偽帝騒乱(1)
空が重い。
雲がどんよりと暗い色で、天空都市ラーエルムの周囲にまとわりついているように見えた。まるで竜神がラーヴェ帝国を呪っているようだ。
一瞬よぎった不吉な考えを振り払い、リステアードは眼下に見える竜用飛行場に赤竜を着陸させる。そして鞍から飛び降り、ここまで連れてきてくれた愛竜の首をなでた。
「助かった、ブリュンヒルデ。すぐ戻る」
「リステアード殿下! い、いつこちらへ」
「叔父上はどこだ」
こちらへ焦ってやってきた兵士に尋ねると、つっかえ気味に答えが返ってきた。
「そ、その……偽帝ハディスの捜索隊に、自ら」
「偽帝だと」
つい怒鳴りつけてやろうと思ったリステアードだが、一介の兵士の思考をいちいち訂正して回っている時間などない。とりあえず話の通じる誰かを見つけるために歩き出したそのときだった。
「リステアード様」
一番話の通じない奴が出てきたと、リステアードの目つきが鋭くなってしまう。
相手はリステアードの露骨な嫌悪など意に介さず、いつも通り、穏やかに笑う――実の弟が帝都から追放されたこんなときでさえ。
「お帰りなさいませ。エリンツィア様からお聞きしております。しばらくこちらに滞在されるとか」
交渉決裂に終わった異母姉の顔を思い出してますます苦い顔になる。だが、姉に悪気はなかっただろう。
ハディスの実兄であるヴィッセルなら、ハディスとゲオルグの間を取り持てるかもしれない――優しくて甘い姉はそう考えたのだ。きっと板挟みでヴィッセルが困っているかもしれないとさえ思っているかもしれない。
「リステアード様の離宮の準備は整っております。どうぞそちらでごゆるりとお休みください。フリーダ様もお待ちです」
だがリステアードには、ヴィッセルが困っているなどとかけらも思えないし、見えない。
「その口調はやめろと何度も言っているのだが、ヴィッセル兄上。様付けも同様だ。貴殿は僕の異母兄、しかも我がラーヴェ帝国の皇太子。いい加減、その自覚を持っていただきたい」
リステアードの忠告に、灰色がかった髪をゆらし、淡い金の目を細めて、青年がふわりと笑った。
「ええ。ですがそれもこれも私の可愛い弟のハディスがくれた、過分な地位だ。生粋のラーヴェ皇族の方々にはご不満でしょう。その自覚の表れですよ。私は決してあなた方と対立しようなどとは思っていない、という、私なりの処世術です」
柔らかい面差しの青年は、抜き身の刃のような危うさと威圧感を持っている弟とは、正反対の物腰で対応する。黒髪金目という弟の色合いを薄味にしたような容貌がそう錯覚させるのかもしれない。
だが、リステアードは不快だ。ねばりつくような自虐と何をたくらんでいるのかわからないこの人を食ったような笑顔が。
「だから弟を偽帝だと捨て、叔父上を新皇帝だと支持するのか? ハディスから与えられた地位だと言いながら」
「私にはそんな大それた判断などできませんよ、リステアード殿下。それらはすべて、竜神ラーヴェがお決めになること。竜帝が誰かなど、おのずとわかることです」
周囲の息を呑むような気配など気にもとめず、ヴィッセルはあくまで穏やかに微笑む。ついリステアードはかっとなって、その胸倉をつかんだ。
「だから叔父上を止めないとでも言うのか!? 今、ハディスは帝国軍に追われ、味方も何もなく逃げ回っているんだぞ。それをお前!」
「弟は辺境で竜神を庇護者に育った。帝国軍に追われた程度でどうこうなるわけはないでしょう。あの子に味方など必要ない」
「そういう問題じゃない! ハディスの気持ちを考えろ!」
どこでどうしているか知らないが、帝国中の人間から追われてどんな気分になるか。誰一人味方にならず、どんな気持ちでいるか。
そんな簡単なことを誰も考えようとしないのだと、ハディスを探し回って初めてリステアードは知った。
ただでさえあの異母弟は底知れないところがある。それがもし悪い方向にいけば、この国がどうなるか。
「そもそもお前が真っ先にハディスのために動くべきだろう!」
「もちろん、助けを求められれば私は馳せ参じます。私の弟ですので。ただ、お忘れにならないでいただきたい」
幼子に言い聞かせるように、ヴィッセルがゆっくりと、冷めた目で告げた。
「あの子は竜帝だ。私も含め、誰かがどうこうできるなど、それ自体、おこがましいにもほどがある」
自分の勘違いを察して、リステアードは愕然とした。
気に入らない男だとは思っていた。だが、それはあくまで個人の感情だ。ハディスとは仲良くやっていると思っていた。きっとハディスにとってはいい兄なのだろうと。
だがこの男は、自ら弟に手を伸ばすことをしない。
(何を考えている。まさか……)
天剣を持っている弟を信じ、皇太子の連続死を止めた末端の皇子。ハディスの代わりにハディスの言葉を伝え、政治を回す。先のハディスの苛烈なベイル侯爵家への粛清も、何か理由あってのこととかばっていた。
だが、止めなかった。
そのことに今更ながらぞっとする――呪われた皇帝だと疎まれる弟と周囲を調整し、円滑にラーヴェ帝国を動かす歯車となった優しい兄。
ぐっとリステアードは拳を握った。
「……もしハディスから連絡があれば僕を呼べ。助けに行く」
意外だとでも言うように、ヴィッセルが小首を傾げた。
「僕の異母弟だ。当然だろう」
拳を握ったまま荒々しく歩き出した。まずはフリーダの安否を確かめてそれから――それから、何がしてやれるだろう。
(誰かあの馬鹿の味方が、ひとりでもいればいいんだが)
望みの薄い他人まかせな願いに自分でうんざりする。
クレイトスへと出立する前に声をひとことでもかけていればよかったのか。ベイル侯爵家への処分を聞いたとき、反対すれば殺される、いかないでと泣く妹を振り払って何がなんでも怒鳴り込んで殴りつけていれば違ったのか。
そう考えた時点で、きっと遅かったのだ。
ハディスをさがすために叔父は罪のない人々の村を焼き始めた。それでもハディスは出てこない。村を焼いているのは叔父なのに、出てこないハディスのほうに怨嗟の声が集中する。次に竜が姿を消し始めた。物流が滞り、混乱が広がる。今度はあちこちから帝室に批判が集まり、小競り合いが起きる。そして彼らは叫んだ。
いったい皇帝は何をしているのだ。
面白いことに誰もが既にハディスが死んだとは思っていなかった。叔父は新皇帝を名乗りながら、皇帝ハディスの怠慢を訴えるという自己矛盾を起こし始めていた。
そう、彼は竜帝。
それを裏付けるように、帝都で妙な病が流行りだした。びっしりと鱗に覆われて心臓が止まって死ぬ。感染源は明らかだった。最初に罹患し、ひとりだけ進行が遅い叔父だ。
ラーヴェ皇族ですら呪われる。もはや誰がこの国の真の皇帝で、何が起こっているのかは明らかだった。
かつてハディスを偽帝だと帝都から追い出した帝国軍が、右腕だけ鱗に覆われた叔父を捕らえ、中央の広場に引きずり出す。それを誰も止めることができなかった。
そうすれば、帰ってきてくれると信じるしかなかった。
戻ってきてくれ、玉座に。それはもはや願いでも希望でもない。恐怖だ。
そうして叔父が帝民に処刑されたその翌日。
ハディスはたったひとりで、帝都の門を開き、凱旋した。
たった四ヶ月で、あっけなく偽帝騒乱は終わった。