軍神令嬢は黒の幼竜を養育中
「十一歳の誕生日おめでとう、ジル」
執務机に差し出されたのは、黒い絹のリボンだった。
てっきり仕事の話だと思っていたジルは驚いて、婚約者を見る。眼鏡のブリッジを人差し指で押しあげて、婚約者は視線を少しそらした。
「……士官学校でも、髪をくくる紐くらいならば許可されている」
「はっはい! 嬉しいです、有り難うございますジェラルド様……!」
おそるおそる手に取ると、手触りのいいリボンが手から滑り落ちそうになった。つい握りしめてしまったが、しわにはなっていない。胸をなでおろしてから、改めてリボンを見る。
(士官学校でも使えるように……気を遣ってくださったんだ)
もうすぐジルはジェラルドが手がけた士官学校へ入学することになっている。王太子妃教育を切り上げるとジェラルドが告げたとき、ジルの刺繍や詩の出来の悪さに愛想をつかされたのかと思ったが、頼まれたことは違った。
君は軍人のほうが向いている。いずれくるだろうラーヴェ帝国との開戦に向けて王太子直属の遊撃隊の隊長となってくれないか――向き不向きという点でジェラルドの判断は正しい。戦闘民族と呼ばれるサーヴェル家では老若男女問わず戦い方を覚える。ラーヴェ帝国と国境を接している故のことだ。魔力を焼き払う竜を倒せるようになってやっと一人前である。
ジェラルドの内々の頼みを喜んでジルは受け入れた。軍功をあげれば君を王太子妃にすることにとやかく言う人間も黙るだろう、と言ってくれたのが嬉しかった。
「誕生日会も開けないこんな状況では、気休めにもならないだろうが」
「お気になさらないでください。内密にとはいえ、かのラーヴェ帝国の第二皇女から婚約の打診がきている最中です。婚約を断るにせよ受け入れるにせよ、今、わたしを婚約者として立てることはラーヴェ帝国への挑発行為になります」
本来ならば十一歳の誕生日、ジルはジェラルドの婚約者として正式にお披露目される予定だった。だがつい先日、突如ラーヴェ帝国から第二皇女との婚約の打診が入り、しかも本人が訪問するというのでいったん取りやめになったのだ。
長年争っている仮想敵国からの申し出を手放しでは喜べない。現在、ラーヴェ帝国では偽帝騒ぎが起こっている。若き皇帝ハディス・テオス・ラーヴェが持つ天剣が偽物であると彼の叔父にあたるラーデア大公――ゲオルグ・テオス・ラーヴェが新皇帝の名乗りをあげたのだ。
ジェラルドにラーヴェ帝国第二皇女ナターリエ・テオス・ラーヴェとの婚約を打診してきたのは、新皇帝を名乗るゲオルグのほうだ。クレイトスの援助を目当てにした打診だと、政治にうといジルにでもわかる。慎重に判断せねば、ラーヴェ帝国の内紛に巻きこまれてしまう。
「ラーヴェ帝国の状況はどうなっていますか」
「ラーデア大公は帝都を占拠し諸侯を説き伏せているが、肝心のハディス・テオス・ラーヴェの行方がわからず、膠着状態だ。決着はもう少し時間がかかるだろう。それまでナターリエ皇女の話はのらりくらりかわすしかない」
「ジェラルド様は行方不明の皇帝と昨年の誕生会でご挨拶なさっているのですよね? どのような方でしたか。竜神の生まれ変わり、竜帝だというのは本当なのでしょうか」
「ハディス・テオス・ラーヴェは竜帝だ。一目見ればわかる、あの覇気。あれが本物の竜帝だとわからない奴はただの節穴か、それでも認められない理由があるだけだろう」
嘲笑するジェラルドに、ジルはまばたく。ハディス・テオス・ラーヴェといえば呪われた皇帝と噂され、つい最近水上都市ベイルブルグで起こった事件に対して苛烈な粛清を行い、帝国だけでなくクレイトス王国内も震え上がらせたばかりだ。帝国内の反発は大きく、クレイトス王国内でも危険視されている。
だが、そちらこそ本物の竜帝だとジェラルドは言う。
「では、ラーデア大公――ゲオルグのほうこそ、偽帝なのですね」
「そうだ。私は夏までに負けるだろうと見ている。討たれるのか、件の皇帝の呪いが再発でもするのか、負け方はわからない。だが、いずれにせよ他国のこと。我が国としては、皇女との婚約をやりすごすのが最善だ。……そのせいで君には迷惑をかける。フェイリスにも怒られてしまった。婚約早々、不安にさせるなと」
「い、いえ。わたしこそ……その、花嫁修業がちっとも進まずに申し訳なく……」
「ラーヴェ帝国の件がいつ片づくかはっきりしない以上、婚約者としての正式な披露目は来年以降になってしまうだろうが、王太子妃になるのは君だ。私がそう決めた」
そう告げられて、ジルは赤くなった頬で頷き返そうとする。そのときだった。
「ジェラルド様、よろしいですか。ナターリエ皇女が行方不明になりました」
軽い叩扉ひとつで、返事も待たずに執務室に入ってきて用件を告げた人物に、ジェラルドは目を細める。咎められないのは、彼が信頼されているからだ。ジルも副官候補として紹介されている有能な人物だった。
「どういうことだ、ロレンス」
「ナターリエ皇女を運ぶ馬車がサーヴェル辺境領をこえたあたりで何者かに襲撃、皇女を連れ去ったようです。サーヴェル家と護衛を交替したところだったのが運の尽きでしたね。もちろん、それを知っていて相手は策を立てたのでしょうが」
「犯人の目星は?」
「クレイトスの人間ではないことを願いたいところですが、連れて行かれた先はわかっています。というか、この国で次期国王のあなたに嫌がらせをするならば、お約束の行き先でしょうが――南国王の後宮の可能性が高い」
だん、とジェラルドが拳で執務机を叩いた。だが一度深呼吸しただけで、その憤りも苛立ちも内側に押さえこんでしまう。黒いその目にだけ、ぎらぎらとした実父への憎しみをのせて。
「至急、ナターリエ皇女の捜索と救出にあたれ。決してラーヴェ帝国につけこまれる隙を見せるな。私は私でラーヴェ帝国の出方をさぐる」
「了解しました」
「ジェラルド様、あの、よければ私も実家に戻って捜索に向かいます!」
他国からやってきた皇女が自国で誘拐された。政治的な思惑や犯人さがしといった背景はともかく、無事ナターリエ皇女が戻らないとややこしいことになる。
(考えたくないが、もしクレイトス国内で死体で発見されたら……!)
だが返ってきたジェラルドの返事は、今までにないほど厳しい声だった。
「だめだ、君は何もするな! あの南国王が君に気づいたら何をするかわからない!」
その剣幕にジルが目を丸くしている間に、ジェラルドはロレンスに指示を飛ばす。
「既に手遅れの可能性もある。姉の件で逸ってしくじるなよ、ロレンス」
「それはお互い様では?」
「私がそんなヘマをすると思うか? 憎しみで殺せるならとっくに殺している。――フェイリスの様子を見てくる」
厳しい横顔で出ていく婚約者を複雑な気持ちで見送ると、ロレンスに軽く肩を叩かれた。
「ここはまかせてくれればいいよ」
「でも……ジェラルド様が困っておられるのに、わたしが何もしないわけには」
ジェラルドは実父である国王を父上と呼ばない。公的な場では国王陛下と呼ぶが、内々の場では南国王と呼び捨てる。執務の大半をジェラルドに丸投げし、クレイトス南方の王家直轄地に後宮を建て淫蕩に耽っている父親だ。嫌悪は当然だろう。冷え切っているなんて生やさしい家族関係ではないのは理解していた。
(フェイリスさまとしか共有できない家族の問題なのかもしれないが……)
まだ半年程度とはいえ、ジルはジェラルドの婚約者だ。少しくらい力になりたい。
「ジェラルド殿下は君を危険にさらしたくないんだよ。相手が南国王なだけにね」
「でもわたしは戦えます。ジェラルド殿下のためなら」
「たのもしいね。なら、婚約者を危険な目に遭わせたくない、戦わせたくないという男の矜持を守ってあげたらどうかな? ジェラルド殿下だって好きな女性には格好つけたいだろう」
一拍あけて、ジルはぼんと頭から火を噴いた。
(そ、そうか。そういうことなのか。むずかしいな、好きって)
正直、婚約を了承したのは生まれて初めてのお姫様扱いと王子様に舞い上がっての勢いだった。日に日にジェラルドへの尊敬は増しているし、これが初恋なのだとうっすらとした自覚もあるが、いかんせんその手のことにうとい。いつも正解がわからずに戸惑ってしまう。
――だからその先の未来、軍神令嬢と呼ばれ結婚間近の十六歳になっても、ジェラルドにだまされたと思うことに、あまり抵抗はなかった。
恋愛にうとい自覚があったからこそ、自分は間違ったのだとあっさり認められた。
ジェラルドが本当に愛していたのは実妹のフェイリスで、自分は禁断の関係を隠すため利用された道化だったのだと。
(だってジェラルド様に処刑されたんだぞ、わたしは。そこに今更、疑問を持つなんて……)
――お兄さまだってあなたを必要として、愛していたのに?
寝ぼけ眼をこすりながら、ジルは寝台から起き上がった。天蓋付きの広々とした寝台にまでうららかな日差しが差し込んでいる。故郷の自室でも、王城で与えられた部屋でもない。まだ見慣れない隣国の天井と、寝台だ。
誰もおらず静かだが、今日もいい天気だ。だというのに溜め息が出そうになり、慌ててばんばんと両手でほっぺたを軽く叩く。
二度目の十一歳の頬は、まだぷにぷにと柔らかい。
それを確認して、深呼吸し、口に出した。
「気にしない、気にしない! 今のわたしはジェラルド殿下の婚約者じゃなくて、竜妃。ハディス・テオス・ラーヴェの妻だ!」
そしてここは偽帝騒乱を収めたばかりの帝都ラーエルムの帝城。皇帝の寝室だ。
ジルがかつて聞いた『苛烈な粛清で帝国内の内乱を加速させたベイルブルグの無理心中』も『呪われた皇帝への恐怖がいっそう増した偽帝騒乱』も存在しない。
ジェラルドとの婚約を回避し、ジルが違う人生をやり直している世界だ。
ひとりで洗顔へ向かい、身支度をする。鏡を見て、黒いリボンがないことを確認した。未練はないことも。
かわりにあるのは、寝台の下に置かれた籠で寝ている立派な軍鶏と、棚上に置かれた可愛いくまのぬいぐるみだ。両方ともハディスからもらったものである。
「ソテー。お前、鶏なのに朝に起きないってどういうことだ?」
「コケー……」
「くま陛下を頼んだぞ」
立派なマントと王冠をつけたくまのぬいぐるみをソテーと同じ籠に入れる。
そしてジルは寝室から出ようと扉に手をかけたところで、少しためらってしまった。
(夢に見るなんて……不安なのかな、陛下とのこと。わたし、恋愛の練度低いからな)
ジェラルドは優秀な王太子だった。妹への溺愛がすぎる以外、ほぼ完璧な王子様だったと言い切れる。気遣いはもちろん、文武両道で神童と名高く、南国王と呼ばれた父親にも手を焼きつつ押さえこんでいた。部下からの信頼も厚く、民からの人望もあった。
だからジルは思うところはあれど、まかせていればよかった。
――それにくらべて。
「あ、おはようジル。朝ご飯できてるよ」
寝室を出ると、途端にいい匂いがした。厨房と勝手に一体化させたという広い応接間から漂う匂いだ。テラスの近くに置かれた食卓には、優しい色をした卵焼きとベーコンがのった皿、昨夜の残りで作られた野菜のコンソメスープが入ったカップが用意されている。中央には食べやすく切られたライ麦のパンやベーグルが籠に並べられていた。
エプロン姿の皇帝の手料理である。今も、フライパンから卵焼きにトマトソースを器用にうつしている。今朝、小さな裏庭の畑で収穫したトマトを使ったものだろう。
「どうしたの、じっと見て。あ、君の好きないちごミルクもあるよ」
偽帝騒乱をおさめたばかりで帝城に人手がないだとか、毒殺を警戒するくらいなら自分で作ったほうが早いと思っただとか、そういう諸々の事情はわかっているけれど。
「……陛下って皇帝ですよね」
「うん、そうだよ。それがどうかした?」
「今って朝の会議の時間じゃないですか?」
きょとんとハディスが見返す。
エプロン姿でも、彼がラーヴェ帝国の皇帝だ。竜神ラーヴェの生まれ変わり、竜帝である。現在魔力を半分ほど封じられたままだが、そんじょそこらの兵士よりはるかに強い。本人が鍛えているのも知っている。そして辺境で育ったせいで情緒は育っていないが、意外に物知りで聡明なことも。
「でも僕が参加するとみんな突如具合を悪くして欠席するし、いても無視だし、時間の無駄だからなあ。リステアード兄上が怒鳴りこんできたら出席するよ」
「やっぱり会議なんじゃないですか! なのにそんな呑気な……」
「今更だよ。それよりお嫁さんの朝ご飯のほうが僕は大事!」
がっくりとジルは両肩を落とす。
食べるのが大好きな自分としては、不満はない。不満はないが、不安はある。
だって帝都で朝から料理にいそしみ、畑の世話をしている皇帝ってどうなのだろう。
「……帝都に戻れば、せめてエプロンくらい脱ぐと思ったのに……!」
「え、似合わないかな」
「似合ってるから困ってるんです! 陛下、ほんとに大丈夫なんですか? 帝都に戻ってきてから会議に出るとかそういう、皇帝っぽい陛下を見たことないんですけど!」
「大丈夫大丈夫。リステアード兄上とエリンツィア姉上にはちゃんと話してるから」
そう言われると、ジルは何も言えなくなる。というか。
(わたしはなんにも聞いてないぞ! そりゃわたしは今、対外的には陛下の婚約者でもなんでもない赤の他人だけど!)
言葉にすると困らせてしまうので、心の内でだけすねてみる。
帝都にきてから思い知ったことだ。
ジルは竜神ラーヴェの祝福を受けてハディスの妻・竜妃として認められているが、それはあくまで竜の世界での話。人間の世界ではジルは周囲の承認をまったく得ていないので、ハディスの婚約者ですらない。最低限の形式が整うまでなるべく人目につくなと言われて、何もさせてもらえないのだ。ハディスが宮殿から出て何をしているのかも、一切耳に入ってこない。
この男をしあわせにする、ひとりにしない、ついでにこの男の子どもを十人生むとまで宣言したのに――果たしてジルのその決意を、ちゃんとハディスは受け止めているのだろうか。
問いただしたいが、どう聞けばいいのかジルにはよくわからない。
「そういえば、十一歳の誕生日のプレゼントは決まった?」
食卓につき黙っていちごミルクを飲んでいたジルに、エプロンをはずしたハディスが切り出した。
先日、ジルは十一歳になったが、その日ハディスは敵に囚われて護送中だったので、祝っている場合ではなかった。あとでそれを知って嘆いたハディスに、後日改めて誕生日パーティーを盛大に開くということでいったん話はついたのだが、ハディスはジルの望むものを贈りたいらしく、ここ数日ずっと尋ねられている。
「なんでもいいよ。食べ物は用意するから、それ以外でね。ドレスでも花でも宝石でもお城でも! なんならまたぬいぐるみでもいいよ。ハディスぐまに続くハディスうさぎとか!」
「なんでもって、わたし直属の軍隊ほしいって言ったらだめって言いましたよね」
「だめだよ。だってそれは君がほしいものじゃなくて、必要だと思ってるものでしょ」
さらりと指摘されてびっくりする。正面の席についたハディスがにっこり笑った。
「君が必要だとは思ってないけどほしいものが知りたいんだ、僕は」
「む、難しいこと言いますね……」
つい食事をとる手を止めて唸ってしまう。
(いっそ今のわたしでもできる仕事をもらうとか……? だってわたしがちゃんとしないとだめだろう、陛下は。――ジェラルド様と違って)
無意識でそう考えてしまって、ぶるぶる首を横に振った。なんだか調子がおかしい。
ハディスはにこにこ待っている。その背中からそっと出ていく、翼の生えた白い蛇――竜神ラーヴェの姿が見えた。厨房でさましているタルトを狙っている。あ、とジルは思い出した。
必要じゃないけど、ほしいもの。
「そうだ陛下、じゃあわたし、自分の竜がほし――」
「竜妃ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
ものすごい大音響がテラスから強風と一緒に入り込んできた。ひっくり返りそうになったテーブルを慌てて押さえている間に、目をやったハディスが暴風を結界で弾いてくれる。
無理矢理テラスに顔を突っこんできたのは紫目の黒竜だ。竜の階級はまず鱗の色で決まり、同色竜の中では金目が上位、紫目が下位となる。
黒竜は竜神ラーヴェに次ぐ最上位の竜だ。雌なので女王であるはずの黒竜の慌てた姿にジルはまばたいた。
「どう、どうしたんですか、いきなり。巣に戻ったんじゃ」
「竜妃! 生まれた! なんか生まれてたのだ、巣に戻ったら! 我の番が!」
興奮して叫ぶ紫目の黒竜の頭から、丸くて黒い塊がころんと落っこちてきた。ごろごろと転がったそれは、ジルの靴先にこつんと当たって止まる。
大きさは人間の赤ん坊より一回り大きいくらいだろうか。
もぞもぞとうごめいた黒い塊は、まず小さな翼を出した。そしてぶるぶるっと全身を震わせて、顔を出す。
ジルを見てぱあっと顔を輝かせたように見えたのは、気のせいだろうか。
まだ柔らかそうな鱗の色は、綺麗な黒。そしてジルを見あげる丸い目は、金。
「金目の黒竜……」
「うっきゅう!」
つぶやいたジルに可愛らしい声で、小さな竜の王が元気いっぱいに返事をした。