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崩落した建物から舞い上がる煙がおさまっても、ルーファスが起き上がってくる気配はなかった。
荒い息を吐きながら、ジルは目の前に浮かんだ赤と青が入り交じる宝玉に戻った神器をつかむ。すると金色の指輪に赤と青が入り交じる宝石がおさまって――重石をつけたように体が重くなった。
高度が落ちたところで、飛んできたハディスが抱き留めてくれる。
「ジル! なんて無茶するんだ、指輪もない状態で……!」
ジルは肩で息をしながら、左手の薬指をハディスの前に見せつける。
「ど、うですか、陛下……金の指輪、戻り、ましたよ……まだ、魔力は、戻ってない、ですけど……」
ぱちりとまばたいたハディスは、なんだか恥ずかしそうにうつむく。
「う、うん……き、君の愛、毎回すごいな……!?」
「次は、陛下ですからね……!」
「えっ僕?」
「当然だろうが、どれだけわたしが心配――」
怒鳴りつけようとしたところであがった歓声に、ジルの文句はかき消えてしまった。
「……陛下」
神殿の上だ。そこに掲げられた旗が倒れたのだ――そして。
朝日が昇ってくる。
その朝日をあびて新しくまた旗が掲げられる。もちろん、バツ印はない。
深紅の生地に、黒で縫いこまれた竜神の意匠。ラーヴェ帝国軍の軍旗だ。
旗を立てたばかりの場所で、ラーヴェ帝国兵と一緒にカミラとジークが手を振っている。
――勝ったのだ。
「……やりましたね」
「うん。ああ、リステアード兄上とエリンツィア姉上まできてるんだ?」
誰かが勝利を知らせるように鐘を鳴らしている。その上空を、竜が祝福するように飛び交っていた。街を覆っていた魔術障壁は、もうない。
「ひょっとしてパン屋になったの、リステアード兄上は知ってる?」
「もちろん言いつけました」
「あー……またうるさい」
自業自得だと笑おうとしたジルは、ふと見えた地上にハディスの袖を引っ張る。
「陛下」
眼下ではサウス将軍と、帝国兵が集まり始めていた。
「まさかまだ戦う気なのかなあ。めんどくさいなぁ」
嘆息して、ハディスはジルを抱いたまま地上におりる。その手に天剣をにぎったまま、居並ぶ皆の前に立った。
それを出迎える格好になった先頭のサウスが叫ぶ。
「皇帝陛下と竜妃殿下に、敬礼!」
整列した兵たちがそろって敬礼をした。
ぽかんとしたハディスの顔を間近で見てしまったジルは、噴き出しそうになるのを堪える。
「えっ? え、なん……えっ?」
「今からでも遅くないのであれば、我々にあなたを守らせていただきたい」
右肩に包帯を巻いたサウス将軍が、目をぱちぱちさせているハディスの前に進み出る。
「私はもう軍人としては働けませんが、私の部下は陛下のお役に立ちます。お許し頂けるならば、帝国兵を名乗ることをもう一度許してやっていただけませんか」
「えっいや、僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて。僕が嫌いなんじゃなかったの?」
不思議そうにしているハディスに、サウス将軍が表情を崩す。
「――助かった、パン屋。ありがとう」
「あ、うん?」
「お前は命の恩人だ。新しい、我々の祖国だ」
ハディスがまん丸に目を見開く。
擦り傷だらけ、汚れて埃をかぶって、普段の泰然とした美貌とはほど遠い顔だ。
「そういうことだ」
でも、綺麗な目だ。朝日にも負けない、強い輝き。
「……うん」
「うっきゅう!」
ハディスの頭に、どこからかローが飛びついてきた。ハディスが体勢を崩したので、ジルは地面に飛び降りる。
「おま、なんだ突然! 危ないだろう!」
「うきゅ、うきゅん」
ハディスの背後から回りこんだと思ったら、ローは甘えるようにジルの腕の中に飛びこんできた。苦笑いして、ジルはその頭をなでてやる。
「ローもいっぱい頑張ってくれたな。ありがとう」
「うきゅー」
「でもお前、今、上からこなかったか」
さっとローが顔を背けた。その首根っこをつかんでジルは凄む。
「お前、ひょっとして飛べるんじゃないのか……?」
「う、うきゅーーー!」
「あっ待てこら逃げるな!」
ジルの手から逃げたローが駆け出した先で、カミラの足にぶつかりジークにつかまってしまう。呆れながらジルはハディスを見あげた。
「ほんと陛下そっくりですね」
「そんなこと――」
「ふむ、なかなかに面白い体験だった」
背後から聞こえた声に、反射でジルが身構え、遅れて全員が戦闘態勢をとった。
「ルーファス・デア・クレイトス……!」
「まだ動けるのか!」
「そりゃあ、こんな程度でやられたら馬鹿丸出しじゃないか。でも、ほら見て」
敵に囲まれても平然とルーファスはひびの入った片眼鏡を持ちあげてみせる。
「ひびを入れられるなんて久しぶりだった。なかなか面白い竜妃ちゃんだ。愛されているか否かではなく、愛しているか否かを語るか。――ジェラルドがほしがったのもわかる。気に入ったよ。君を僕のものにしよう」
「は?」
「これはきっと運命さ」
本気かどうかわからないその笑顔に人影がかかったと思ったら、ハディスが天剣で切り込んでいた。
宙に逃げたルーファスの長い髪先が切れ、持っていた片眼鏡が壊れる。
「殺す」
静かに告げたハディスの眼光に、ルーファスが陽気に笑いながら空にあがり、人差し指と中指をそろえて唇に当てる。
「竜帝の逆鱗か。いいね、必ず迎えにくるよ、竜妃ちゃん」
ちゅっと音を立てて投げキッスをされた。ジルの全身にぞわっと悪寒が走る。ハディスが金の両眼を見開いて天剣を持ち上げた。
だが、天剣が振り下ろされる前にルーファスがふっと姿を消した。
(転移できるなんて……どうりでジェラルド様も手こずるはずだ)
難しい顔をするジルの横で、焦点の定まらない目でハディスが唇をゆがめる。
「今度会ったら絶対に殺す……」
「へ、陛下。落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか! あいつ僕に、宣戦布告――」
「おい、ハディス! ヴィッセルの軍がくるぞ!」
上空からリステアードの声がした。周囲も顔色を変える。
何やら怒鳴ろうとしていたハディスも目を細めた。
(思ったより早いな)
現状、反乱とは言えない状態になった。だが、戦いがあったのは明らかだし、帝城でやられたように逆賊だと力業でこられたら、すべてが台無しになってしまう。
「陛下、どうしますか」
服の裾をつかんだジルに、ハディスが嘆息する。
「……大丈夫、僕が行って説明してくる」
「わたしも行きます」
「僕だけでいい。サウス、お前はエリンツィア姉上の指示に従って」
てきぱき指示を出し始めるハディスの服の裾をジルは強くつかむ。ハディスの消耗はひどいはずだ。ついていきたい。
だがジルの手をハディスはそっとほどいた。
「君はローと待ってて」
「……わたし、陛下の妻ですよ。わたしに聞かれたら困る話でもするんですか」
ハディスは笑っておどける。
「そうかも。ヴィッセル兄上は僕のこと、色々知ってるしわかってる」
「そ、それならわたしだって、陛下のことちゃんとわかりた――」
身をかがめたハディスの人差し指を、唇に押し当てられた。
「でも僕、君の前ではかっこよくいたいなって思うんだ」
そんなふうに言われたらうまく反論できなくなるではないか。
「僕らの幸せ家族計画、兄上に認めてもらってくるよ」
朝日を浴びるその微笑みがとても美しかったので、ジルは唇をへの字にまげる。
こんなにかっこよくなるなんて聞いてない。搦め捕られた恋心のように、金の指輪におさまった竜妃の神器がきらめいていた。