ラーデアのパン屋さん②
ユウナの予想どおり、次の日行商に出たハディスは、それだけで一躍ラーデアの有名人になっていた。
何せ、ものすごい美形がものすごくおいしいパンを売っているのだ。女性客が殺到し、いきなりおばあさんのパン屋さんは連日にぎやかになっていた。
ユウナに売り子のお願いがきたのは、そのすぐあとのことだ。
「ハディスちゃんがねえ、お城にお呼ばれすることになってねえ」
完売で店じまいをしていたおばあさんを手伝っていると、そんなふうに切り出された。
「お城? ってことは軍にってこと?」
「そう。ぜひ、パンを運んでくれって頼まれたらしいよ」
名誉のことなのだろうが、ちょっとユウナは不安になる。
最近のラーデアは騒がしい。偽帝騒乱と呼ばれる反乱を領主であるゲオルグ大公が起こしたとか、そのせいで十一歳の女の子が次の大公になりそうだとか、難しい話が飛び交っている。そのうえ、ひとがふえた。クレイトス軍が竜妃の神器を狙って攻めてくるとかで、帝国軍がやってきたからだ。
「大丈夫なの? その……パンを売れなくなったりしない?」
「ハディスちゃんがね、新しい職人さんをふたり雇ってくれて、レシピも用意してくれたんだよ。あの子は本当に賢くて優しいからねえ。それで、売り子も頼んだほうがいいって言われたんだよ。ユウナちゃんはどうかって」
「え? 私?」
「うん、よかったらお願いできないかな。ちゃんとお給料も払うよ」
ひょっこり店の奥から顔を出したハディスがそう言った。ずば抜けた美貌はそうそう見慣れるものではなくて、いちいち息を呑んでしまう。
「たぶん、僕は軍のほうにかかりきりになると思うんだ。職人さんは今日入ってもらっただけで、まだ馴染んでないし……でもユウナさんなら、おばあさんも安心でしょ。今だって手伝ってくれてるし」
「こ、これは……なんというか、癖というか」
「うん、だからユウナさんにならまかせられると思うんだ」
にこにこ言われるとなんだか恥ずかしくなってきてしまう。だが、有り難い話だ。今このおばあさんのパン屋さんの繁盛振りは、端から見ていてもすさまじい。
「わ……私でいいなら」
そう答えると、ハディスがふわっと笑った。
「よかった。ありがとう。これで安心してお城に行けるよ」
「あの……気をつけてね」
なんとなく、そう付け加えてしまう。するとハディスは不思議そうな顔をした。
「お城だよ? いちばん警備が厳しくて安全なんじゃないかな」
「うん……そうなんだけど、関わらないですむなら一番いいから。戦争なんて」
父親などは政治が戦争がと酒場で軍人たちと意見を酌み交わしてご機嫌になっているが、ユウナは目の前の生活のほうが心配だ。食料や生活必需品の品切れや物価の高騰だって経験した。パンがなくなったと思ったら、その三日後に値段が二倍になって並んだときの衝撃は忘れられない。
(いつまたそんなふうになるかわからないのに、戦争だとかなんだとか、やだなあ)
ただ、南に隣接しているレールザッツ公爵様の支援で、一時期にくらべ食料問題は供給も値段も落ち着いた。そうすると今度は人手不足だ。増えた需要に供給を追いつかせようというわけである。
おかげで今、ラーデアは景気がいいらしい。確かに人通りも増えたし、兵があちこちいるので治安もよくなった気がする。派遣されてきたというサウス将軍はいいひとだとユウナも思っている。
でも、これが戦争の準備だと言われると、やっぱり手放しでは喜べない。
どこかで日常が非日常に変わりそうな、あやういところに自分達は立っている。だから身近だったパン屋のおばあさんに忍び寄ってきている非日常らしきものに、警戒してしまうのだ。臆病と言われたらそれまでだけれど。
「そっか。そうだよね」
ハディスは笑わずに頷き返した。戦争特需だ、今こそ正しい政治をなんて血気盛んなひとたちとは違うらしいと、ユウナは少しだけほっとする。
「心配しすぎかもしれないけど」
「ううん。ありがとう、気をつけるよ」
「そうだよ、ハディスちゃん。何かあったら泣くのは奥さんだからね、それだけは気をつけなさい」
おばあさんの忠告にぎょっとして、ユウナは神妙に頷くハディスをまじまじ見てしまった。
「け、結婚してるんだ、ハディスさん……」
質問に、ハディスはわかりやすくはにかんだ。
「う、うん。で、でも正式にはまだなんだ! しゅ、周囲に色々、反対されてて……」
「え。じゃ、ラーデアはまさか、落ち合い先……とか……?」
「そ、そんな感じかな?」
駆け落ちではないか。びっくりすると同時に、なんだかどきどきしてしまう。
「だから、対外的には婚約者止まりなんだけど、で、でも、もう気持ち的に僕は妻帯者っていうか……へ、変かな?」
せわしくなくまばたきしたハディスは頬を染めてもじもじしている。ユウナは急いで首を横に振った。
「ううん。素敵だと思う」
本音だった。結婚するにはハディスはまだ若いような気がするし、駆け落ちなんて物語みたいでまるで現実感がないが、ハディスがそわそわしている姿はとても微笑ましい。そして同時に興味がわく。
こんな美形があからさまに『恋をしてます』というような顔をするのだ。どんなお相手なのだろう。とんでもない美人だろうか。それとも可愛いのか。
「あ! ひょっとして、奥さんはあとからラーデアに引っ越してくる予定なの?」
「えっ……う、うん。今、追いかけてきてくれてると思う」
「そっかあ。じゃあ、奥さんをここで待ってるんだね」
素敵だ。本人たちは大変だろうが、そう思ってしまう。
だが不思議なことに、ハディスに対してあった『このひとは自分たちと同じじゃない』という線引きが薄くなった気がした。
(普通の男のひとに見える)
はーっと息を吐き出したユウナは、ぐっと拳を握る。
「じゃあ、パン屋としての実績をしっかり作らなきゃだね! そのために修業中なんでしょ」
きょとんとハディスに見返されてしまい、早とちりかと、ユウナは焦る。
「ご、ごめんなさい。違った? 結婚後は違う仕事をする予定?」
「……ううん、間違ってはいないよ。そうだよね。夫婦でパン屋さんかあ、いいな」
「きっとそうなるよ」
どこか遠い目をするハディスは奥さんを待っている。でもきっとうまくいくか、不安だろう。励ましたくてユウナは勢い込む。
「せっかく繁盛してるんだから、結婚式の資金もためちゃおう!」
「け、結婚式かぁ……ま、まだ早いんじゃないかな」
「急がなくてもいいけど、落ち着いたら簡単でもいいから絶対やったほうがいいよ。奥さん、喜ぶと思う」
ハディスは何度もこくこくと頷き返した。真剣で妙に可愛い動作だ。
「頑張ろうね。私も頑張ってハディスさんのパン、売るから!」
「うん、ありがとう」
「奥さん、紹介してね」
「もちろん、つれてくるよ。びっくりするかもしれないけど」
ふふっとハディスが意味ありげに笑う。それはどこか謎めいた仕草で、やっぱりただ者じゃない気がした。
――そしてユウナの勘は、ほんの数日後に証明されることになる。
「おばあさん、大丈夫!?」
「だ、大丈夫だよ、ユウナちゃん。避難はあっちだって、兵隊さんが」
持てるだけの荷物を持って、誘導にしたがいおばあさんと家族と一緒に街を出る。そこにハディスの姿はない。パン屋と呼ばれながら、彼は戦乱に呑まれたラーデアで軍を率い、先頭に立ったのだ。
パンを焼いていたときのように、当たり前の顔をして、戦場へ向かった。
「ハディスちゃんは、大丈夫かね……」
「大丈夫だよ、きっと」
「皇帝陛下だったなんてねえ……」
ぐっとユウナは唇を噛む。ついさっき、街を出るときに教えられた。
パン屋と呼ばれる彼の、正体を。
ふたりで持ち出したハディスの荷物を抱いて、おばあさんがつぶやく。
「あんなに幸せそうにパンを焼くのに」
その言葉の続きは、嘆きか、慈しみか。わかるようなわからないような気持ちで、ユウナは夜明け前の空をあおぐ。
あちこちから煙があがる街に、黄金の魔力の矢が降り注いでいた。銀に輝く剣が翔ていた。戦争が綺麗に見えることもあるのだな、などと他人事みたいに思った。