色々な初めて
無事……かどうかは微妙ではあるものの、ご近所に挨拶回りも終わり、悠斗さんは『個人的に』家具の移動を手伝ってくれた。
水も出るし、荷物からやかんやカップも発掘したことなので、キッチンで一息つこうとコーヒーを淹れた。
「どうぞ。インスタントで申し訳ないけど」
マグカップで差し出したコーヒーに、悠斗さんはすごく嬉しそうに反応する。
「ここで初めて淹れるコーヒーを、僕がいただけるなんてラッキー!」
「そんな御大層な……」
コーヒーなんて、どこで淹れても一緒だと思うんだけどなぁ。
「だって、ほら。なんでも一番最初、初めてって特別でいいと思わない?」
「そうですか?」
お風呂やお店の一番乗りの好きな人とかいるよね。実家の父がわりとそんな感じだったから、悠斗さんもそのクチなのかな? 私はそのくらいにしか思っていなかった、しかし、彼は予想外に興味深い話を始めた。
「僕ね、最初は今の課に配置されたのがすごく嫌だったんだけどね、今では良かったって思ってるんだ。人の色々な『初めて』を見られるから」
「色々な初めて?」
「そう。初めての土地、初めての挨拶、初めての失敗、初めての畑仕事、初めての収穫。ここに夫婦で移住してきて、初めてお店を開いた人もいる。そのお店の初めての看板、初めてのお客さん……いい事でも悪い事でも、それは、その人にとって、全てが一生に一度しかない記念すべき瞬間だろ? そうそう立ち会えるものじゃない。今の仕事はそれが見られるんだから」
その話を聞いて、私は雷にでも打たれたような衝撃を覚えた。
初めては、一生に一度しかない記念すべき瞬間―――。
確かにそうかもしれない。
当たり前のようで、今まで考えた事も無かった。何気なく過ごしてしまった時だって、もう二度と訪れない大事な瞬間だったんだって、再認識させられたことに私は衝撃を覚えたのだ。
そんな風に考えられる悠斗さんって、実はすごい人なのかもしれない?
「今日、菫ちゃんにも初めてをいっぱい見せてもらった。初めてこの家の鍵を開けた瞬間、家に一歩入った瞬間。近所に挨拶に行くのだって初めてだろ? それに僕を初めて名前で呼んでくれた」
最後の名前云々はまあ置いておいても、今日、確かに私には初めてのことがいっぱいだった。
私も、もっと何をするにも『初めて』を意識したら、これからの人生が少し楽しくなる気がする。
「じゃあ、これからもいっぱい私の『初めて』に付き合ってくださいね」
とても素敵な事を教えてもらったと感動した勢いで、私は裏表ない気持ちで言ってから、自分でも「ん?」って思った。なんだかとっても恥ずかしい事を言ってしまったような。
仕事で今この人はここにいるだけであって、この人は私だけでなく、他の人とも同じように付き合わなきゃいけないのに、私ったら。
それに男性、しかもわかりやすく『個人的に』好意を示している人に言うのって……。
「菫ちゃんの初めてに付き合う……」
ほら。なんか悠斗さんが微妙に照れてませんか?
そんな間の悪い私を救うように、鳴り響いたのは悠斗さんの電話の着信音だった。グッジョブだよ今電話をかけて来た人!
「ちぇっ、タイミングの悪い」
文句を言いながらも、電話に出る悠斗さんは気持ち背筋をぴんと伸ばした。
「林です。……はい、ああ、その件ですね……」
おお。表情も口調もころりと変わっている。仕事モードにチェンジ? 相手に見えないのにお辞儀しちゃうんだよね。
ひとしきり難しい事を喋って、通話を終えた悠斗さんはあからさまにがっかりした顔に再びチェンジ。この人は、実にオンオフのハッキリした男だ。こういうの嫌いじゃない。
他の急用が出来たということで、結局悠斗さんは職場に戻る事になった。残念ではあるが、まだ就業時間内だし、私だけの担当じゃないんだから仕方がない。
慌ただしくコーヒーを飲み干して、玄関に向った悠斗さんはまだがっかり顔だ。
「本当にこの後一人で大丈夫?」
「はい。えっと……もし、何かあったら電話するかも……」
私がそう言うと、悠斗さんは、ぱぁっと目を輝かせて、とってもいいお顔で笑った。
「電話してよ! ホントにいつでもいいから! 来てって言ってくれたら真夜中でも飛んで来るからね!」
ものすごく名残惜しそうにブンブン手を振りながら去っていく悠斗さん。
本人には言わなかったけど、仕事途中の公務員さんにいきなりナンパされたのも初めて事だよ。それに若い男の人に『菫ちゃん』なんて言われたのもね。
さて。悠斗さんも帰ってしまったので、私はこの後何をしようかと思った時、先程、挨拶回りでもらった袋と瓶が目に入った。
「……どうしようか、この大量のお豆……」
いただくのは嬉しいこととはいえ、量が半端ない。しかも時期的にどこも同じような物が採れるから重なるんだね。
これって、私が一人前に畑で収穫できるようになるまで、この先ずーっと季節季節の野菜がこの状態になるんだろうか。ううっ、考えただけで恐ろしい。
こういうのも、例の『田舎の洗礼』なのかもしれない。
だけど、せっかく貰った物を捨てるのも忍びない。
とりあえず、しばらくは毎食豆を食べることになりそうだ。いっそ半分くらいは実家の両親に送ってもいいかもしれない。
そして、豆と共にもらったお酒の瓶で思い出した。
さっき悠斗さんは一人でって言ったけど、私一人じゃないじゃん、この家。
私にはもう一つ大きな大きな『初めて』があったんだった。
初めて人以外の存在が見えて、話をしたっていうね。
物の怪っていっても、家の主は悪いものじゃなくて、むしろ良いものだと知ったから怖くはないんだけど―――。
木村のおばあちゃんにせっかくお酒をもらったことだし……試してみようかな。
そんなわけで、廊下の突き当りのドアに向って声を掛けてみる。
「シロさんいる?」
「何じゃ? 呼んだか」
扉の向こうですぐさま声が返って来た。でも、出ては来ないんだね。
ひょっとして、私が出て来るなって言ったのを、律義に守っているのだろうか。そう思うとちょっと可愛いかもしれない。
「シロさん、お酒は好き?」
ドア越しに尋ねると、少し嬉し気な声が答える。
「大好物じゃ。人間の一番いいところは、酒を作ったことじゃな」
やっぱり好きなんだ。昔の人はよく知ってたんだね。
「何じゃ? 酒を飲ましてくれるのか?」
顔が見えなくても、シロさんがワクワクした声なのがわかる。
「うん。木村さんのおばあちゃんが一升瓶でくれたの。家の主さんにって」
そう言うと、「ふおおぉ!」って面白い声が聞こえた。姿を見なくても絶対にガッツポーズでもして喜んでいるとみた。
「木村と言ったら、大きな蔵と柿の木のある家じゃろ?」
「知ってるの?」
「あの家の主は、毎日酒が飲めるのをいつも自慢しておってな。面白く無かったんじゃ」
ふうん。ネットワークみたいなのがあって、家の主同士で話したりするのかな? まあ自慢されると面白くないのは人間も同じだよ。
「えっと……その、出て来てもいいよ? お酒、一緒に飲もうか」
そう言って、私は階段への扉の鍵を開けておいた。
すぐには出て来なかったシロさんは、しばらくして足音も立てずに居間に現れた。
なんだか緊張しているみたいな顔をしているね。私も誘っておいて緊張はしてる。
「今日は初めて記念だから、特別に一緒にね」
「……酔狂な娘じゃな」
実際に一切音はしていないのだが、どかっという感じで胡坐をかいて座ったシロさん。
「どうぞ」
盃が無かったから湯呑で悪いけど、私がお酒を注いで差し出すと、シロさんは目を輝かせた。くんくん匂いを嗅いでるね。
「おつまみが茹でた豆だけって寂しいけどね」
「ワシは物は食わん」
そうだよね……ご飯も食べるんなら、それはそれで困る。
「じゃあ、乾杯」
私も少しだけ注いだ湯呑を掲げて、ぐいっといく。
シロさんも一口煽って、ぷはっと息を吐いた。
「いい酒じゃ……それに、人と酒を飲むなど、何十年ぶりかの」
そうしみじみ言うシロさんは、目を細めて悲しいのか嬉しいのかわからない表情だ。
私は人以外のものと晩酌なんて初めてだよ。これも悠斗さんの言っていた一生に一度しかない『初めて』の瞬間なのかな。そう思うと素敵な気がした。
それにしても、本当に美味しそうに飲むのね。
「木村さんのところみたいに、毎日でも飲ませてあげるわね」
「それは嬉しいのぉ」
シロさんは一杯だけお酒を飲んで満足したのか、ご機嫌な様子でさっさと屋根裏部屋に戻って行ってしまった。
不思議なことに、美味しそうに飲んでいたように見えてたのに、残されていた湯呑のお酒は減っておらず、舐めてみたら木村さんが言っていたように、確かに水みたいに薄くなっている気がした。どういう仕組みなのかはわからない。
その後、初めてこの家で夜を迎えて、初めてのお風呂に入って、初めて眠った。
人以外のものがいる家で、怖くて眠れないんじゃないかと思っていたのに、疲れもあってか布団に入ってすぐに眠れてしまった。そりゃもうぐっすりと。お酒のせいかも?
初日から馴染んでる私って、案外神経が図太いのかもしれない。
移住二日目。
今日は、昨日覗きもしなかった蔵や物置の方も見ておきたいし、畑の方も気になる。それに、もう少し組内以外の広い範囲を散策したいし、村に唯一ある商店にも行ってみなきゃ……というわけで、まずは朝の散歩がてら、商店を目指すことにした。
もう開いてるかな? 開いていたらパンくらい買えればいいな。まだ閉まっていても店の前に自動販売機があったのは確認済みなので、ジュースくらいは買ってこよう。
お財布を持って、軽い足取りで家を出発。
昨夜屋根裏に帰ってから、シロさんは姿を現さなかったし、声も聞こえない。
本人……人じゃないけど……が言っていたように、本当に生活の邪魔にはならないみたい。むしろ、昨日みたいに一緒に晩酌するのも、ある意味楽しみかもしれないとすら思える自分が不思議。
そんな事を考えながら歩いていると、山際に手入れされた畑や田んぼとは異質な一角が目に入った。こんもりと生い茂った緑の間から屋根が見える。
「空家?」
何気なく近づいてみると、草木に埋もれたそこは、人家だったものだった。
昔はさぞ立派だっただろうことを思わせるに充分な、見事な意匠の鬼瓦のある屋根も、瓦の多くが捲れ落ち、あちこちに草や苔が生えて緑になっている。
全体を蔦や葛の蔓が覆い、覗く部分からは、割れたガラスの隙間から風雨が吹き込んで荒らしたのか、破れてボロボロになった障子や、中にも笹などの草が生えているのが見える。一部の壁など、伸びすぎた木の枝が突き破っているところさえある。
明らかに傾いている家は、もうすぐ崩れ落ちることが容易に想像できた。
「放っておいたら、家ってこんなになっちゃうんだ……」
この家にも主はいたのだろうか。もういないのかな、そう思ったときに、家の代わりに恐ろしいものが見えた。
「えっ?」
蔦に手足を絡めとられ、木の枝に体を貫かれている、ボロボロになった着物を着た人の姿。かくりと伏せた顔は見えないが、白っぽい長い髪はシロさんを思い出させる。
私は怖くて目を閉じた。
そしてもう一度目を開けると、もう恐ろしい眺めは無く、ただ滅びの時を待つだけの家が静かに草木に埋もれて佇んでいるだけだった。
今のは幻だろうか―――。
こんな風にしちゃいけない、そう思って私は逃げるように空家から遠ざかった。