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ノイトラールに着いた時点で嫌な予感はしていた。
リステアードがきちんと疑惑を晴らしたのは想定内だ。由緒正しい公爵家の後ろ盾を持つ異母弟は優秀である。簡単にはつぶせない。しかし、ハディスを守り切れるかはまた別だ。
だから急いできたのだが、煙が朝焼けにとけていくラーデアの街にはもう、ラーヴェ帝国軍の軍旗が立っていた。
「ヴィッセル皇太子殿下、誰か飛んできます」
「ハディスだろう。全軍、止まれ」
馬に乗ったままヴィッセルだけが前に出て行く。その場で歩兵も騎兵も足を止め、周囲を囲んでいた竜がおりてきた。
朝日をあびて空に浮かぶ弟は、ぼろぼろだった。怪我もしているのだろう。
でも美しい。その手に持つ天剣が、かすむほどに。
馬からおりて近づくと、ハディスも地面におりて向き合う。必要なことを短く尋ねた。
「サウス将軍はどうしたのかな?」
「僕に従うって。右腕をなくしたから戦いは無理だろうけど、軍務をまかせようと思う」
そうか、とヴィッセルは冷たく頷き返す。軍人というのは強い者が好きだ。この弟が天剣を振るって空を翔れば、それだけで魅了される兵は多いだろう。それは紙一重の畏怖だ。
「それで、許すのか?」
「うん。自分から、僕に跪いてくれたから」
「裏切るぞ、きっとすぐに。何度も平気で寝返るような輩だ」
頬にこびりついた血を拭ってやると、ハディスは苦笑いを返した。
「それでもいいかって思う。……ジルが、僕にならできるって言うから」
不愉快な名前に、ヴィッセルは眉を寄せる。
「そんなにあの少女がいいのか」
「うん」
「あれは火種だ。いつかお前を傷つけるかもしれないよ。それでも?」
「竜妃の神器で僕を守ってくれた。それで十分だよ」
欲のないことだ。冷めた気持ちでヴィッセルはそれを聞く。
「リステアード兄上だって、エリンツィア姉上だって味方になってくれた」
「あんな連中、三公の意向でいくらでも風向きを変える。今までを忘れたのか、ハディス。ラーヴェ皇族の奴らが、お前に、私たちに、何をしてきたのか」
天剣を出してみせたばかりに五歳にもならぬハディスを帝城から叩き出し、辺境で飼い殺そうとした。竜帝だと頑なに認めず、女神の罠にまんまとはまって皇太子を失い続け、あげく呼び戻したハディスを化け物だと排除しようと醜い争いを起こす。愚か極まりない。
「お前の実の父親も、親族すべて皆殺し。平気でそんなことをする連中に汚された国だ」
「……そうだね」
「お前はひとりで立っていられる子だ。味方なんていても、余計傷つくだけだよ」
初めて手紙をもらったときのことをヴィッセルは鮮明に覚えている。
末端の皇子だと嘲笑され無能共に頭を押さえつけられる中で、自分を頼って届いた手紙。ろくに教育を受けていないと聞いていたのに、綺麗な字で理論的に今とこれからの提案が書いてあった。
最初から何もかも信じていたわけではない。だがヴィッセルは誇らしかった。立派に育っている弟が。その弟が兄上と呼んで慕ってくれることが。
そしてつらかった。父親と母親に会えると目を輝かせた弟の純粋さが。
踏みにじられてもなお笑い、諦め、許すその強さが。
(お前は、何ひとつ悪くないのに)
弟を傷つけるすべてを排除しよう。そう思って、ヴィッセルはここまでやってきた。
余計な望みは抱かさない。甘い夢も見させない。それは弟を蝕む毒だからだ。
でも、弟はまだ甘い夢を見たがる。
「いいのか、滅ぼさなくて。お前はこの国も、本当は竜神も、すべて憎いんだろう?」
おぼろげにそうなのだろうと隣で抱いていたことを、初めて正面から尋ねた。
ハディスが一度目を閉じた。
「ヴィッセル兄上――いや」
ゆっくりとハディスが天剣の切っ先を、ヴィッセルに向ける。衝撃はなかった。
「ヴィッセル・テオス・ラーヴェ。跪け」
いつかと望んでいた光景だ。弟の敵をすべてまとめあげ滅ぼし尽くすそのとき、喜んで首を差し出そうと思っていた。今ではない。もっと、ずっと先の未来で。
「でなければ反逆者とみなし、お前もお前の軍もすべて一掃する」
「ラーデアにいる帝国兵で立て直す気か? そんな甘さでクレイトスとは戦えない」
「クレイトスとは和解する」
両目を見開いた。
「そもそも今だって休戦状態で争ってるわけじゃないけどね。和平条約を結ぶ」
「……あの子と結婚するためか」
ハディスが苦笑い気味に微笑んだ。信じられずに、口が勝手に動く。
「女神を斃さないのか? お前、あれだけ女神を憎んで、嫌っていたのに」
「今だって大嫌いだ。……でも、ジルが僕を守ってくれるから、僕はジルが笑ってくれる未来を選ぶ。ここは――」
一度だけ言葉を迷ったのは、きっと葛藤だろう。でもハディスはまっすぐにヴィッセルに天剣の切っ先を突きつけて、宣言した。
「ここは、僕の国だ。そして僕は、皇帝ハディス・テオス・ラーヴェ!」
汚れた顔で、傷だらけの手で、ハディスがまっすぐに未来を選ぶ。
「僕の決定に従えないなら、天剣で斬る。手向けだ」
ゲオルグと同じように。そう気づいて、ヴィッセルは足元に視線を落とした。
「……もう私は、いらないか」
「ほしいよ」
即答されて、顔をあげた。天剣の切っ先はぶれない。
でも、ハディスは口の端に力をこめて、何かをこらえている。
「ただ、僕はもう兄上の理想の皇帝になれない。兄上にもう、僕の弱さの肩代わりをさせたくない。それだけだ」
今度こそ言葉を失った。
何か言わなければいけない。なだめる言葉をかけて、説得して、考え直させて。でも、何も出てこない――と思ったら、背後から突然、蹴られた。
「弟にここまで言わせているんだ、わかったの一択だろうがこの馬鹿兄がーーーーー!!」