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農業の師匠


 気が付けばお試し移住生活三日目の夕方。

 畑の草取りを始めたのが昨日の午後だった。

 まず畑と決めたからには、他に取り掛かる前にここだけでも……と意気込んだのはいいけれど、これがなかなか大変で。

三日目の今日は、長袖、ジーンズ、長靴に日焼け防止の帽子で完全武装して、朝早くから作業しているのに一向に進まない。最後まで行く間に先に草を取った所がまた茂ってきそうな気さえしてきて、ちょっとげんなりしながらも意地になってやっていた。

 そこへ、午後になって畠のおじさんが通りかかった。この辺りでは一番本格的に農業をやっている人だ。

「最初からおっちゃんに言うてくれたら、手伝うてやったのに。水臭い」

 そう言って、見かねた畠さんが草刈り機でちょいーんと周囲の草を刈ってくれて、ついでに硬くなっていた畑の土を小型の耕運機を持ってきて耕してくれた。その間二時間弱。私はその間熊手で草を集めただけ。

 ……あの苦労は何だったんだと思うくらいに、あっという間にふかふかの畑らしい一角の完成だ。まさに、救世主の降臨である。

「今時、手で草をむしって鍬で耕しとったら、いつになっても何も作れんぞ。ここいらは元々土はいい。それでもこの畑は休んどったから、よく耕して肥料と空気を入れてやらんとな」

 そう言って、にかっと白い歯を見せて笑った畠さんが、私には超かっこいいヒーローに見えた。作業着に長靴、軍手と麦藁帽と首にタオルという姿の壮年のおじさんにも関わらずである。

 自分一人でなんとかしようと思わないことだって、悠斗さんが言っていたのを、まさに実感した瞬間だった。

 確かに、全部一人で手でちまちまやっていたら、畑の体を成すまでにあと何日かかったかわからない。かといって、いきなり草刈り機を買うなり借りるのも、使い方もわからないから怖くて勇気が出なかった。畠さんは最初から手伝うって言ってくれてたのだから、素直にお願いすれば良かったんだ―――。

「これであとは畝を作って、作物を植えたら畑になる。土に漉き込む肥料は植えるもんによっても変わるから、何にするか決めてからな。もう今日は遅いから、続きは明日からにしな」

 畠さんに言われて、そういえばもういい時間だと気が付いた。陽が長い時期だから何とも思っていなかったけど、かなりの夕刻だ。

「すみませんでした。こんな時間まで付き合わせてしまって」

「ええよ。どうせ待ってるのはベンだけやしな」

 その言葉の最後に、ほんの少し胸がちくんとした。

 挨拶回りの後で悠斗さんに聞いたところによると、畠さんは二年ほど前に奥さんを亡くされ、二人のお子さんも都会に出てしまい、今は一人暮らしなのだそうだ。

 寂しくは無いのかな? あんな広い家に、犬はいるにしても一人で。私だって一人だけど、最初から一人なのと、家族がわいわいしていた家とじゃ違うと思う。それに広い畑をやっていて、男一人で家事もって大変だろうな……そう思わなくもないけど、人それぞれの生き方がある。ずかずかと他人が踏み込んでいいところじゃない。

 片付けをしながら、私は畠さんに聞いてみる。

「あと一つだけ質問していいですか? この時期だと、何を植えたらいいでしょう?」

「そうやな。まずは簡単な夏野菜を植えてみたらいい。ししとうとか、茄子、カボチャなんかやと初心者でも失敗は少ないし、来月にはボチボチ収穫でき始める。きゅうり、トマトももう植えられる」

 わぁ、ししとうやナスって大好き。トマトもいいな。夢が広がる……!

「種を買ってきて撒けばいいんですよね」

 林商店にも野菜や花の種を売ってた。明日、早速……とか思っていたら、畠さんは苦笑いで付け足す。

「種からでもいいが、野菜の種は畑に直接撒いたら駄目やで。まず別のポッドに専用の土を用意して発芽させて、間引いて少し大きくしてから植えるんが鉄則」

 ええー? それは知らなかった! 聞いておいて良かった。

 はあ。野菜つくりも色々手順を踏まないといけないんだね。それは大変そう。

「まあ、今からやったら無難に苗を買って来た方が簡単で確実かな」

「……そうします」

 ここでも、最初は素直に人に頼ろうと思う。苗にまで育ててくれる業者の人にね。

 ああ、でも本当に色々と勉強になるなぁ。私って、本当に何も知らなかったんだ。

 よし、こうなったら畠さんの弟子にしてもらおう!

「畠さんのこと、農業の師匠と呼ばせてください!」

「師匠って……それ恥ずかしいなぁ。おっちゃんはそんな大層なもんと違うで。まあ、わからん事や困った事は何でも尋ねな。手伝うから」

 そう言って、畠さんは軽く手を振って草刈り機を担いでベンの待つ家に帰って行った。夕日の中の農業師匠の背中は、男らしくてカッコいい。

 私は外の水道で手を洗い、母屋に入る前になんとなく家の横手にある蔵と物置の方に行ってみた。

 遅い夕暮れの赤みを帯びた陽が、辺りを茜色に染める時間。

 くっきりした陰影に浮かび上がる古びた建物は、母屋との間から望める山里の眺望と相まって一服の絵のように見えた。

 しっかりした造りの蔵は、多少角が欠けて土色の見えている部分もあるけれど、壁の白と半分から下の焼杉の黒のコントラストが素敵で、重そうな扉と上部の小窓の意匠もいい。瓦の具合は下からは見えないけど、状態は悪くないと思う。

 その横にある、物置というよりは木造の小屋という風情の平屋の建物。屋根は塗炭の波板葺きだ。それでもあまり安っぽく見えないのは、こちらも焼杉の壁で蔵と統一感があるからだろう。緑の蔦が所々這っているのでさえいい味を出していると思える。

 内覧の時にもさらっとは見ていたものの、こうしてじっくり見ると母屋以外の建物も思ってた以上にいい感じだったんだ。夕方の光の加減のせいもあるかもしれない。

「なんかいいな……」

 ふと、以前行ったことのある、旧家の蔵を改装した洒落た雑貨屋さんを思い出した。この蔵だって少し弄れば、あのくらいお洒落で粋な感じになりそう。

 ここから見る景色を、私だけで独り占めするのって勿体なくない?

「そうだ、この蔵と物置を……!」

 母屋をごっそり弄るのは大掛かりで大変そう。でも、蔵と物置をリフォームするなら生活しながらでもコツコツ出来そうな気がする。

 今でも外観は充分素敵だけど、ここをもっとレトロお洒落空間にしてカフェって素敵じゃない? 庭にテーブルを置いて景色を楽しみながらコーヒーを飲むとか。そうそう、ネットや雑誌で見た石窯もつくってみたい! 石窯でピザを焼いてみたり、畑で採れた野菜を使ったランチとか……私、お料理はわりと好きだもの。

 うん、いいかも! 目指すビジョンがなんとなく固まってきた気がする。

 ……まあ、まだ植えてもいない畑の作物をあてにするのもねぇ。

 それに例の鍵束を持ってこないと今は中が見られないし。

 悠斗さんも優先順位を決めることだって言ってた。今のところ最優先は畑だから、それが片付くまではリフォームはお楽しみにとっておくのだ。

 そんな感じで、なんとなく充実した気分で家に入る。

「たっだいまー!」

 そう元気に言ってから、私は思わず苦笑いした。

 誰が待ってるわけでもないのに、なに私ってば一人で挨拶してるんだろう。畠さんのことを寂しくないかなんて思っていた自分の方が寂しい奴じゃない? 多分畠さんのところは、ここでベンがワンってくらいは吠えてくれるはず……。

 だが、居間の方から思わぬ声が応える。

「おかえり」

 あっ……シロさんだ。

 今日は朝から一度も見かけなかったのと、丸一日畑につきっきりだったからその存在をすっかり忘れていたけど、この家にはシロさんがいるんだった。

 ひょっとして私を待っててくれた? おかえりって言ってくれたよね。そう思うとちょっと嬉しいかも。たとえもののけであって人じゃなくても、無性に愛おしい気さえする。

 なんだかじんわりしかけたのも束の間。

 居間で卓袱台の前にどかっと胡坐をかいて座っている姿を見て、私は気が付いてしまった。

 ……そうか。待っていたのは私でなくお酒だな。

「シロさん、遅くなってごめんね。お酒、今用意するね」

「別に催促はせんぞ」

 とか言いつつ、卓袱台の上の空の湯飲みをめっちゃ気にしてるじゃないのよ。

 毎日飲ませてあげるねと言った以上は出してあげないと。それになにやら家の主同士のネットワークみたいなのもあるみたいだし、木村さんの家の主さんにまた自慢されてもシロさんも可哀相だし私も面白くない。

 一升瓶からすでにシロさん専用になった湯飲みにお酒を注ぐと、ぶすっとしたまに見える綺麗な顔の目がきらーんって光ったように見えた。なんか可愛く思えて来た。

 私も夕飯の準備をする前に、ちょっぴり休憩。

 シロさんと向かい合って座ると、足腰がじーんとした。これ、筋肉痛コース? 都会で仕事をしている時はデスクワークが多かったし、ろくに運動もしていなかったからなぁ。

「くうー、腰痛いなぁ。畑仕事も大変なんだね」

「慣れんもんが最初からあまり無理するでないぞ。ほどほどにな」

 そう言い残して、一杯だけのお酒をあおって、シロさんはとっとと屋根裏に去って行った。

 おや……もののけに優しい声を掛けられてしまった。

 でも優しいじゃないのよ。家の主。

 相変わらず減っていない湯飲みのお酒。不思議だね……ホント。ちなみに捨てるのは勿体ないから料理にでも使おうと置いてある。

 先日もらった豆と林商店で買って来た卵で晩御飯を済ませる。引っ越し荷物で持ってきたお米も残り少なくなってきた。移動販売車は月曜まで来ないし、一度買い出しに行かないとな……。

 それに野菜の苗も買わないと。町まで行った方がいいかな。

 やっぱり車は急がなきゃ……。

「明日、自転車で行ってみるかな」

 折角森川さんにもらった素敵な自転車、初乗りもまだだしね。

 そう覚悟をきめていたのに……。


「菫ちゃーん!」

 翌朝、朝食と洗濯の後、お出かけの準備をするかと思っていたら、玄関で私を呼ぶ声がした。

 あっ、この声は! 

 慌てて玄関に走ると、朝に眩しい爽やかスマイルのイケメンさんがいた。

「おはよう。昨日は一度も会えなかったから寂しかったよ」

 ……役場の林さんこと悠斗さんだ。そういえば昨日は顔を見なかったね。

「あれ? 悠斗さん、今日はラフな格好ですね」

「今日は土曜で役場が休みだから」

 いつもワイシャツにネクタイの上に作業着というお仕事スタイルしか見たことが無かったので、薄手のパーカーに綿パン、スニーカーという、ものすごくカジュアルなスタイルは初めてみた。こうしてみるとすごく若く見える。

 ……どうしよう、めっちゃカッコイイ。ドキドキする。

 いや、ドキドキしてる場合じゃなく、なぜ役場がお休みなのに来たのかというところに引っかかろうよ、私。

 私が問う前に、悠斗さんが先に言う。

「車が無かったら買い出しも大変だろ? 一緒に行こうかと思って誘いに来たんだ。個人的に。どう? 僕と買い物に行かない?」 

 ……はい、今日もいただきました! 『個人的』発言。

「丁度この後、野菜の苗やお米を買いに自転車で行こうと思ってたんですけど、重そうだし助かります。でもいいんですか? せっかくの休みに」

「いいの。楽しみなんだから。個人的にね」

 二回目だよ、悠斗さん……。

 というわけで、四日目の今日は、悠斗さんに町のスーパーとホームセンターに連れて行ってもらうことになった。お目当てはお米や油などの重い食料と、野菜の苗。ついでにリフォームに使いそうな材料の下見もしようと思う。大体の予算を立てないといけないものね。

 悠斗さんに待っていてもらう間に、私は急いで奥でお出かけの準備だ。

 お化粧していると、ふらっとシロさんが現れた。

「スミレ、出かけるのか?」

「うん。町までね。シロさん、お留守番お願いね」

「言われんでも家屋敷は守っとるわい」

 ……私、なぜ普通にもののけさんと会話してるんだろうね。でも不思議と違和感がない。

 シロさんは玄関の方をちらっと見て、私の耳元で囁くように言う。

「あの男、お前のことを狙っとるぞ。気をつけるんじゃぞ」

「あら、そんな心配してくれるんだ」

「お前は一応ここの主じゃ。それに嫁入り前の女子じゃからの」

 ……お父さんか、君は。

「大丈夫だよ。悠斗さんはいい人だよ」

「フン」

 シロさんは、ぷいっと顔を背けたかと思うと、襖を通り抜けて消えてしまった。

 可愛いのか、可愛くないのか微妙な奴だな。

 まあ、留守はシロさんが畑含めてパトロールしてくれるから安心だし、あまり悠斗さんを待たせるのもいけないと思い慌てて準備を終えた。

「お待たせしました」

 待っていた悠斗さんはなんだか微妙な顔だ。

「今、誰かと話してなかった?」

 どきっ。

 そうか、シロさんの姿も声も他の人には見えないし聞こえなくても、私の声は聞こえるんだった! 気をつけなきゃ。

 とりあえず誤魔化しておく。

「え? い、いや。母から電話がかかって来て」

「そうか。じゃあ行こうか」

 ごめんなさい、悠斗さん。嘘つきました……。

 それでは、悠斗さんと初デート……じゃないや、初の町へのお買い物に行きましょう。

 自転車の初乗りは延期ということで。


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