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ラーデアに辿り着いた初日に、パン屋の求人が見つかったのは幸いだった。帝国兵という食い扶持が増えたせいで、自由都市ラーデアは食糧関係の需要と求人が倍増していたのだ。
そのおかげで、腰のまがったおばあさんがひとりでやっている昔ながらの小さなパン屋に、ハディスは雇ってもらえた。ハディスが出したパンを食べて、即座に採用してくれたのだ。家に住み込んで働けばいいという好待遇である。
クレイトスから街を――竜妃の神器を守るためやってきたという帝国兵たちは人気者だったが、城に毎日大量の食糧が運びこまれるようになり、街で食糧が不足しがちだった。引退寸前で目も悪くなってきたおばあさんは、なら自分が稼働率をあげれば街のひとがパンを食べられると考えたらしい。そういう優しい気持ちで雇ってくれたおばあさんは、ハディスを信頼して仕事をまかせてくれた。ハディスちゃんのパンはおいしいねえと、そう笑ってくれたのが嬉しかったので、頑張った。
二日目、焼いたパンを持って行商してまわると「ものすごい美形が売っているパン」と瞬く間に評判になった。
四日目にはもう、行商せずとも店の前に列ができはじめた。連日見たことのない売上げにおばあさんはぽかんとして、半分持っておいきとハディスにわけてくれた。
軍からお声がかかったのは五日目だ。
おばあさんはハディスちゃんのパンは軍のひとだって食べたいだろうと快く送り出してくれた。ハディスはレシピを残しまた別に人を雇うよう手はずをととのえて、せっせと焼いたパンを三百人分ほど抱えて帝国軍がいる城に入った。
「意外と早くこれたね」
のんびりつぶやくハディスの中で、ラーヴェが呆れている。
(皇帝としてくれば初日でここにこれたと思うぞ)
「それは牢屋へのご案内じゃないかな」
(わかってんなら慎重にな。ひとりでしゃべる変な奴になるなよ)
だったら話しかけるな。そう胸の内で返して、ハディスは兵のひとりに案内されて城内を進む。広場では何人かの兵が訓練をしたり、談笑をしていた。なごやかな光景だ。
だが人数が思ったより少ない。そう思っているとなぜか裏庭につれていかれて、荷車に乗せられた。首をかしげるハディスに、荷車の兵士が教えてくれる。
「竜妃の神殿に運んでほしいんだ。あっちは詰めっぱなしの奴も多くてな。うまいもん食わせてやりたいって将軍の意向なんだよ」
「将軍……ええと、確か、サウス将軍?」
厳つい体格の軍人の顔をぼんやり思い出す。彼が帝国兵たちをまとめていることは街の噂で聞いている。豪快に笑う、なかなかの人望者らしい。
「そうだ。あの御方がいる限り、ラーデアが落ちるなんてことはないから、心配するな」
「先代ラーデア公の命令なんだろう。有り難いよな」
「次のラーデア公が決まるまであの補佐官殿が何をしでかすかわからないからな」
頼りにしてますと、ハディスと同じ荷馬車に乗った街の住人が笑う。
「クレイトスと喧嘩したいわけじゃないが、あの補佐官殿のクレイトスびいきは目に余る」
「近々またクレイトスからお客さんがくるって話だ。まったくあんな補佐官を放置して、帝都のお偉いさんは何をやってるんだかな……」
「なんでも皇帝が幼女趣味で、十一歳の子どもにこの領地をまかせようとしてるんだと」
それは最悪だと荷台に乗った面々が笑い合う。
少なくともこの街の人々は、帝国兵が竜妃の神器を守るためにやってきたのだと信じているので、協力的だ。経済が回って喜んでいる節すらある。その資金が国庫から勝手に持ち出されたものだとは思いもよらないのだろう。
ヴィッセルのおかげで解消された問題だとはいえ、毎晩うなされるほど予算に苦労していたリステアードの苦悩を思うと、ちょっと複雑な気持ちになる。
(困ったなあ。この状況でもしほんとにクレイトスが攻めてきて竜妃の神器を守っても、処分対象でしかないんだよね……勝手にやったことだから)
だが処分すれば、街の雰囲気から察するに非難が殺到するだろう。もう面倒だから全部反乱者にして処分してしまおう、というヴィッセルの案が合理的に思えてしまう。
でもジルはそういうのは喜ばない。
「妻帯者ってつらい……」
「ついたぞ、あまりきょろきょろするなよ。間者かと疑われるぞ」
兵の警告に頷き返し、神殿の中へ入る。詰めている帝国兵はそう多くないはずだが、そもそも小さな神殿なせいで、ずいぶん厳重な警備に見えた。警備対象の竜妃の神器は、魔術で厳重に封印されており、取り出すことはおろか運び出すことも不可能だ。在処をごまかせない以上、守る人間を増やすしかないのだろう。
ほとんど警備らしい警備もなく放置されているのは、竜妃の神器が女神クレイトスも手が出せないほど厳重に封印されていることと、そもそも竜妃が現れなければ顕現もしない特殊なものだからだ。その竜妃も言葉だけの地位ではない。竜帝の妻、竜神ラーヴェが祝福を与えた花嫁。百年に一度現れればいいほうで、本当に竜妃の神器なんてものが存在するのか、疑っている者も多いだろう。
かく言うハディスもちょっと疑っている。
(あるっつうの! 少なくとも三百年前にはあった!)
ハディスに竜神様から叱咤が飛んできた。周囲に人が多いので、ハディスはこっそり胸の内で言い返す。
(三百年前とかあてにならなさすぎる。そもそもお前、その辺の記憶が曖昧なんだろう?)
(しょーがねえだろ、神格落としたし……俺は女神と違って竜帝っていう器がいないと眠っちまうから、眠ってる間のことは竜に聞くしかねえし……)
(神格を落とした理由を覚えてられない竜神ってどうかと思う)
(それが理なんだよ文句なら女神に言え、俺が神格を落とす原因は大体あれだ!)
(で、どうなんだ。竜妃の神器は顕現してそうか?)
神殿の奥を見つめて、ハディスは確認する。どこか天剣に似た気配を感じながら。
(ある。金の指輪は嬢ちゃんから消えてるが、顕現はしてるな)
だが、金の指輪すなわちジルの魔力が戻るまで、神器は使えないかもしれない。かといってクレイトスに奪われてしまうと困る。竜妃の神器は天剣から作ったもの、神の武器だ。あの性悪女神も神である。奪われたら、何に使ってくるかわかったものではない。
それに、竜妃の神器を持ち帰らせれば、婚約式や結婚式ができずとも周囲はジルは名実ともに竜妃と認めざるを得ない。天剣を持つハディスを、竜帝であると認めたように。
(もちろん婚約式も結婚式もやるけど!)
「おい、今すぐ神殿をあけろ! クレイトスからの客人をお招きする準備だ!」
ハディスの幸せいっぱいな妄想を、甲高い男の罵声が破いてしまった。