10
肉食動物を警戒して移動するようなフリーダの足取りを、緊張してジルは見守る。
そろそろと近づいたフリーダは、ジルが座っている椅子からテーブルを挟んで一番遠い席にちょこんと腰をおろした。白い虎のぬいぐるみの長い尻尾が床につかないよう、行儀良く膝の上にちゃんと置く。
「それで、どうしたの? わざわざひとりでくるなんて」
「……竜妃様との、おちゃかい……おにいさまが、どうかって……ひこうしき、って」
えっとジルは顔をあげた。それに気づかず、ナターリエが素っ気なく答える。
「それは断るって何度も言ってるでしょ。非公式でも却下よ、却下」
「でも、もう、五回もお願いされて……おにいさま、困ってる……竜妃様と仲良くしてほしいって……ラーヴェ皇族の、けっそくって……なのにいっぱい、仮病も使ったし……」
偽帝騒乱の最中は帝城に軟禁されていたこのふたりはジルと同様凱旋パレードに出席せず、顔合わせはジルの立場がはっきりしてから、と延期になっていた。だがリステアードはジルと皇女たちを会わせようとしてくれていたらしい。
(ぜんぜん、知らなかった……色々考えてもらってたんだな、わたし)
どうも仮病を使って拒まれていたようだが、フリーダの困った顔を見ていると、責める気持ちは浮かばない。逆にナターリエは堂々としている。
「なら私が突然の持病でも発症したことにしときなさい。言ったでしょ。今は時期尚早。リステアード兄様は後宮の怖さをぜんっぜんわかってないんだから」
「……でも、エリンツィアおねえさまも、竜妃様は頼りになるいいひとだって……」
「十一歳の竜妃がいい子かどうかなんて関係ないのよ、わかってるでしょフリーダ。後宮じゃリステアード兄様の馬鹿正直さも、エリンツィア姉様の脳筋ぶりも通じないの!」
クッキーをつまんだナターリエが一息ついたところで、ジルは控えめに質問する。
「あの……何か、後宮に問題が……?」
「……あなたもここで働くなら覚えておくといいわ。あの幼女趣味のせいで後宮はぴりぴりしてるの」
夫への中傷を訂正したかったが、ひとまずここは置いておくことにした。
「後宮は皇帝の妃が管理するものでしょ。でも今、皇帝に妃がいないからかわりに後宮を牛耳ってるのは父上――前皇帝の妃たち。それが全員、反皇帝派なのよ」
「……それは昔、皇太子がたくさん亡くなった関係で、でしょうか」
「そうよ。……私のお兄様もひとり、それで死んだわ。もうひとりのお兄様は、皇位継承権を捨ててお母様と皇城を出て行った。私を置いてね」
そこでジルの記憶がつながった。
(そうだ、思い出した! ナターリエ皇女の一件を盾にしてクレイトスに亡命してきた皇子がいた……! 自分には皇位継承権があるからってジェラルド様に助力を求めて……それで本格的に戦争が始まって……そうか、ナターリエ皇女の同母兄だったんだ)
しかし、どこにでも女神のやったことが影響している。折るだけではなく木屑にしてやればよかった。
女神を腹立たしく思う一方で気になるのは彼女の同母兄だ。今どこにいるかわからないが、かつてと同じ動きをするならいずれハディスに弓引くかもしれない。歯噛みしたい気持ちで、ジルは尋ねてみる。
「あの、お兄さまやお母さまから今、連絡とかは……?」
「くるわけないじゃない。お母様は『呪いが本物ならどうか息子のかわりに娘が死にますように』って願をかけて、一人娘の私を帝城に残していったのよ」
絶句したジルに、ナターリエは笑い返す。
「しょうがないのよ。お母様の実家は余裕のない田舎貴族なの。皇太子の座が転がり込んできたのも奇跡みたいなもので、当時は本当に狂喜乱舞したらしいわ。でも呪いで死んで夢破れて……そのうえもうひとりまで失うのは耐えられなかったのよ。周囲の目もあるし……」
「ですが、ナターリエ殿下だって同じ子どもで、皇女です。あんまりです……」
「そう? エリンツィア姉様みたいに竜騎士団を率いる力があるわけでも、フリーダみたいに魔力の才能や立派な後ろ盾があるわけでもない。なんにもないのよ、私自身。しかもラーヴェ皇族の血を引いてないなんてね。完全にはずれの皇女になっちゃった」
おどけて言われて、言葉に詰まってしまった。
「何よ。自分が役立たずだとか、今更、気にしないわ。お母様たちが出て行ったのだってもう三年以上前の、昔の話なんだから」
「まだたった三年じゃないですか。そんな割りきり、しちゃだめです」
つい言い返してしまうと、ナターリエは困った顔になってしまった。フリーダがおずおず口をはさむ。
「ナターリエおねえさまには、わたしがいるから……わたしの、大事なおねえさまだから」
いい子だ。リステアードが溺愛する気持ちがわかってしまって、なんだか目頭が熱くなってきてしまった。そんな空気をナターリエは笑って誤魔化す。
「もう、やめて。そんな話じゃなかったでしょ」
「そ、そうでした。差し出がましいことを……」
「私が言いたいのは、そういう考えが当たり前だってこと、後宮では。でも、自分の子を皇帝にしたくて敵対するのに、天剣持ちなんていう反則な皇帝が出たせいで、今は逆に結束しちゃってるの。前皇帝が竜神ラーヴェの血を引いてなかったなんて話が出たから余計ね。さらにそこに、十一歳の竜妃なんてものがきたわけ」
自分のことだと気づいて、ジルは無意識で胸に手を当てた。
「わかる? その子が正式に皇帝の妃になると大変なのよ、まだ後宮に残ってるお妃様たちは」
「……正式に皇帝の妃が後宮に入ると、自分たちの立場があやうい、ということですか」
「そうよ。だから竜妃の動向にすごく敏感になってるってわけ」
つまらなそうに、ナターリエは頬杖をついた。




