理想と現実
怖いものも見たけれど、朝の散歩は全体的になかなか有意義なものとなった。
村で唯一の商店では、菓子パンとカップ麺、地区指定のゴミ袋、軍手を購入。営業時間や品揃えも確認できた。その名も『林商店』。やっぱり林さんだった。
……実はまだ店は閉まっていた。でも、同じくゴミ袋を買いに来たお年寄りが、店に続いている住居の方へ店主のおばちゃんを呼びに行き、ごく普通に店を開けてもらって買い物をしていくのを見て、ついでに入れてもらったのだ。
お店の人によると、店に人がいなくても家に呼びに行けば、留守や余程の深夜で無い限りはいつでも買い物が出来るとのこと。早い話が年中無休みたいなものなんだって。
お酒、生鮮以外の食品、お菓子、生活雑貨、野菜の種など、それぞれが充実しているとはいえないし、スーパーよりはるかに値段は張るものの一応物はある。果ては宅配便の取り次ぎまで兼備している商店は、車に乗れず遠出が出来ないお年寄りには生命線ともいえる。
とはいえお年寄りも、野菜は畑で採れるとして、他は町まで買いに行かないといけないのかと思ったら、週に一度、移動販売車なるものが来るから大丈夫とのことだった。
移動販売車とは、文字通り動く小さなスーパーみたいなもの。魚やお肉、お惣菜なども買えるのだとか。週に一度だけというのは気になるけど、私も車をなんとかするまでは、林商店と移動販売車には相当お世話になりそう。
買い物を済ませて帰る途中で、昨日は会えなかった森川のおじいちゃんに会った。
白い髪がほんの僅かしか残っていない小柄なおじいちゃんは、人の良さそうな笑顔で言う。
「ばあさんから聞いたよぉ。いやぁ、若い別嬪さんが来てくれて嬉しいねぇ」
別嬪さん……でもないと思うけど、やっぱり嬉しいし照れる。
その後、おじいちゃんと家の近くまで話しながら一緒に帰った。
森川さん家はおばあちゃんも足腰が悪そうだったし、おじいちゃんも結構なお年だ。たまに町から息子さんが様子を見に来てくれるそうだが、お年寄り二人では不安もありそう。一番家が近いから私がお役に立てればと思う。車が来たら病院や買い物くらいは……そう言うと、おじいちゃんが思いがけぬことを言い出した。
「そうかい、今車が無いんかいね。そりゃ、しばらく不便だろう? 自転車でよかったらウチにあるのを持って行ってくれたらええよ」
わあ! それって超嬉しい。
そんなわけで、森川さんの家に寄った。
「息子が乗っていたやつだから古いけどね。もらっておくれよ」
そう言っておじいちゃんが納屋から出して来た自転車を見て、私は驚いた。
せいぜい量産型のママチャリくらいと思っていた自転車は、見るからに海外製のお洒落でかっこいいクロスバイク。微妙な曲線の真っ赤なフレームが素敵だ。まさに、都会でこういうのに乗っている人を見て憧れていたやつそのまま。
「こんなに立派な自転車、いいんですか?」
「年寄には乗れん。置いとくだけも勿体ないでね。乗ってやってくれたら自転車も喜ぶ」
確かにお年寄りではハンドルとサドルを繋ぐようにある高いトップチューブを跨いで乗るのは無理だよね……足、上がらないと思う。
図らずも理想を具現化したような自転車を手に入れ、私は一気に便利になった気がする。車で十分のコンビニにだって頑張れば行けるかも!
美しい景色の中を、この赤い自転車で走ったらさぞ絵になるだろうな。自然の風を頬に感じて走るの……と、私は四季の風景に溶け込む自転車を思い浮かべ、うっとりしながら、自転車を押して家へ帰る。
しかし、脳内妄想劇場から現実に戻るのは早かった。
ここは山間部の村。道は坂道がデフォルト。特に、最も上の私の家の前は、結構な勾配である。確かに下りは楽だろうが、帰り道は確実に押して徒歩だ―――。
「いきはよいよい……だね、まさに」
自転車はありがたいが、やっぱり車探しも急いだ方がいいな。現実って厳しい。
散歩から帰ってやっと朝食。林商店で買って来た菓子パンとコーヒーだけどね。
シロさんは朝ゴハンはいらないよね? モノ食べないって言ってたし、朝からお酒もなんだから、お供えするのは夕方でいいか。
パンを齧り、スマホを片手で弄りながら、ふと私は気が付く。
「うーん、インスタントコーヒーと、袋に入った菓子パン食べながら、ネットオークション見てるって、なんか違う気が……」
やっぱり、せっかく田舎で古民家暮らしだったら、もっとそれっぽい、ロハスな生活をしないといけない気がするのよね。
スマホはともかく、パンだって天然酵母の石窯で焼いた手作りだったり、コーヒーも有機栽培の豆を挽いて天然水で淹れるとか……まあ、今のところ無理だけど。
これじゃ、都会にいた時となにも変わってない?
そんな時、玄関の呼鈴が鳴った。
「はーい」
玄関に走ると、そこにいたのは、役場の定住課の林……いや、悠斗さんだった。
「菫ちゃん、おはよう。近くに用事があるついでに様子を覗きに来た。どう? 昨夜は初めての家で眠れた?」
「はい。自分でもびっくりするほどぐっすりでしたよ」
「それは良かった」
今日も笑顔が爽やか。嬉しいな、今日も会えた。
悠斗さんはどう見ても仕事の途中だし、近くに用事があるって言っていたのに、私はなんとなくすぐに帰したくなくて誘ってみる。
「急ぎで無かったらコーヒーでも?」
「急ぎじゃないって言ったら嘘だけど、ちょっとだけ」
悪戯っぽく笑って靴を脱いだ悠斗さんは、私がそういうのを待ってたみたい。
あっ、しまった。食べかけのパンとスマホを放置してたんだ。案の定、悠斗さんが気が付いてしまった。
「あれ、朝食まだだったんだ。ゴメン」
「いいんですよ。散歩に行ってたから遅くなっちゃっただけ」
手早くもう一人分コーヒーを入れて、一緒にテーブルを挟んで掛けた。
「ありがとう。コーヒー、飲みたかったんだ」
「またインスタントですけどね。それに朝食が菓子パンっておかしいでしょ?」
そこで、さっき思っていたせっかくの田舎暮らしなのにという話をしたら、悠斗さんは困ったような、呆れたような顔でため息をつく。
「そうこだわる必要は無いんじゃない?」
「そうですかね?」
「こう言っちゃなんだけど、都会から来る人って理想が高すぎるっていうか、妙なこだわりがある人が多い。無農薬じゃなきゃダメ、手作りでなきゃダメ、木綿や麻の自然素材の服で、暖房は薪ストーブじゃないと、骨董にこそ価値が……みたいな。それを悪いとは言わないけど、イメージが先行しすぎだよ。山奥に住んでる人間だって、インスタントやレトルトだって食べるし、最先端の家電もだって使うのにね」
ちょっぴり耳が痛い。確かに私にもそういうイメージ先行の傾向があるのは否めない。テレビやネット、雑誌で見るような、カッコイイ暮らしがしたいって思う人は多いだろうね。
「そこまでこだわるつもりは無いですけど、せっかくなら私も少しは変わりたいんですよね。都会にいた時と同じじゃ、つまらないでしょ?」
「まあね。でも急に生活を変えるのは難しい。まだ始まったばかりだし、ゆっくりでいいと思うよ。野菜だって種を撒いて、すぐに採れるものじゃないだろ? 時間と手間をかけて育てないと。それと同じで、変わるのなら少しづつ、理想に近づいていけばいいよ」
そんな悠斗さんの言葉に、すっと心が落ち着いた気がする。
やっぱり、悠斗さんはすごい人だ。昨日の『初めては一生に一度しか無い瞬間』に続いて、今日も奥の深い言葉が飛び出したよ。
「時間と手間をかけて……少しづつ。そうですよね。無理なくゆっくりやります」
「僕も手伝うよ。個人的にね」
……そして、今日も飛び出した『個人的』発言。地味に押しの強い人だ。
「じゃあ、菫ちゃんはどんな風に変わりたい?」
「えっと……」
訊かれてもすぐに答えられない私は、自分にまだ具体的な方向性が定まっていないことに改めて気付かされた。
「畑で自分の食べる野菜を育てたいし、まだ明確なビジョンは固まってないけど、DIYで家も弄りたい」
とりあえずそうとだけ言っておく。そんな私に、悠斗さんは真摯に答えてくれた。
「うん、いいね。じゃあ、次に考えるのは、とりかかる優先順位を決めること。自分でリフォームをするには、資材もそれを運ぶ車も必要だから、できれば二番目以降に。畑をやるなら早めがいいとだけ言っておくよ。収穫できるようになるまで時間がかかるからね」
「なるほど。まず畑ですね」
すごいすごい! こうやってアドバイスをもらえば、私もやるべきことがわかる。
もっと他にもアドバイスが欲しいなーと思っていると、ハッとしたように悠斗さんが腕時計を見て慌て始めた。
「おっと、そろそろ行かなきゃ」
「ごめんなさいね、足止めして。すごくためになる話が聞けて嬉しかったです」
名残惜しいけど仕方がない。仕事中だものね。
玄関まで見送ると、靴を履きながら悠斗さんは言い残す。
「もう一つだけ。自分一人でなんとかしようと思わないことだ。色んな人に甘えて、頼ればいいよ。特に僕にはうんと甘えてね」
そうにっこり笑って、悠斗さんは手を振って行ってしまった。
「甘える……か」
最後のところはまあ置いておいても、新鮮な響きに戸惑った。
残業手当も出ないのに、夜中まで身も心もクタクタになるまで働いて、恋をする暇もなくて。人間関係もギスギスしてて。精神的に追い詰められていた私は、人に頼る、甘えることに慣れていないのかもしれない。
今は時間に縛られることも無く、自由なのだ。だから変わるのもゆっくりのんびりでいいんだ。
これから、色んな人にお世話になって、頼らなきゃいけないこともあるだろう。甘えたい時もあるだろう。でも、いいんだよね、甘えても。そう思うと本当に気が楽になる。
だけど、自分で出来ることは自分でやらなきゃ。とりかかる優先順位を決めることだって、悠斗さんも言っていた。出来ることからコツコツと、だね。
まずは畑。何か植えないことにはいつまでたっても収穫などできない。次に蔵、物置の状態を見る。まだ荷解きも完全に終わったわけじゃないからそれも済ます。その次に家のリフォームをどうするか考える……という順序でしばらくは動くことにした。
というわけで、意気揚々と畑にやってきたのだが―――。
「……畑、だったもの……だよね、これは」
内覧の時に、悠斗さんに案内され見に来たのがまだ寒い頃だったこともあり、草もそんなに生えておらず、なんとか畑らしい見た目だった。耕せばすぐにでも使えるって感じで。
しかし、今の有様はどうだ。
一面の緑の空間。かろうじて畑の部分はまだ背が低いとはいえ、びっしり雑草。その周囲の土手になった部分に至っては、腰、いや、胸ほどもある草が生い茂っているではないか。
「うわぁ。これは手ごわそう」
思わず独り言を溢した私に、思いがけず声が掛かった。
「まぁのぉ。山里に住もうて、田畑をやろうちゅう者にとって、草取りは避けては通れん仕事じゃからのぉ」
声の方を振り返ると、そこにはシロさんが腕組みして立っていた。あら、昨日の夕方以来だ……じゃなくて!
「なんで家の主が家から出て来てるのよ?」
階段の鍵は掛けて来たのに。やっぱり自由に出入りできるんじゃない。
「田畑も家の一部。主のワシが守らねばならん範囲じゃから、一日に一度は見て回っておる」
ほう。家の主って、毎日敷地内をパトロールしているのか。それはご苦労様。でも……。
「その割には草ボーボーだね」
「見ては回るが、ワシには草取りも耕しもできんでの」
「左様ですか……」
そういえば、シロさんは実際に物を掴めないのだった。すり抜けちゃうからね。じゃあ何のために見て回っているんだという言葉は飲み込んでおこう。
「言っとくが、これからの季節、草はナンボでも生えてくる。放っておいたら畑も家も埋もれてしまうぞ」
「それ、畠さんのおじさんも同じこと言ってた。やっぱりそうなんだ」
畑だけじゃなく、家の周りも雑草とりしなきゃね。まさに毎日が戦いなんだと実感
朝、散歩の途中で見た草木に埋もれた空家……あんな風になっちゃったら大変だ。
そこで思い出したのが、一瞬見えた恐ろしい幻。
別人……人じゃないけど、シロさんに少し似てた。多分あれも家の主―――。
「ねぇ、シロさん。人が住まなくなって、家が壊れたら、家の主って死ぬの?」
「さてのぅ。どうじゃろうな」
シロさんは軽く肩を竦めただけで、上手くはぐらかされた気がする。
まあいいか。今はとにかく少しでも草むしりを……と、私は手で雑草をブチブチ引っこ抜き始めた。林商店で軍手を買っておいて正解だった。
これは相当時間がかかりそう。蔵と物置はお楽しみに置いておいてもいいかな。今日はこの草ボーボーの荒れ地を何とかすることに全力をかけて作業しよう。せめて畑の部分くらいは。周りは後で鎌ででも刈ればいいかな。
なぜかシロさんは家に入らずにずっと私の横に立っている。いるだけで何もしないんなら、他をパトロールに行くか、屋根裏に帰ればいいのに。
「がんばれよ、菫。その花の咲いとる草は早めに刈らんと、種が落ちてどんどん増える」
応援とアドバイスだけはしてくれるのね。それだけだけど。
まあ他の人が通りかかったところで、シロさんの姿は見えないだろうし、孤独な作業だから、いてくれたら少しは寂しくないからいいともいえる。
シロさんに見守られつつ、私がひたすら草むしりをすること数十分。
気が付くと、軍手の上に緑色のものがうねうねしていた。ひぃいい! 芋虫っ!
「きゃあ!」
慌てて手をぶんぶん振ると芋虫は落ちたけど、私、虫は大嫌い!
シロさんは腕組みでふんぞり返って呆れたように言う。
「虫くらいおる。そんなことでいちいち驚いていては生きてゆけんぞ」
「そ、そうなんだけど」
ううっ、正直もうやめたい……早くも挫けそう。
一度立ち上がって、辺りを見渡す。
……まだ畑のほんの十分の一ほどしか綺麗になってない。耕せるまで一体何日かかるのやら。周囲に至ってはまだ手付かず。腰ほどもある草が伸び切ってるんだけど……。
そんな時、ぶいーん、と大きなモーター音が聞こえてきた。そちらを見ると、隣の畑の土手を畠のおじさんが草刈りしている真っ最中だった。この畑の周囲といい勝負なくらい、草に覆われていた土手だ。
「あっ……」
隣の土手、おじさんが機械を軽く振り回す度に、見る見る綺麗になっていく。茂りまくっていた草が、手入れされた芝生の庭並みになってますが?
それを見てシロさんが長閑に言う。
「最近は便利なものがあるのぅ、菫」
うん……草刈り機、私も欲しい。