常温
翠にとって、日常のあるべき姿とは何なのだろうか。
勝手に理想を胸に押し込み、その幸せに触れるのを怖がってしまっているのは、彼の愚かさゆえか。それとも……
「翠。ここを答えろ」
意識が朦朧としていたところに、圧力のある声調で名前を呼ばれる。四時間目の授業は化学基礎だった。目の前にはいつ開いたか分からない教科書に、電子ボードはすでに情報で溢れかえってノートに移す余地はなかった。
この教科の担任はやや気難しい性格で、出来ることなら怒らせたくない。もっといえば関わりたくないような老年の人物だった。教室の皆も彼についての陰口を溢すことが多い。
「すみません、公欠していたので分かりません」
しかし、今は正直に言葉を返すしかない。濁そうにも誤魔化すことが出来ない質問をされている。
僕のその返答を聞いて彼は顔色を変える。眉間に皺が寄り、よりドスの効いた声で言葉を返される。
「この税金泥棒が、本当はサボっていたくせに。後ろの席、これを答えろ」
彼は僕の後ろにいる生徒に矛先を変える。
「えぇ、俺ですか? 寝てたんで分かりませんよ」
「何だ、お前も答えられないのか。ふざけよって」
業を煮やした彼は自分で問題の答えを発言し、電子ボードに情報を追加する。そのあと授業が終わるまで険悪な空気が続き、とても居心地のよい時間ではなかった。
待ち望んでいたチャイムが鳴って皆は昼食に入る。僕はいつも通りに軍規定の携帯糧食の袋を開封して、中身のほぼ固形といえるゼリーを口に運ぶ。美味しくない。
「おい、お前」
一口かじったところで、後ろから声を掛けられる。
「さっきの彼奴の言葉、あんま気にするなよ。この学校の先公共は陰険な奴ばっかりだからな」
彼は髪を染めていて、殆どの人が不良って言いそうな風貌だった。しかし、掛けられた言葉はとても優しい。
「分かってるよ。ありがとう」
「おう」
体の向きを元に戻す前に、僕は彼の名前を聞き出したかった。
「そうだ、君の名前は?」
「あぁ名前? 俺、岡崎。岡崎優斗」
岡崎。人は見掛けによらないものなんだなと、さしぶりに感じた。彼は良い人だ。
放課後、彼と連絡先を交換して帰路につく。あと一週間で4月は終わる。だが、まだまだ外は寒い。かなり風が冷たい。戦闘服ならば余程極端な気温でない限り、夏だろうが冬だろうが快適だった。しかし、この学生服というのは当たり前のように風が通る。特に首もとが無防備だ。
かといってマフラーを巻くと暑くなる。だから僕は普通の服が嫌いだ。もっといえば、季節の変わり目が大嫌いだ。どっち付かずでとても苛々してしまう。
唯一、軍規定の特殊素材のタクティカルシューズが足を快適にしてくれた。
早足で歩道を抜け、家の玄関を開ける。室内に入ると少し暑い。鞄を置いて靴を脱ごうとしたとき、僕がただいまと言う前に百合音お姉ちゃんの声が聞こえてくる。
「ねぇ翠。この封筒を梅さん家まで届けてくれない?」
どうも慌ただしい様子だった。
「そんなに慌ててどうしたの」
「休みなのに呼び出されちゃったのよ。梅さんブーム再来だってさ」
部屋の奥からいつものスーツ姿で飛び出してくる。慌ててヒールを履いて、僕に封筒を手渡す。
「悪いけど、夜ご飯はどっかで済ませといて。それじゃあ行ってくるわ」
さっき開けたばかりの玄関を勢いよく開けて出ていった。小走りで階段を降りてる音が聞こえてくる。
今日の夕飯は一人で済ますことになるのか。そう思うと少し気分が悪い。
僕は学生服を脱いで、いつもの戦闘服に着替える。バリアドレススーツ。ハーベスターの為だけに開発された戦闘服。超能力エネルギーに反応することで、どのような環境でも機能する体温調節構造に、全ての衝撃を遮断するバリア機能。そして筋力補助機能。まさしく兵士の要求が全て寄せ集まった完璧な戦闘服だ。
これさえ着込めば安全だ。死ぬことはない……という訳ではないのだ。バリア機能はエネルギー蓄積型のため、一定量の衝撃を加えるとただの破れにくい頑丈な服に成り下がる。よって炎を防ぐことはできない。 難燃素材ではあるが、そういう機能だけなら消防士の防護服のほうが遥かに性能が良いだろう。体温調節構造も最高気温43℃、最低気温マイナス25℃の間でしか機能しない。見掛けだけは完璧に見える戦闘服である。ただ一つ良いところを上げるとすれば、洗濯してもすぐに乾くところだろうか。
ハーベスターにはこの戦闘服が4着も支給される。特に重要な用事がない限り、常にこれを着用しておけという事だ。それで僕は自律神経をやられてしまった。
ベルトに着けたカイデックス製のホルスターに拳銃を差し込み、かなり大きい封筒を持って僕も家を後にした。
個人用ビークルの装甲バイクに搭載されたタブレットのナビゲーションシステムに従い、オート操縦のおかげで僕はアクセルとブレーキを管理するだけでいい。やがて目標地点に到着すると、メーター近くに光るタブレットは自動で電源が落ちる。ゆっくりとバイクから離れ、ゴツい第3世代ヘルメットを脱いだ。いつ見てもこのヘルメットはデザインが良く出来てると思う。軍用のくせに。
ヘルメットをベルトのカラビナに引っ掛けて、インターホンのボタンを押す。かなり古いインターホンだ。
「はい、どちら様……あらぁ、翠ちゃんじゃない。どうしたの?」
金属とガラスで構成された古くさい玄関のドアが開く。その奥からは部屋着姿の梅さんが出てくる。
「こんばんは。これを渡しに」
「随分と大きい封筒ね。そういえば次の仕事の資料を頼んでたっけ。百合音ちゃんは?」
「仕事に行きました」
「そうなの。何だか申し訳ない気分」
「それでは僕はこれで」
カラビナに引っ掛けたヘルメットを手に取りながら、立ち去ろうとした。だが、梅さんは僕を引き留めた。
「どうせなら上がんなさいよ。こうして会うのもさしぶりなんだからさ」
「でも、娘さんがいるでしょう?」
「幼馴染みでしょう、気にしないわよ。ほら上がって」
僕は押し込まれるように梅さんの家へ入る。一軒家特有の長い廊下。そういえば子供の頃に百合音お姉ちゃんがここに預けてたんだ。しかし、記憶が曖昧すぎて僕は初めて踏み入れたかのような感覚だった。
軋むフローリング、引き戸の先にはとても広いリビングがあった。この風景を見た瞬間、良い暮らしをしているんだなって確信した。
ヘルメットを両手で持ったまま、どこか不安な感情で歩み始める。
「ほら綾美! 翠ちゃんが来たわよ!」
梅さんが僕の後ろで大きな声をあげる。元気の良いはつらつとした声だ。
その声に反応するように、リビングの奥に座る彼女はこちらを見つめてきた。
「……うん」
「何よ、元気ないわね。そうだ! 夜ご飯食べていきないよ! どうせ百合音ちゃん作ってないんでしょ?」
「それは流石に」
「良いじゃないの! ね、綾美?」
梅さんは一人で物事を進めていく。なるほど、だから彼女は伝説級の歌手になれたんだな。この豪快さがなければやっていけない。
一方、綾美は電子端末を見詰めながら固い表情で小さく頷く。それ以外は微動だにせず、目線も合わない。
「やはり僕は帰ります。緊急出動があるかもしれないので、貴女の料理を残して出ていってしまうかもしれません」
「えぇ? そんなこと言ったら誰ともご飯食えないじゃないの」
「すみません。どうも、失礼しました」
「まぁ分かったわ。また時間があればウチに来なさいな」
「ええ。いつか必ず」
心にもない言葉。出来れば二度とここには来たくない。僕がいるべき場所ではないのだ。軍人という存在が介入して許される空間ではない。彼女二人だけで、平和な日常というのを讃歌するべき空間なのだ。
火薬が染み付いた汚れた人間が、この場を荒らしてはならない。そんな強迫観念が生まれてしまっていた。
僕はそそくさと梅さんの家を出て、部隊連絡用の端末を開く。ボタンを押し込み、起動した瞬間、部隊の集合を知らせるメールが届く。ああ、なんてタイミングの良い通知なのだ。まるで僕の心情が筒抜けになっているかのような……
時刻はもう7時半。今日の夕飯は抜きになりそうだ。
「TG-A3 スターキッカー」
・ブルーリーパーが正式採用しているポリマーフレームのオートマチック拳銃。使用口径は45ACP弾。
最大装填数は12+1発。元となったTG-A1は世界で幅広く使用されている傑作拳銃で、これは米軍が使用する改良モデルをブルーリーパーの要求する性能へ改造した新規モデル。