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目を細めてハディスは声のする方向を見た。
いかにも貴族といった風体の男が、戸惑う兵を突き飛ばし、ステッキで叩いて追い払う仕草をしている。そのうしろから追いかけてきた顔に、ハディスは見覚えがあった。
精悍な顔をした壮年の兵士――サウス将軍だ。
「補佐官殿、そういうわけにはまいりません。クレイトスの人間を神殿に招くなど!」
「馬鹿を言うな。あちらのたっての希望なんだ、まさか追い返せとでも言うのか? しかもあちら側は護衛を含め二十人程度しかいないと聞いている、何も問題はない」
「クレイトスは魔術大国です。ひとりの魔術士が小隊をつぶすことも珍しくありません」
「ならば余計に怒らせるなという話だろうが! 戦時中ならまだしも、クレイトスは今は敵国ではないのだぞ。丁重におもてなしし、気分良くお帰り頂くのが外交というものだ。まったく政治のわからぬ馬鹿共が」
「ですが、ゲオルグ様によるとクレイトス王国がラーデアにある竜妃の神器を狙っているのは間違いなく」
「何がゲオルグ様だ。あれは反逆者だぞ、反逆者!」
サウス将軍が押し黙った。しんとした周囲に補佐官と呼ばれた貴族が鼻を鳴らす。
「お前ら、まさか自分たちがお尋ね者だということを忘れたわけではないだろうな。誰のおかげでラーデアにいられると思っている」
「……我々を受け入れてくださった補佐官殿には、感謝しております」
「そうだ、それを忘れるなよ。私がいなくなれば、ここは帝国軍に攻めこまれるぞ。わかったらとっとと引き上げろ」
下卑た笑みで命じる相手に、サウスが背筋を伸ばした。
「それは承服できません」
「なんだと!」
「我々は帝国軍です、国を守る責務がございます!」
「何が帝国軍だ、逆賊風情が!」
憤った補佐官が持っていたステッキを振りかぶって、サウスを殴った。周囲の兵が助けに入ろうとしたが、微動だにせずサウスは右手でそれを制する。
「なんと言われても譲れません。ゲオルグ様の最後のご命令です!」
「なら皇帝陛下にでも陳情してみたらどうだ! 聞き入れてはもらえんだろうがな、帝都では既にヴィッセル皇太子がお前らのお仲間を追い出し、新しい帝国軍を編制してるんだぞ!」
「――っそれでも、我々は……いえ、我々だけでも」
「何を夢見ている! もうどこにもお前らの行き場など」
「はいはい、ちょっと待って待って」
振り下ろされたステッキをつかみ、サウスと補佐官の間にハディスはわって入った。
頬を殴られたらしいサウスがまばたき、補佐官がぎょっと目をむく。
「な、なんだお前、突然!」
「僕は街のパン屋さんなんだけどね」
「パ、パ、パン屋?」
動揺でどもっている補佐官にハディスは笑顔で頷く。
「どっちにも言い分があるってわかったよ。だから、喧嘩はやめよう? で、今からみんなで皇帝陛下に謝りにいくのはどうかな!」
「は?」
周囲の重なった声に、ハディスは人差し指を立てて答える。
「皇帝陛下だってラーデアは守りたいはずだよ。竜妃の神器もあるし、なんと言っても皇帝陛下は竜妃が大好きだから! あ、知ってる? 今代の竜妃ってまだ十一歳なんだけどすごく可愛くてすごくかっこいいんだよ!」
「……」
「ラーデアを守りました、今後とも忠誠を誓いますって跪けば皇帝陛下だってまあまあ処遇を考えてくれるよ。むしろ跪かれたら皇帝はときめくと思う!」
なかなかの良案だ。満面の笑みで、ハディスは呆然と聞いている周囲に提案する。
「ってことで、みんなで今から皇帝陛下に謝りにいこう! それで万事解決! どう!?」
しんと間があいたあとで、ぶるぶる震えた補佐官が怒鳴る。
「こ、このパン屋をつまみだせぇ!」
「は――はっ!」
そうしてハディスは、補佐官の命令を聞いた兵たちに、ぽいっと神殿から放り出されてしまった。
ハディスはその場で三角座りして、うなだれる。
「なんでだ……皇帝の僕じゃなくパン屋の僕なら話を聞いてくれると思ったのに……」
背後からひょっこりラーヴェが顔を出す。
「本気で言ってんのか、この馬鹿皇帝」
「だってジルはおいしいパンを食べたら僕のお願いきいてくれる! パンが口に合わなかったのかな!?」
「まだ食べてねーだろ。そもそもそういう問題じゃねーんだよ」
「おい、パン屋!」
神殿の入り口から聞こえた声に、ハディスは三角座りをやめて振り返る。走ってきたのはサウス将軍だった。ひゅっと心得たようにラーヴェが体の中に消える。
「パンの代金だ。まだ渡していないと聞いてな」
「あ、わざわざどうも……」
「それと、助けられた礼を言っていなかった。ありがとう。情けないことだな、将軍がパン屋に助けられるとは。まあ、軍人は貴族様には弱いものだ」
立ちあがったハディスに代金の入った袋を渡し、目をまぶしそうに細めて笑う。
「街で女共が騒ぐのもわかる顔だ。そうそう、追いかけている間にパンを食べてしまった。うまくてあっという間だったぞ」
「それで、皇帝に謝る気になったりしなかった?」
「……ずいぶん面白いパン屋だな。我々が反逆者であることをちゃんとわかっている。だが我々は正義を――」
「でも街のひとを騙すの、よくないよ」
突かれると痛いところだったのだろう。サウスが黙ってしまった。
街の人々はラーデア大公だったゲオルグが残した命令は、帝国側に承認されたものだと信じている。逆賊になった帝国兵が勝手にやっていることだとは夢にも思っていない。街を守ってくれているのだから、余計に疑わないだろう。
「本当に戦闘が始まったら、避難命令はどうするの。ラーデアの住民を巻きこむわけにはいかないだろう」
「――レールザッツ公とノイトラール公が隣だ。なんとかしてくださるだろう。それにクレイトスはまだしも、ヴィッセル皇太子も住民を見捨てるなんて真似まではなさるまい」
「……どうあっても、皇帝陛下に跪きたくない?」
「当然だ。我々は生半可な覚悟でゲオルグ様についたのではない」
「どうしてそこまで?」
少しだけサウスは黙りこんでから、口を動かした。
「私はゲオルグ様がお若い頃、戦で助けられた。ここ二十年ほどは平和だが、昔は小競り合いが多かったからな。戦災で行き場を失ったところを拾われた奴も多い」
「君たちにとって命の恩人ってこと?」
「そうだ。皆、命なり人生なり、ゲオルグ様に救われた。そしてゲオルグ様は命を預けるにふさわしい方だった。ラーヴェ帝国を守るという志に、幾度心を打たれたことか。……かの御方がラーヴェ皇族ではなかったなどと、信じたくない。だから竜帝に跪くことができない。我々が竜帝に膝をついたときこそ、ゲオルグ様の敗北が決定的になる気がしてな」
眉をひそめたハディスに、サウスが笑う。
「わからんか。そうだな、意地みたいな話だ。だが我々は幸せだよ。命を預けてもいい背中に出会え、果たすべき命令がまだある。帝都に残った帝国軍のほうこそ不幸だろう」
「君たちのやってることが、ラーヴェ帝国を混乱させたとしても?」
「我々にとってラーヴェ帝国とは、ゲオルグ様だったのだ。……ゲオルグ様のもうひとつの遺言を果たせないとわかって、気づいたよ。ゲオルグ様が、我々の祖国だった」
どう言葉を返していいかわからないハディスの背中を、サウスが押す。
「うまいパンだった。よかったら明日もまた持ってきてくれ」
笑顔で見送られたハディスは、ひとりごちる。
「難しいなあ……っていうか面倒」
「面倒って言うな、頑張れ」
いつもひょっこり顔を出して言うだけの竜神は気楽でいいと、ハディスは長く深く溜め息を吐いた。