42
――私と心中する必要はない。
上空で始まった銀色の魔力のぶつかり合いを呆然と見あげながら、サウスはかつて聞いた主君の言葉を思い出していた。
――どんな形であれ、国は残る。負けた直後の不安はラーデアだ。竜妃が現れたのが本当ならば、神殿に竜妃の神器が顕現するだろう。私がいなくなった一瞬の隙に、クレイトスが狙ってくるやもしれん。噂の竜妃に渡していいものかどうかもわからんしな。
自分が負けることを当たり前のように話さないでほしかった。でもあのひとはきちんと理解していたからこそ、反旗を翻す理由をサウスに打ち明けてくれたのだ。
今のラーヴェ皇族は、本当のラーヴェ皇族ではないこと。天剣はクレイトスからひそかに入手した偽物であること。
それでも今までとこれからのラーヴェ帝国を守るために、後世に愚者とそしられることも覚悟で、ゲオルグ・テオス・ラーヴェは立ちあがった。
祖国を、家族を守る。その一途な心に、胸をうたれて自分たちはそれに従った。
あなたこそが我々のラーヴェ皇族。そう思って、ついていった。
――もし、私が負け、竜帝が勝って。
だからそんな話は聞きたくなかった。
――もし、あの竜帝をラーヴェ皇帝だと思う日がきたら。守りたいと思う瞬間がきたら。
そんなこと、あり得なかった。
――恥を耐え、裏切り者と笑われながら、忠誠を誓ってくれ。新しいラーヴェ帝国が、守るべき祖国が、そこにあるのだから。
そんなふうに思う日を、こさせないでくれ。
「サウス将軍……あの、パン屋は……」
本物だと思わせないでくれ。跪かせないでくれ。
夜明けのように輝き、自分たちを守る力がまぶしくて、涙が一筋流れる。
それは敗北であり、追悼であり、希望だ。
「あなたがサウス将軍ですね」
幼い少女の声に、我に返った。振り返ったサウスの顔を見て少女は少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を引き締める。金色の柔らかそうな髪に、紫の凛とした目。どこから見ても可愛い少女なのに、隙がひとつもない。
名乗られる前に肌で理解する。これが噂の竜妃だ。
「竜妃の神器をいただいていきます。陛下を守るために」
見返すサウスの目にも臆することはない。むしろ挑みかけるように尋ねられる。
「あなたは、どうされますか?」
「どう、とは。……我々は、自分の立場は、わかっているつもりだ」
じっと少女はサウスの顔を見たあとに、突然、愛らしく笑った。
「わたしの陛下はかっこいいでしょう」
ぽかんとしていると、きゅっと声がして少女の背後から小さな竜が顔を出した。気づいた兵が腰を抜かす。
「き、金目の、黒竜……!」
「う、嘘だろ、なんで竜の王がこんな姿で!?」
「ロー。ここにいるのか? わたしは行くけど」
「きゅう」
そうか、と頷いて少女は踵を返す。慌ててサウスは声をかけた。
「お、おい。ここに置いていく気か、危険だ!」
「なら守ってあげてください。その子、飛べないので」
あっさりした返答に、サウスはまたも口をあけて惚けてしまう。周囲も同じだ。
なのに振り返りもせず、少女はまっすぐ神殿の奥に向かって駆けていった。
飛べないという子竜がぽてぽて近づいてきて、くるんとした大きな目で皆を見回す。
(なんと、幼い)
あの少女も、きっとあの皇帝も、まだ幼い。守らねば死んでしまう。
なくなった右腕がうずく。もう軍人としては働けまい。だからここが自分の、最後の最前線になるだろう。
「……ラーヴェ帝国の軍旗はまだあるな。あのふざけた軍旗を倒すだけではたりない」
皆が心得たように敬礼を返す。足元でうきゅっと金目の黒竜が笑った気がした。
■
神殿の奥だ。背中でびりびりと感じる戦闘の気配を振り払って、ジルは走る。不思議と行き先は迷わなかった。金の指輪もないのに、方向がわかる。
ここまでほとんど戦わずにきたジルは体力魔力共に充実している。だが、それでもあれには勝てないとわかった。ハディスが押さえ込むだけで精一杯なのだ。
(生半可な武器じゃ一撃で終わる)
祭壇の上に辿り着く。最奥に翼を広げた竜と剣を抱く、大理石の女性像があった。女性の抱く剣の柄には、不思議な色をした宝玉がはめ込まれている。
(……赤と、青?)
光の当たり具合なのだろうか。混ざり合うのではなく、絡み合うように中できらめいている。
血に濡れた赤と、空を写した青。凝縮された、魔力のきらめき。
「これだ……」
左手を伸ばそうとすると、像の前で弾き飛ばされた。封印の魔術に拒絶されたのだ。金の指輪がないせいだろうか。
指先からじんわり鈍い痛みが広がる。深呼吸して、ジルは像に向き直った。時間がない。
ここを守るだけでは足りないのだ。今、この武器を使えねば、ハディスを助けに行けない。
(無理矢理でも封印を破る!)
再度左手を宝玉に向けて突き出す。正面から魔力の爆風と反発がきた。
――誰ダ。
頭の中に直接響いた声に、ジルは目を見開いた。
――誰ダ、誰ダ、オ前ハ。
左手の指先が魔力で焼けていく。痛みに顔をしかめたまま、ジルは怒鳴り返した。
「わたしは竜妃だ!」
一瞬だけ反発が止まった。と思ったら、黒い何かに左手首をつかまれた。
「え」
――竜妃。
――竜妃、竜妃、竜妃! 新シイ竜妃、新シイ贄、アノ男ヲ絶望サセル駒!
うしろに倒れまいと踏ん張っていた足が、前に引きずられる。小さな赤と青の宝玉が、大きくなった気がした。出入り口のようにジルを呑みこもうと、魔力が膨れ上がる。
「なん、なんだこれ!?」
――あんな男、愛さなければよかった。
目の前に膨れ上がった黒い絶望に、ジルの視界が染まった。