親切じゃないわよぉ、アタシ。今、陛下ちょっと死ねって思ってるし」
「……さっきからそう言いますけど、カミラじゃ陛下に挑んだって瞬殺ですよ?」
「そうねーあっははははは、ジルちゃんってば相変わらず男心がわかんなーい」
わけがわからない。
だがカミラは笑ってそれ以上説明しなかった。