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一度、長く息を吐いたあと、ハディスは真面目な顔で言った。
「そのままで何も問題ないと思う。君が僕を好きだってことは、よくわかったから」
しんと微妙な間を置いたあと、ジルは真っ赤になって怒鳴った。
「そんな話してませんよ!?」
「そんな話しかしてないよ! なんか色々聞きたいことは山ほど出てきたけど、結論的にはそういうことしか言ってない。そうだよな、ロー!?」
「うっきゅ」
ローが力強い同意を返した。つまり、本心からハディスはそう思ってるらしい。
混乱してジルは叫ぶ。
「ま、待ってください。わたしはちゃんとできているか色々自信がなくって、陛下を好きかどうかわからなくなってるんです」
「うん、聞いたよ。前と違って失敗したくない、僕との先行きが心配で焦ったんでしょ。それって僕が好きだからだと思うんだけど」
「えっそ、そう、です、ね……? で、でも……なら、色々くらべて不安になるのは!?」
「それも、前に好きだった奴よりも僕のことがちゃんと好きだって、君がそう思いたいからでしょ。それも、それだけ僕が好きってことになるんだけど」
なるほど、そうなるのか。驚きの解釈だ。
「言っておくけど、そもそもどこが好きかなんて、まず全部好きが前提だから。そのうえで、どこが好きかって話だから」
「つまり、わたしは陛下の全部が好き……ちゃんと恋愛できてるってことですか?」
「うん、そうなるね。だから焦らず、そのままで大丈夫だよ」
「そうなんですね! そっかぁ、ならよかっ――」
ほっと胸をなで下ろそうとして、よくないと気づいた。
(ん、んん……? つまり、わたしは何を陛下に言ったことに……?)
自覚した瞬間、ぼんっと頭から火が噴き出た。
考えれば考えるほど、なんだかわからなくなってぐるぐる頭も目も回る。よろめいたジルを、慌ててハディスが受け止めた。
「ジ、ジル?」
「あ、わ、わた、何を、わ、わたたたた」
「お、落ち着いて。大丈夫? まさか風邪」
「わたし、陛下が、そんなに」
好きなのだろうか。
言いかけたところでハディスと目が合った。三角巾にエプロン、皇帝らしさなど皆無の姿だ。皆が侮るのもわかってしまう。
でも、このひとがこの先の理不尽にも困難にも負けず、強さも優しさも笑顔も捨てないままジルだけを愛してくれたら、どれだけ誇らしくしあわせだろう。
今だって、心配そうにまばたく長い睫だとか、名前を呼ぶ薄い唇の形だとか、何よりジルだけを映した金色の瞳が、こんなに愛おしいのに。
ローのことだってそうだ。このひとの心だというあの小さな竜を、育てたかった。誰の手も借りず、自分で。
自覚した瞬間に、全身が沸騰した。
「ギャーーーーーーーーーーーーー!?」
「うわっ何!? ちょ、ジル!!」
「陛下、しばらくわたしに近づかないでくださいわたしを見ないでください! 頭を冷やしてきます、もう一回池に飛びこむところからやり直します!」
「なんでよりによってそこから!?」
宮殿の扉を蹴り開け、全力で走り出す。追いかけてくる気配はなかった。ハディスが追いかけようとしても、気の利くカミラあたりが止めてくれるだろう。そう信じている。
(うう、恥ずかしくて死ぬ! 陛下の顔が見られない! 池をさがそう!)
どこだったか。とりあえず全力疾走で庭をつっきり、よくわからないままどこかの塔の駆け上がって通路を走り抜きまた階段を駆け下りて走ると、どこかの庭に辿り着いた。
走っている先に、桟橋と小舟が浮いた、夕日できらきら光る大きな池を見つける。少しローが落ちた池とは違って見えたが、気にしない。とりあえず何はともあれ、この羞恥をおさえるために必要なのは池だ。
(よしあれにしよう!)
地面を蹴り、そのまま指先から池に飛びこんだ。目を閉じてぶくぶく沈んで、体ごと頭を冷やす。なんなら池をひたすら泳ごうかと考えていたら、突然、腕を引っ張られた。
「ちょっと、自殺なんて馬鹿な真似はやめなさい!」
怒鳴りつける声に、水面から顔を出すことになったジルはまばたく。池の水面には太い木から伸びたロープが浮いており、木の根元には重たそうなドレスが散乱していた。
余計な服を脱いで、命綱をつけて池に飛びこんだらしい。
ジルの体を支えてくれている両腕は細い。濡れてほどけた黄金色の髪が、きらきら水面に浮かんでいる。その水面と同じ澄んだ青の目が、ジルをきつくにらんでいた。
「死ぬくらいつらいことがあるなら、その原因を刺して死になさいよ」
初めて聞く声だ。でもその顔をジルは知っていた。新聞で、あるいは資料で、彼女の訃報を知ったときに、小さな白黒の写真で見た。
「まぁ第二皇女たる私に助けられたんだから? 簡単にはもう死ねないわね、おあいにく」
「……あなたは……その」
「ぼけてるの? 第二皇女って言ったでしょ。ナターリエ・テオス・ラーヴェ。あなたを助けた皇女の名前よ、有り難く胸に刻むことね」
ふふんと傲慢に笑った少女は、ジルの体をつかんだまま、命綱をたぐり寄せ始めた。