ラーデアのパン屋さん④
「ご冗談を」
即座に吐き捨てたヴィッセルに、リステアードもむっと表情を変えた。エリンツィアが眉をさげる。
「そうか……やっぱりその、抵抗があるか」
「当然でしょう。私はあなた方を全面的に信頼したわけじゃない」
「お前、まだそんなことを……!」
「リステアード」
静かにエリンツィアに制されて、リステアードが不承不承という顔で黙る。ハディスはジルと一緒に静かにそれを見ているだけだ。
エリンツィアが、深呼吸をした。
「お前の気持ちはわかる……と言われるのは、嫌だろうな」
「そういうところの察しはよいですね、エリンツィア様は」
「……今更だと思われるだろうが、私は反省しているんだ。争い事を忌避するあまり、お前やハディスを積極的に助けようとしなかったこと。リステアードや他のきょうだいとの溝を取り除こうとしなかったことも含めて。お前もハディスも優しい子なのにな」
「あなたにかかれば、ほとんどの人間が善人になるでしょうね」
肩をすくめたヴィッセルの前で、エリンツィアがゆっくりと自分の手に目を落とした。
「ナターリエに言われた。いちばん上なんだから、と。……確かにそうなんだ。今、ラーヴェ皇族として残っているきょうだいの中で、私が最年長になってしまった」
「なんですか。まさかハディスのせいだとでも」
「違う、そうじゃないんだ。だからその――、鉄拳制裁が必要だと」
一拍、見事に間があいた。
限界まで眉根をよせて、ヴィッセルが聞き返す。
「――は?」
「ナターリエに喧嘩するようなら、殴って止めろと言われた」
「誰を」
「お前たちを」
ヴィッセル、リステアード、ハディスとそれぞれ目線を合わせて、エリンツィアが拳を握る。
「ということで、ヴィッセルは今後、私たちに様付けをした場合、一発殴る!」
「何が、ということで、なんですか姉上!?」
「大丈夫だ、リステアードもヴィッセルに兄上をつけないようなら殴る! これで平等だろう!」
口をあけてリステアードが惚ける。ああ、とエリンツィアが手を叩いた。
「もちろん、ナターリエとフリーダにもヴィッセルを兄上と呼ぶよう私が徹底させる。ただ、ナターリエもフリーダもか弱いからな。拳じゃなく、でこぴんくらいで許してやってほしい」
頭痛をこらえるように眉間に指をあてて、ヴィッセルが肩を落とし、確認した。
「つまり、なんですか。私がリステアード様、エリンツィア様、ナターリエ様、フリーダ様、今後そう呼べばあなたの拳が飛んでくると?」
「そういうことだな!」
「なぜそう自慢げなんです」
「それならお前、私たちを心置きなく呼び捨てにできるだろう?」
数度だけ、ヴィッセルがまばたいた。エリンツィアが胸を張って笑う。
「私のことは姉上でいいよ」
「……」
ジルと並んでリンゴを食べながら話を聞いていたハディスが、口を開いた。
「エリンツィア姉上に殴られたら痛いと思うよ、ヴィッセル兄上」
「ハディス。お前は私の味方じゃないのか?」
「だって僕に仕事させるし」
ハディスの回答に、ジルは少しだけ笑ってしまった。片眉を少し動かしたヴィッセルが、心底疲れたように嘆息する。
「……わかりました。いいですよ」
「そうか! わかってくれるか! これで解決だな!」
「姉上……僕は何ひとつ解決できたように思えないんですが……そんな無理矢理は悪影響でしょう、ナターリエも一番やる気にさせると厄介な姉上に何を吹きこんで……」
「ですが私は無能なきょうだいはいらない主義です」
ぶつぶつ言っていたリステアードが、勢いよく振り向いた。
「僕が無能だとでも言うのか、お前!」
「リステアード」
ヴィッセルの呼びかけに、リステアードが見事に固まった。だがヴィッセルは涼しい顔で、すらすら話を続ける。
「ノイトラール公とレールザッツ公へ今回の顛末についての報告と、調整を。竜に乗れるお前が一番早い。ラーデア大公の就任を認めさせてこい」
「……は……は?」
「ついでにフェアラート公のところへもお邪魔してくるといい。ああ、名目は私が婚約者の安否を気遣ったとか理由は適当に言っておけ。大事なのは、私がお前をよこしたという事実だ。意味はわかるだろう? 無能じゃないなら」
挑むようにヴィッセルに笑われ、呆然としていたリステアードが我に返った。やや緊張した面持ちで、大きく頷く。
「と、当然だ! ……僕が、三公の調整をすればいいんだな」
「ああ。どこも問題がないと判断したら帝都に戻ればいい、その頃には私やハディスも帝都に戻り始めてるだろう」
「わ、わかった。細かい判断は、僕にまかせるんだな」
「お前が適任だからね。いっておいで」
「わ、わかった」
「それと姉上」
自分で言い出しておいて、エリンツィアは驚いたようだった。自分の顔を自分で指さしている。ヴィッセルが心底嫌そうに口を動かした。
「あなたですよ。今すぐ帝都に帰ってください」
「は? なぜだ」
「サウスに任せておけばここの現場は動きます。とっとと戻って、ナターリエとフリーダの身辺警護を固めてください。できるだけ何も起こらないよう手は打ってきましたが、何分敵が多いもので。特にリステアードが調整に飛び始めたら、何を勘繰る輩が出てくるかわからない」
戸惑っていたエリンツィアの顔が、たちまち真剣なものに変わった。
「わかった。今からぶっ続けで飛べば明日の早朝には帝都につく。まかせておけ」
「姉上、僕も行きます」
踵を返したエリンツィアにリステアードがついていく。
あっという間の采配だった。
ふうっとヴィッセルが肩を落とす。
「これでうるさいのがいなくなった」
むっとジルは目を細める。
「……お前、まさかわざと」
「あとで仕事を持ってこさせるからね、ハディス」
「はーい」
呑気なハディスの返事に軽く手を振ってヴィッセルも出ていく。
ふたりきりに戻った部屋で、ジルはハディスに尋ねた。
「いいんですか、陛下。あれで」
「すごいよねえ。ヴィッセル兄上が他人を使うんじゃなく、仕事をまかせるなんて」
きょとんとしたジルにハディスが嬉しそうに笑う。
「ヴィッセル兄上、そのうち過労死すると思ってた。意地っ張りだから」
「……そんな可愛いもんじゃないと思いますけど」
でも、ハディスの言いたいことはなんとなくわかったので、ジルは大きく口をあけてリンゴをまるごとかじった。




