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「フリーダ殿下と仲良くなったようだね。そうなるとは思っていたけれど」
廊下に出ると、見張りの兵はそのままフリーダの部屋の前に残り、ヴィッセルがジルを先導して歩き始めた。どうやら皇太子本人自らジルを送り届けてくれるようだ。
「わたしがフリーダ殿下をたぶらかしているとでも言いたいんですか?」
「私はあそこの家系と相性が悪くてね。そして君と私も相性が悪い。となると、きっと仲良くなるだろうと予想はできた、というだけだよ」
つまり、自分と仲が悪い者同士、結束するのは想定内だと言いたいらしい。迂遠な言い方にジルは顔をしかめて、本音をこぼす。
「……もっと簡単な言い方できません?」
「あぁ、戦闘民族には難しかったかな。宮廷式だと自負しているんだけれど」
こいつ、いちいち腹が立つ。瞬間に湧き上がった感情に、ジルは素直に従うことにした。
「そうですか! 性格ねじ曲がるんですね、宮廷に長くいると!」
「わかってもらえて嬉しいと言っておこうか」
「でもまっすぐ育つひともいますけどね、宮廷でも! リステアード殿下とか!」
「そうだね。ハディスは辺境で育ったけど、ねじ曲がっているしね」
「陛下は素直ですよ!」
「素直にねじ曲がっているよ」
微妙に反論できなくなって口をつぐむ。ヴィッセルは小さく笑った。何を考えているのかよくわからない男だ。こんな会話の何が楽しいのかわからない。
「リステアード様が無事、レールザッツ領に到着したという連絡がきたよ。先にノイトラール公のところへよって、関係調整までしていったらしい。あの方はそういう立ち回りが大変お上手だ」
またヴィッセルがそんなふうに話し出す。ジルは眉をひそめた。
「……どうしてわたしに情報をくれるんです?」
「ハディスは君のことを『お嫁さん』というだけで、どんな子なのか教えてくれない。だから自分で確かめているだけだよ。何より、ひととなりは自分で見聞きして決めるほうでね」
つまり、ジルの反応を見ているわけだ。
それならそれで、ジルにも聞きたいことは山ほどある。わざとなのかもともとなのか、ヴィッセルの歩調はゆっくりで、ハディスの宮殿に戻るまで時間はたっぷりありそうだった。
「ナターリエ皇女殿下を捕らえた旧帝国軍との交渉はどうなっていますか?」
「皇帝陛下の勅命だ。きちんと使者を送ったよ。交渉になるかはわからないが」
「この状況下であちらが交渉にのらないなんてことは、普通、考えられませんよ」
「残念ながらそうとは言えない。皇女を人質にとり帝都を出るまではよくても、そもそもが烏合の衆だ。おそらくまとめ役もいないだろう。既に脱走兵も多数出ているようだし、内部の意思統一がとれているとは思えない」
「でも、ナターリエ皇女殿下がいます」
「ナターリエ様にできるのは『お姫様役』だ。兵たちをまとめることはできないだろう」
ごもっともな言葉に、ジルはうつむく。ヴィッセルの言う現状が本当ならば、旧帝国軍は規律を失い始めている。そんな中で、戦う力のないナターリエが立ち回るにも限界がある。
「逃げた兵がラーデア領に向かったら、ますます厄介だ」
ラーデア領にいるのはゲオルグに従った帝国軍だが、逃げ出した旧帝国軍とは旧知の仲でもある。追い詰められて反皇帝派に与するのは、考えられる話だった。
(結局、皇女を守る気概を持った、まともな帝国兵がどれほど残っているかにすべてかかっている、ということか……選別にはなるんだろうがな)
ナターリエの命までかかっているのが問題だ。
そして竜の王であるローの目には、どんな光景が映っているのだろう。
「それに、ナターリエ様のお母上はフェアラート公に縁のある貴族でね。このままだと、ハディスが皇女殿下を見捨てたとフェアラート公を調子づかせるかもしれない。面倒なことだ」
心底うんざりしているとわかるヴィッセルの口調に、ついジルは尋ねてしまった。
「あなたはフェアラート公の味方じゃないんですか?」
「私が? 面白いことを言う」
ヴィッセルがジルの疑問を鼻で笑い飛ばす。
「私は誰よりもハディスの味方だよ。だから驚いているし、困っている。ハディスがベイル侯爵を生かしたこと。帝国軍を粛清せず逃がしたこと。あの子にはベイルブルグを軍港都市に変える案も、これを機に帝国軍を作り替えることも考えていたはずなんだ。クレイトスと戦うためにね。それがいつの間にか、方針転換している」
「……それだけでは誰も味方になってくれないと、考えてらっしゃるんです」
「そうだね。君を竜妃にする、とか。正直、今になって竜妃だなんて言い出すとは思っていなかった。あの子はまったく諦めが悪い」
苦笑がまじったが、ヴィッセルが振り向かないままなので、表情は見えない。不可解な思いを抱いたまま、ジルは感想をそのまま口にした。
「ヴィッセル皇太子殿下は、ゲオルグ様と同じように陛下を竜帝だと認めていないのかと思っていました。……違うんですか」
いっそ自分が皇帝になりたいのでは、とすら疑っていた。でなければクレイトスに情報など流さないはずだ。
「まさか」
けれど、ジルの疑惑をヴィッセルは一蹴する。
「ハディスは正真正銘、竜帝だ。だからハディスを疎み、皇太子を騙った愚か者共が大勢死んだ」
「あ、あれは女神の――」
「そう、ハディスのせいなどではない。当然の報いだ」
ヴィッセルの断言に迷いはなかった。ジルは口をつぐむ。
「そのことは誰よりもラーヴェ皇族共が思い知っただろう。だから父は無様にも玉座から転がり落ちてハディスに命乞いをし、叔父は醜い化け物になった。本当はラーヴェ皇族ですらなかったくせに、竜帝自身の手で屠られるとは。最後まで運のいい連中だ」
偽の天剣に喰われ、化け物になったゲオルグのことは伏せられている。だが、あの場にいなかったヴィッセルは真相を知っていることを隠そうともしない。些事だと思っているのだ。
(まさか、皇太子自ら二重間諜をしていたとでも? そんな馬鹿な話が……)
不気味だった。妙な不安がこみ上げてくる。
ジルが嫌だと思う未来をそのまま実演しているような――そう、ヴィッセルの言葉は、未来でたったひとりで立っていたハディスが言い出しそうなことなのだ。
「それにしてもラーヴェ皇族の一件は、もう少し伏せておくべきだった。もっといい使い道があった。いくらでも滑稽に踊らせてやったのに」
「わ、わたしの陛下はそんなことしません!」
嫌な予感を遮るように、ジルは大きな声で断言した。
「ゲオルグ様やエリンツィア殿下の裏切りも許して、リステアード殿下たちのこともきちんと受け入れた。陛下が強い証拠です。わたしはそんな陛下が好きです!」
ヴィッセルが振り向いた。薄い、雲に隠れてしまった月のような瞳が三日月のように笑う。
「君のハディスはそうでも、私のハディスは違う」
反射的にジルは拳を握った。
「君は本当に、あの子が何もかも許したとそう思うのかな。だとしたらとんだ見込み違いだ」
「何が言いたいんですか」
「あの愚かな救いようのない母が、ハディスを化け物と叫んで喉をかき切ったとき、可哀想なあの子はどうしたと思う?」
聞きたくないというのは逃げることだ。だからその場で立ち止まって、耳をふさがない。
「笑ったんだ」
ゆっくりとヴィッセルが、ジルの知らないハディスを教える。
「私はあの子を傷つけるものを許さない」
「わたしだって許しません」
「でも君はあの子を傷つけるものを、あの子に許せという」
「そうですよ。陛下はそれができるひとだからです!」
ヴィッセルは小馬鹿にしたように笑い返した。
「私はそんなことを可愛いあの子にさせたくない。ほら、私と君は相性が悪いだろう」
とても納得できた。ジルは深呼吸をしてから、笑い返す。
「よくわかりました! わたし、あなたが嫌いです」
「よかった。私も君が嫌いだ。君は竜妃にふさわしくない」
さわやかな笑顔に、ぶちっと血管が切れそうになった。
(くそっ……女神だけかと思ってたら、こいつも同類か!?)
不気味さの正体がわかった。ヴィッセルの原動力は愛だからだ。ハディスの願いを叶えてやっているのだという、愛。
「腹立つ言い方とか笑い方とかそこだけ陛下と似てるんだな、余計に腹が立つ!」
叫んだジルに、ヴィッセルが一瞬きょとんとした。
「似てる? 私とハディスが?」
「ヴィッセル殿下! ご報告が――」
廊下の奥から小走りでやってきた兵が、ジルの姿を見て口をつぐんだ。ヴィッセルが兵のほうへ向き直る。
「かまわない。報告を」
「はっ! 旧帝国軍との交渉に向かわせた使者が戻って参りました――死体で」
それが意味することにジルは息を呑む。
ナターリエの身柄の返還交渉を拒む。これで、逃げ出した帝国兵は本物の逆賊だ。
「そうか、やはり時間の無駄だったな」
喉を鳴らして嘲笑したヴィッセルが、歩き出す。ジルは慌ててその背中を追った。