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「お前、まさか使者を……っ」
思わず疑惑を向けてしまうジルを、ヴィッセルは鼻で笑う。
「邪推はやめてくれないか。時間が惜しい。ただちに出兵の準備だ。ナターリエ殿下の救出に向かう」
「はっ」
「待て! 陛下が出兵なんて許すはずがない!」
ジルの叫びにヴィッセルが冷たい目を向けた。
「許すも許さないもない。ハディスが皇女を見捨てたことになる。それとも君は、ナターリエ様をそのままにしておけと?」
「それは……」
「所詮、子どもの浅知恵だ」
そうかもしれない。そうかもしれないが、ナターリエとフリーダが帝国軍を守ろうとしたのに、ただの間違いで終わってしまうのか。追い立てられた帝国軍が、結局逆賊になって終わるのか。
「どうしても反対なら、旧帝国軍を助けに出て行けばいい。ハディスをここに置いてね」
そのかわり、ジルは逆賊に加担したクレイトスの間者になり、人間の世界で竜妃になる資格をなくすのだろう。
(……ひとつだけ、方便はある。わたしがラーデアに鎮圧に向かうついでに、彼らを拾っていけばいい。だがわたしに従うとは限らない。何より今の状態で、陛下をここに置いてはいけない)
これは挑発だ。のってはならない。首を横に振ろうとしたとき、まだその場に佇んでいる兵士が所在なさげな声をあげた。
「あのぅ……その、その皇帝陛下なのですが……」
「なんだ、出兵に反対しているなら私が説得する」
「ゆ、行方知れずでして」
「「は?」」
ジルとヴィッセルの声がそろった。怖じ気づきながら兵士がぼそぼそ報告を続ける。
「その、書き置きがあったそうで」
「どんな!?」
「ラ、ラーデアでパン屋の修行をしてくる、だそうです! 何かの暗号かと現在、解析が進められております!」
たぶん違う。先に固まっていたヴィッセルが我に返った。
「すぐに追え! 急使の竜を使えばラーデアには最短で翌日には着くだろう!」
「そ、それが竜がまったく使えず、つかまえようとしても逃げ回ってしまって……!」
ハディスが自分を簡単に追えないように、竜に命じたのだろう。竜帝ならば可能だ。
ふ、とジルの口端が持ち上がる。ヴィッセルが振り向いた。
「何がおかしい。まさか何か君が――」
「いいえ? 何も聞いてませんよ。ええ、聞いてません。だってわたし、陛下は安全なところでおいしい料理を作ってわたしを待ってればいいと思ってるので。だって賞品です」
「しょ、賞品?」
「女神を折るともらえる大事な賞品です、陛下は。それが、反皇帝派の軍が集まってる領地でパン屋修行? ――どういうことだ」
凄んだジルに気圧されたのか、ヴィッセルが口をつぐむ。
「わたしが、竜妃になるためにおとなしくしようと、我慢している中で、よくも」
これが竜帝のやり方か。よくわかった。
こうなるとだんだん笑えてくる。拳を握ったジルの足元から勝手に魔力が奔った。
「首に縄かけて引きずり戻してやる、あの馬鹿夫がーーーーーーーーーーーーーー!!」
■
帝都のほうで一瞬立ちのぼった魔力の柱に、ハディスは首をすくめた。何やら感じ取ったのか、乗っている緑竜まで何かから逃げるように必死に翼を動かし出す。
「知らねぇぞ、俺」
竜神まで情けない声をあげている。パンをかじりながら、ハディスは肩の上の竜神に笑った。
「でも楽しくないか? お嫁さんと追いかけっこだ」
「追いかけっこになるかよ。竜を使えなくしておいて」
「しかけはちゃんと考えればわかるよ。ジルは賢いし、ちゃんと僕を追いかけてくれる」
「寿命縮める発言してるぞお前……」
はーっと嘆息したラーヴェが首の辺りからハディスの食べかけのパンをかじる。
「うま。新作?」
「そう。パン屋になれるかな」
「あーなれるんじゃねーの。うん、頑張れ。もうどうだっていいわ俺」
「なんだ、やる気のない発言だな。これから大変だぞ、パン屋は朝早いんだ。僕は知ってる」
「それより追いかけてきた嫁さんに殺されない準備をしとけ」
「やっぱり書き置きに『ジルへ、愛してる』って書いておくべきだったかな!?」
「余計に怒らせただろうな。――おい、あれ」
首に巻き付いたラーヴェに眼下を示さされて、目を細める。帝都からまだそう離れてはいない岩陰に身を潜める兵たちの姿があった。
ナターリエを人質にして逃げ出した兵たちだろう。
(……だいぶ減ってるな)
皇女を人質にして、ヴィッセルが手を出せないうちに逃げた者もいるのだろう。残っている者は動けないだけか、それとも人質になってまで逃がそうとしたナターリエを守ろうとしているのか。後者であればいいと願う。
「助けなくていいのか?」
「あれを僕が助けても意味はない。ローもいるから、竜の守護も受けているはずだ。それもわからないような腑抜けはそれこそ帝国軍に不要だろう。もう少しの我慢だよ」
「そのうち嬢ちゃんが助けにいく?」
「そう、ラーデアを救う軍にするためにね。ジルは優しいから」
この状況を打破する一番の方法は、ジルが竜妃としてラーデアに赴いて反乱を鎮圧することだ。きっとジルも気づいている。だがその命令をヴィッセルが出すことはない。そして軍人気質があるジルは、命令でもない限り、一番大事なハディスを置いて帝都を出るという選択肢をとらない。
「僕が帝都から出ればジルは動ける。だって、ジルが動けない最大の理由は僕なんだから」
そう思うと、背筋にぞわぞわしたものが這い、ぶるっと身震いがきた。熱い吐息を吐いたハディスはうっとりとつぶやく。
「あの強くてかっこいいジルを僕が縛り付けてるなんて……なんだろう、ものすごくこう、ぞくぞくっと……風邪かな、気をつけないと」
「あー変態って名前の風邪な。嬢ちゃんがもう少し大きくなったら誤診になる、そんなふうに信じたときもありました」
「なんだその言い方、僕が変態みたいに。それにジルの足手まといなんて僕はごめんだぞ。僕は自由でかっこいいジルを見るのが好きなんだ」
だから帝都を出るのだ。彼女が自由に空を翔けて竜妃になる姿を見るために。
「兄上だってきっとあのジルを見たら気を変えるよ」
厄介だと思っているからこそ、兄はジルが動けないように策を弄している。そのあたりはジルよりあの兄の方が上手だ。だからジルの苦手な部分はハディスが補えばいい。
「あと最近気づいたんだ……僕は縛るより縛られるほうがいい」
「やめろ余計にやばい」
「お行儀のいい男ってそういうものだろ。でも、そう簡単に縛られてはやらないけど」
荷袋に顔を突っこんでいたラーヴェが、パンを勝手に取り出してかじり出す。
「まあ嬢ちゃんもおかしいからな。お似合いだよ、たぶん」
「そうだよね! 僕とジルはお似合い! 理想の夫婦で幸せ家族計画!」
「幸せそうで何よりだよ……しかし久しぶりだな、お前とふたりきり」
ラーヴェから半分パンを取り戻して、ハディスはそういえばとまばたく。
「最近、ずっと誰かいたからな。そうか、ふたりきり……なんか変な感じだ」
「いいことじゃねぇの。ただ魔力にだけは気をつけろよ。天剣だってまだ半分くらいしか力出せないからな。女神関係とはやり合うなよ。いねーとは思うけど、ラーデアだからなぁ……」
「いたとしても、やらなきゃいけない。今が好機だ」
ぐるりと首の回りにからまったラーヴェが、胡乱な目になる。ハディスは前を見た。
「どうせなら全部だ。僕はジルを竜妃にする」
くたっと力を抜いたラーヴェの胴が、首にのしかかる。
「だからってお前は考え方もやり方も極端なんだよ……」
「それでこそ、ジルが言う『かっこいい僕』だよきっと」
多分違うなどと失礼なことを言ったので、愛を解さぬ理の竜神様は、投げ捨ててやった。