ラーデアのパン屋さん③
「パン屋さんに挨拶に行こうと思ってるんだ」
やっと回復して起き上がれるようになるなり、ハディスがそう言った。
開けっぱなしの窓からは柔らかい日差しが差し込み、薄いカーテンをそよ風がゆらしている。きっと今が、ラーデアでいちばんすごしやすい季節だ。内乱が勃発しかけたとはとても思えない、優しい一日である。
寝台脇に座っていたジルは、ベッドで上半身を起こしているハディスを振り返った。
「陛下がラーデアで雇ってもらったっていう、パン屋のおばあさんですか?」
「うん。おばあさんだけじゃなく、近所のひとやお店のひとにもちゃんと挨拶したいなって。避難だなんだってばたばたしてたから、ろくに挨拶もできてないんだ。お世話になったのに」
ふむ、とジルは頷く。
「それはちゃんと挨拶しないといけないですね。でもまだ駄目ですよ、陛下。昨日熱がさがったばっかりです。あ」
目を離していたせいで、リンゴに果物ナイフがざっくり刺さった。
「せ、せっかく出だしの調子はよかったのに……!」
ハディスの看病に剥こうとしていたリンゴだ。簡単にいくとは思っていなかったが溜め息が出てしまう。ベッドからハディスが身を乗り出した。
「お願いジル、代わって。見てる僕が怖い」
「だめです! わたしが皮を剥きます!」
「でも皮じゃなくて実を剥いてるから」
「じゃあ皮を食べてればいいじゃないですか、陛下は!」
途中でざくっと切れたりした今までの戦績を皿の上にのせて目の前に出してやる。ハディスが皮のついたリンゴを持って、肩を落とした。
「皮を剥こうとして、どうやったらこうなるの?」
「陛下。私。人体さばくのならできると思いますよ……? どこを刺せば内臓を傷つけないかとか」
「なら今度、魚のさばき方からやってみようか。はい、あーん」
ハディスにそう言われると、ついつい素直に口をあけてしまうのがジルの最近の癖である。
(うーん、よくないなあ)
しゃりしゃりリンゴを食べていると、ハディスが口を開いた。そこにできるだけ皮のついていないリンゴを差し出してやる。ジルの手から上手にリンゴをかじったハディスに、ジルはむくれた。
「ほら、ちゃんと食べられるじゃないですか。おいしいでしょう」
「そりゃお嫁さんが用意してくれたんだから、おいしいリンゴに決まってる」
「味は変わりませんよ」
「変わるよ?」
ちょっと下から顔を覗きこまれてひるんだ。これは戦うと負けるやつだ。一刻も早い戦略的撤退が必要である。
そこへ助け船のように、背後からリンゴの皿に誰かの手が伸びてきた。
「相変わらず仲良しだな、ジルとハディスは」
「エリンツィア殿下! リステアード殿下も」
リンゴを食べているエリンツィアにしかめっ面をしながら、リステアードが嘆息する。
「行儀が悪いですよ、姉上」
「いいじゃないか、山盛りになっているし。お前も食べろ」
「結構です。ハディス、起き上がっていて平気なのか」
「リステアード兄上、ちょうどよかった。僕、二日くらい外に出たいんだけど。あ、警備なしでね!」
「駄目に決まってるだろう!」
なんのためらいもなく、リステアードが却下した。ハディスが目を細める。
「けち」
「何がけちだ! こっちは休ませてやろうと調整してるんだぞ。帝都に帰るまでに諸々の後任を決めて、何より今のうちにジル嬢をラーデア大公に就任させておかないと」
「えっわたしですか? いいんですか、十一歳の大公とか……」
自慢ではないが、政務関係の能力はさっぱりだ。リステアードが腰に手を当てた。
「心配するな。君もハディスもラーデアを自ら救いに来た英雄。とどめに三百年ぶりの竜妃だ。今なら歓迎されこそすれ、反発はない。政務的なことは、補佐官を含む後任をきちんと選べばいい。ちゃんとラーデアに詳しい者を選ぶ予定だ。安心したまえ」
「そ、それならまあ……はい」
「外に出る用事があるなら、私が代行してもいいぞハディス。復興作業で私は外回りだから」
気軽に申し出たエリンツィアに、リステアードが青筋を浮かべる。
「姉上はほいほい外に出ていきすぎです……サウスにすべてまかせて、竜騎士団の稽古をつけてると聞きましたが?」
「うん? サウスのほうがこちらに詳しいし、今、瓦礫撤去だの主力で働いているのは彼の配下だ。そのほうが効率がいいだろう」
「そうかもしれませんが!」
「それに、お前とヴィッセルがいれば私がすることなどないし」
「それもそうかもしれませんが!」
「ならなんだ。自分の竜騎士団に私が稽古をつけるのが嫌ならそう言え」
図星だったのだろう。頬を引きつらせたリステアードが、唸るように反論する。
「いいえ、おかげさまで勉強させていただいてますよ……!」
「ジル、何かあったの? あのふたり」
「なんか、ジークとカミラの話だと、魔術障壁のときに互いの竜騎士団の練度の差が出たとか」
ああ、とハディスが納得したように目を細める。
「ノイトラール竜騎士団はちょっとおかしいからね……」
「おかしいってなんだ、失礼な」
「誰もいないと思ったら、全員ここか」
出入り口から声がもうひとつ割って入ってきた。ぱっとわかりやすくハディスが顔を輝かせる。
「兄上!」
ヴィッセルだ。むっとジルは唇をすぼめて、ハディスの腕にくっつく。リステアードは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。笑顔で挨拶を返したのはエリンツィアだけだ。
ヴィッセルはちらと周囲の様子を一瞥したが、あくまでハディスに笑顔で話しかけた。
「ハディス。起きていて大丈夫なのかな? 無理はだめだよ」
「平気だよ。あのね、兄上。僕、外に出たいんだ」
「外に? 何か用事があるのかな?」
リステアードのように一刀両断にはせず、ヴィッセルがうながす。ヴィッセルはハディスに対してだけは気味が悪いくらいに優しい。最近、間近でそれを見る機会が増えて、ハディスがヴィッセルになつく理由がよくよくわかった。
(甘やかしてくれるからだ)
それはもう、ハディスの言うことに間違いなどない勢いでヴィッセルは全肯定するのである。
「お世話になったパン屋さんに挨拶したくて」
「なるほど。それは大事だね」
「それにお礼もかねて、もう一度、パン屋さんの手伝いをしたいんだ。荷物も置いてあるし、できれば一泊、最低でも丸一日、自由な時間がほしい。だめかな?」
「皇帝がそんなこと、できるわけないだろう!」
「ってリステアード兄上は言うけど、ヴィッセル兄上ならいいって言ってくれるよね?」
「おまっ……」
しかし、ハディスも大概、甘え方があざとい。リステアードの血管がこめかみに浮き出ている。どうどうとエリンツィアがなだめていた。
ずっと笑顔でハディスとやり取りをしていたヴィッセルが頷いた。
「わかった。いいよ。それだけお前が元気になったってことだしね」
「ほんと!? ありがとう、兄上」
「ただし今から私が言う仕事を全部終えてからね。元気になったんだからね」
しん、と静寂が落ちた。
ちょっと首をすくめたハディスが、そろそろと笑顔の兄を見あげる。
「えっと……仕事って……」
「仕事だよ。お前は皇帝だからね」
「ど……どれくらい……?」
「お前は賢い子だからわかるだろう」
「……」
「頑張ろうね、ハディス。あとでここに持ってこさせるよ」
ただ、ヴィッセルが一方的に甘いわけではない、ということもわかり始めていた。要は飴と鞭の使い分けがすさまじいのだ。
いけ好かない小舅だが、ハディスのこういう扱いに関してはほめてやってもいい。
笑顔でハディスの甘えを封殺したヴィッセルは、さめた目でリステアードとエリンツィアを見る。
「いちいちハディスのわがままにつきあってないで、リステアード様もエリンツィア様も仕事をしてください」
「……一応、病み上がりだ。その、無理はさせるなよ」
しかめっ面で念押しするリステアードに、ハディスが喜色を浮かべる。だがその頭は、すぐさまがしっとヴィッセルに押さえ込まれた。
「心配なさらずともハディスの限界はわきまえてますよ、リステアード様」
「限界って何!? リステアード兄上、もっとヴィッセル兄上に言って!」
「ハディス、お前はできる子だよ」
「そう言ってヴィッセル兄上は僕にものすごくたくさん仕事させる!」
「あ、あーヴィッセル。ちょっといいか。リステアードも」
遠慮がちに軽く手を挙げたエリンツィアに、三すくみになっていた兄弟が目を向けた。
こほんと咳払いをして、エリンツィアが言う。
「そろそろ、私やリステアード、きょうだいに対する様付けはやめないか」