暑いと世界も設定もバグる・中編
張り切ったジルだが、現実は厳しかった。
「言っておくが基本的に海竜は海水浴ができるような場所には出てこない。もっと深いところに棲んでる」
ジルの浮き輪を引っ張って泳ぎながら、ジークが海竜の知識を教えてくれる。
「海に棲んでるんですか」
「陸にもあがりはするらしいが、基本的に海の中だそうだ。海竜ってのは海の中を飛ぶ竜なんだよ。つまり泳ぎがすごいって話だ。渦潮や津波も起こしたりするとか」
「すごいですね……!? どうやってつかまえるんですか!?」
「なんでそこでつかまえようとするんだ……いいか、海の中だぞ海の中。息ができる空中戦ならまだしも、海中でどうやって戦う気だ。人間はサメに勝てんだろう、普通」
「サメなら八歳のときにやっつけました!」
「なんでそこでやっつけてるんだ……とにかく、見つけたら即逃げるが鉄則だ。逃げても無駄かもしれんが、襲わない限りは襲われないって話だからな」
好戦的なジークがそんなことを言うなんて珍しい。
「くわしいですね。見たことあるんですか? ジークは」
「俺もカミラも海辺にある町で育ったんだ。竜神様のお怒りっていったらそこじゃ海竜のことを指してた。怒らせるな、町が海に飲みこまれるってな。まぁ刷り込みみたいなもんだよ。でも、軍港都市フェアラートじゃ、海竜をつかまえようとして艦隊が丸ごと海に引きずり込まれたって話もある」
「へぇ……じゃあつかまえたって話はないんですね。つかまえられそうなのに」
「何を根拠に言ってるんだ、それは」
「だってそれでも海竜は、竜だから竜神ラーヴェの支配下にあるんですよね?」
蛇なんだか竜なんだかわからない生命体を思い浮かべたジルに、ジークは顔をしかめた。
「どんな姿してるんだよ、竜神ラーヴェは」
「串刺しにしたらおいしそうな蛇、みたいな……?」
「やめろ、ラーヴェ帝国の神だぞ……。とにかく、こっから先は遊泳禁止だ」
だいぶ浜から離れた海の上に浮いている赤い紐を、ジークが持ちあげる。左右にある岩場から浮き袋に紐をくくりつけて、海を区切っているらしい。
人気も少ない。ジークは顔を出しているが、立ち泳ぎをしている。澄んだ海水で見えていた底も、だいぶ深くなっている。
「つまり海竜はこの先にいるってことですか!?」
「いないからな。いてももっと先だ」
「じゃあ紐をくぐった先にいけば」
「だめだ。俺の首が皇帝に飛ばされてもいいのか」
「そういえば陛下……」
そう言って浜辺のほうを見てジルは固まった。
遠目にもわかるのは、露店に並ぶ人の行列だ。どこの露店かは考えるまでもない。
「行列、作ってますね……」
「……。そうだな」
「陛下は陛下で楽しんでるじゃないですか。なのにわたしは――」
つまらない。そう思ってしまってから、ジルは気づく。
(そうか。わたし、陛下と遊びたかったのか……)
黙ってしまったジルの浮き輪をあやすようにゆらしながら、ジークが続ける。
「こっから浜辺まで泳いで競争とかならつきあうぞ」
「わたしは浮き輪があるのに?」
「隊長にはいいハンデだろ。バタ足しかできない」
なるほど、それは楽しいかもしれない。笑ったジルは、あーあとわざとらしく声をあげる。
「でもここには竜帝も竜神もいるんだから、海竜は挨拶にくるのが礼儀じゃないですか?」
「やめろ。竜妃が言ったら洒落にならん」
「いいじゃないですか、言うくらい。それに、ジークだってこないだ見たでしょう? 竜妃って言ったって竜が言うこと聞いてくれるわけじゃ――」
ふっと澄んだ海底がいきなり陰った。
ジルと同じものに気づいたジークが叫ぶ。
「隊長!」
「へっ」
ずぼっと浮き輪が体から抜けた。
正確には、体が浮き輪から抜けて海に引きずり込まれた。
あっという間のできごとだ。ジークが伸ばした手が届く前に、ものすごい速度で足首を引っ張られ、海中を移動する。何かに捕まえられたのだ、と遅れて気づいた。
咄嗟に魔力をこめて足を振り払おうとしたが、濁流に呑まれるような勢いにかき消されてしまう。
(魔力がたりな……息……っ)
慌てて口を閉ざし、薄く目を開いた先に、鱗があった。魚のようにうねる肢体があった。
深く深く、海の底へと飛ぶように泳ぐしなやかな動き。翼はない。その代わりひれのように優雅に水をかく前脚が、長い尻尾が、海中を進んでいく。鱗の色はわからない。時折、背甲殻が青光りするせいで、ラーヴェ帝国にはいないという青い鱗を持っているようにも見える――だがそれも不思議ではない気がした。
もしこれが海竜なのだとしたら。
空ではなく、海を飛ぶ竜なのだとしたら。
だが思考できるのもそこまでだった。耐えきれずに吐き出した息が、白い泡になって消えていく。
(いき、が)
ありったけの魔力で振りほどけ。でなければ溺れ死ぬ。
拳を握ったその瞬間、いきなり海水がなくなった。
「――え!?」
そこだけぽっかりとくりぬいたように、海に穴があいた。突然息ができるようになったジルの体を受け止めたのはハディスだ。だがその目線はジルを見ていない。
まっすぐ、海の中にある影を見ている。
「いくら竜妃に呼ばれたからって悪戯がすぎる、海竜」
ざあざあと滝のように流れる海の壁の中で、何かがうごめいている。形もよくわからない。唯一はっきりわかるのはふたつの金色の光だ。そしてどうにか青と識別できるような、淡い、澄んだ色。
(……エメラルドグリーンに、金目の竜?)
緑竜の一種なのだろうか。だがそれにしては淡く、今にも海と一体化しそうな鱗の色だ。水と光の加減で、白にも青にも見える。
「まだ子どもかな。でも、竜妃だってこんなに小さな女の子なんだ。魔力も回復しきってない」
「……」
「おとなしく帰れ」
同じ金色の瞳を光らせて命じたハディスの声に、海の中でぐるりと何かがうねる。と思ったら、あっという間に海の底へと消えてしまった。
ぱちぱちとまばたくジルを横抱きにしたまま、ハディスが浮かび上がる。それにあわせたように、海面が元に戻っていった。
「ほんとに竜は躾がなってないな」
「そう言うなって。この辺ぐるぐる回ってただろ、嬢ちゃんと遊んでるつもりだったんだよ」
肩からひょっこりラーヴェが顔を出した。ハディスの目が冷たくなる。
「は? ジルが溺れ死ぬところだったんだぞ。ジル、怪我はない?」
「はい。……さっきの、海竜なんですか、やっぱり」
「ああ。まだ子どもだったみたいだけど――ジル、怖かっ」
「すごい! あれでまだ子ども!? ほしいです陛下!」
叫んだジルに、ハディスが笑顔のままそっと目をそらした。
「そう言うかもしれないとは思ってた……」
「俺もそんな気はしてた……」
「すごく速いんですよ、びゅーんって! まるで海の中を飛んでるみたいでした……! ひょっとして海竜の加護があれば海の中で息もできるんじゃないですかね!? 黒竜のときもそうでした! すごい……あ、帝城におっきな池ありましたよね!? そこに入れたら飼えませんか!?」
「ざ、斬新な提案だね……。おいラーヴェ、これもお前の躾が悪いせいだぞ。ほんとに帝城の池に海竜を放りこまれたらどうするんだ」
「いやこれは嬢ちゃんの性格だろ。竜のせいじゃねぇよ……」
竜帝と竜神の話し合いはジルの耳には入らない。
「ワニっぽい見かけですけど魚みたいな泳ぎ方で……ほんとに不思議な生き物でした! わたしの魔力が回復してもとらえられるかどうか、あの素早い動き! 緑竜なら階級は高くないはずですけど、あれは別種の強さじゃないかな……海中戦の戦い方を覚えないと!」
「溺れかけたのに、そっちにいくんだ……?」
「ひょっとして魚肉っぽいんじゃないでしょうか!? 白身かな、赤身かな!?」
「それは僕も気になる」
「二度と竜妃と竜帝の前に出てくるなって今、この海域の竜に伝えた」
「えっ嫌です出てきてください! その伝令、撤回してくださいラーヴェ様――陛下?」
海面の上を浮いて移動していたハディスが唐突に止まった。嫌な予感にジルは顔をあげる。
「陛下……?」
「ごめ、ジル……日差しが……脱水……魔力も、使いすぎ、た……」
「えっ岸ってどっち……陛下ーーー!」
叫んだがここは海の上だ。
あーあ、という竜神の溜め息を最後に、ジルとハディスはそろって海の中に落ちた。




