6
「池に落ちたって、大丈夫!?」
日が暮れるより早く自分の宮殿に帰ってきたハディスに、ジルは立ちあがる。足元ではジークが持ってきた木箱の中でカミラにふかふかのクッションをしいてもらったローが、嬉しそうに飛び跳ねていた。
「陛下、仕事は――ってなんでエプロンなんですか、どこで着替えたんですか!?」
「ちょっと街に買い出し行ってきた!」
皇帝が街に買い出し。頬を引きつらせるジルにハディスが詰め寄る。
「そんなことはどうでもいいよ、それより大丈夫だったの? 怪我や体調は」
「ローは大丈夫です、ご安心ください! ちゃんとお風呂にも入れました!」
「君もだよ。ローのことばっかりやってない?」
「わ、わたしは丈夫なので、池に落ちた程度では」
「そういう問題じゃない」
少し強く言われてびっくりしていると、カミラが横から口を出す。
「もっと言ってやって陛下ー。ジルちゃんたら自分のせいだって、責任感じちゃってるのよ」
「逃げ出したローが悪いのになー。リンゴ食うか。よーしよーし」
「うきゅっ」
「わ、わたし大丈夫ですから、陛下! ちゃんとローの面倒みれます」
顔をあげると、ハディスがじっと静かな目でジルを見ていた。なんとなく強がりを見透かされそうで、ジルはそろそろ視線を落とし、小さく言う。
「……ちょっと、育児は苦手かもって気はしましたけど……でも、ほんとに大丈夫です。だからローを取りあげないでくださ――」
懇願する前に、抱きあげられた。そのまま無言で少し離れたソファまで連れていかれる。
ジルを座らせると、ハディスはその前に跪いた。
「ローを取りあげたりはしない。でも、らしくないね。どうしたの」
「そ、そんなことは……」
「いつもの君なら、苦手な分野で不必要に無理をしたりしない。そのかわり得意分野で頑張るだろう。でも、ローのことは全部自分ひとりでやろうとしてない?」
言い返せずに黙っていると、ハディスに両手を取られた。
「何かあった? あるなら、ちゃんと教えてほしい」
その声がことのほか優しくて、顔をあげられない。
自覚はある。焦ったのだ。――多分、あんな夢を見たせいで、余計に。
両手の指を組み合わせたりほどいたりしながら、ジルは小さく答えた。
「……自信が、なくて。今の自分の立場とか、気持ちに……」
「うん。どうしてそうなっちゃったのかな」
ハディスの声も視線も、ちゃんとジルを理解しようとしてくれている。ジルの気持ちを置いてけぼりに決めつけたり、こうあるべきと強いたりしない。だから思い切って口にできる。
「わたし、陛下のことをちゃんと好きなのかなって」
目の前のハディスの笑顔や背後の部下の空気が凍り付いたことに、説明にいっぱいいっぱいなジルはまったく気づかなかった。ぼとりとローの手から食べかけのリンゴが落ちて、転がっていくことにも。
「……。……………………えっ!? え、なんか今の、聞き間違い……?」
「わたし、陛下の前に好きなひとがいたんです」
「は…………!?」
「陛下に求婚する前、そのひとに好きって気持ちを利用されてることに気づきました。だからこのままじゃだめだと思って、そのひとから逃げるために陛下に求婚したんです。未練はなかったです。今もないです。陛下に約束したことも本気です。撤回はしません。でも、その『利用されてた』がわたしの勘違いだったかもって、最近わかって」
口に出し始めたら止まらない。ぎゅうっと両手を握って不安を吐き出す。
「わたし、恋愛の練度が低いんです。だからいくら陛下のことを好きだって思っても、何か勘違いしてるんじゃないかと思ったら怖くて……大体、陛下はよくわかんないじゃないですか! 強いんだか弱いんだか、可愛いんだかかっこいいんだか! わかりやすいのは顔と料理と筋肉と魔力の強さくらいです! 今だってエプロンだし……!」
「ま……待って待ってジル! 情報量が多い! 僕の処理が追いつかないから!」
「あ、はいすみません」
ハディスに両腕をつかまれてジルは我に返る。深呼吸をしているハディスに、うしろから気遣わしげな部下の声がかかった。
「頑張って陛下ー……落ち着いて、大人の対処をみせるのよ」
「まずは情報整理だ、戦略たてろ。自爆するなよ」
「え……っと、ええと、僕のことは好き。うん、なら大丈夫、大丈夫、かな……!? ラーヴェうるさい。で、利用……利用って十歳でそんな泥沼ある? どういう……お前は突っこむだけで楽でいいなラーヴェ! で、前に、好きな………………そこはいったん置いておこう! 僕のことがちゃんと好きかわからなくて悩んでるってことでいい、ひとまずは!?」
「はい、そうです。あ、でも最初に陛下をなんで好きだって思ったかはわかりますよ」
「だから情報量がさっきから多い!」
「す、すみません!」
顔を覆って嘆かれて、反射的に謝る。だがハディスはすぐに頭を横に振った。
「い、いや。僕こそ怒鳴ってごめん、つい。とにかく聞くから、続けて……」
「ええと、まずそういうところです」
「は……?」
「わたしの話をちゃんと聞いてくれるところ。どうしたいか確認してくれます。あ、筋肉とか顔は最初から好印象です! 強いの好きだし面食いなので。おいしいご飯を作ってくれるところは本当に大好きです! でも、いちばんはわたしを利用できたのにしなかったことです。女神を斃すためにわたしを囮に使えばよかったのに、陛下はしなかったから」
指折り数えるジルの前で、ハディスがもう一度顔を覆った。
「じょ……情報量……情報量が色々、想定外で……!」
「おいなんの茶番だ、これ?」
「口挟まないの、馬に蹴られるわよ」
「でもそれも、やっぱり前に好きだったひととくらべて好きって思ってるだけなのかもしれません。他に基準がないんです。その……前は本当に、頼りになるひとで、わたしはなんにも心配しなくてよかった。でも、陛下はそんなに頼りにならないから」
背後の部下がうわっと声をそろえて引く気配がした。当然だ。くらべて不安になるなんて、ハディスにとても失礼な話なのだ。
自己嫌悪で声がすぼむ。
「だから今度はわたしもまかせっぱなしにせず、できることをしたいんです。前と違うって証明するために。でも今、わたしにできることがなくて、変に焦ってしまって……」
こうして口にすると私情で動いてしまったことがわかる。
自分に呆れて両肩を落としたジルの前で、真顔になったハディスが疲れた声を返す。
「情報量が多すぎて死ぬ」
「も、申し訳ありません。いきなりこんなこと言われても困りますよね……」
「いや、いいよ。逆に冷静になってきた。うん、話はわかったよ」
「ほんとですか! なら、その……わたし、どうしたらいいと思いますか、陛下」
どう言われてもまずは受け止めよう。ごくりと唾を飲み込んでジルはハディスに向き合った。




