忘却
防人として定めを受けたのならば……
こうやって深く眠りについたのは何日ぶりだろうか。と翠は思って目が覚めた。壁にかけられた時計で時刻を確認すると夜の8時を回っていた。昼過ぎからずっと眠っていたのだった。
ソファーからゆっくりと身体を起こすが、聴覚が機能していない。まだ完全に覚醒していない朧気な視界が徐々に鮮明になっていき、女性の話声が耳に聞こえてくる。
「やっと目が覚めたの?」
すぐ近くのテーブルにいた百合音が翠に話し掛ける。その顔は酒に酔って赤く紅潮していた。
「やっと?」
「そうよ、揺さぶっても起きなかったんだから。お客さんが来てるのに困ったもんね」
百合音はそう言って視線を横へ。その先には一人の女性が酒を煽っていた。その隣に座っているのは、綾美。何故彼女がここに?目覚めてから唐突すぎることばかりで、混乱する翠。
「おはよう。あたしのこと覚えてる?」
缶をテーブルに起きながら、"お客さん"の彼女は質問する。はっきりと顔が見えたが、名前が浮かんでこない。 どこか見覚えのあるようで、しかし正確な記憶がないような曖昧な感覚が翠を襲う。
「貴女は?」
翠は恐る恐る言葉を発する。
「あら、本当に覚えてないの。まぁだいぶ昔の事だしそりゃそうか」
彼女はそう言って微笑む。そこに百合音が割り込んでくる。
「梅さんよ。もう歌手は引退してるけど、何度か預けたことあったでしょ?」
百合音は呆れたような口調で話す。
梅さん。そうだ、僕は彼女に育てられたことがあったんだと。翠はずっと遠い記憶が甦ってきた。
「あぁ、新谷さんですね。失礼しました」
「そんなに畏まらなくても良いじゃない、もう百合音ちゃん。子供の頃から全然変わって無いわね」
「ごめんなさいね。ほら、あんたもこっちに来なさいよ」
そこに茶々を入れるように言葉を割り込む梅。
「綾美ちゃんも待ってるわよ」
梅の隣に座っているのは、長らく姿を見ていなかった綾美がいた。正確には、姿を見せなかったのは翠の方なのだが。
綾美は大人しい雰囲気で、俯いてる訳でもなく、ただお菓子を食べているだけだった。母の軽い冗談に反応した彼女は翠を見つめる。
「……」
綾美は俯いて黙っていた。
「もう照れちゃって」
すっかり酔ってしまっている梅は綾美のことを小突く。じゃれあう母子は半笑いになったが、翠だけは急に青ざめたような表情に。
彼はポケットから携帯端末を抜き出し、目付きを変えながら通知を確認する。そうだ。昼過ぎから今までずっと爆睡していたのだ。常日頃緊急出動が要求されるハーベスターにとって致命的な行為をしてしまったのだ。
幸いにも緊急連絡の通知はない。安堵したその瞬間、警告音のような通知音が部屋に鳴り響く。
「えっ? どうしたの?」
それに驚いた梅は思わず口を開く。綾美も驚いて硬直している中、百合音は慣れたような顔で黙々と酒を飲む。
まるで火災ベルが起動したかのような音がいきなり部屋中に轟けば誰だって驚いてしまう。だが、翠はそれを謝る暇もなく端末を起動する。
「ハーベスターへ緊急連絡。土山本社ビルにて超常物体の出現を確認。現在トン・モーザ隊員とケルディー・カーベック隊員が出撃準備中。区域担当のハーベスターは30分以内に急行せよ。繰り返す……」
全文英語の機械音声が淡々と部屋に響き、リピートが始まる前に翠は端末を切る。そして急いだ様子でバトルジャケットを羽織り、腰に下げた拳銃を確認する。上下ともScorpion W2迷彩で統一され、バリアドレススーツが完成する。その姿は軍事と関わることのない一般人にとって大きな威圧感を与えるものだった。面ファスナーを慣れた手付きで留めていき、急ぎ足で玄関へ。
その様子を見ていた梅と綾美は、目の前の展開に追い付けず呆気にとられていた。百合音は頭を抱えるような体勢で翠をじっと見詰め、願うように呟く。
「生きて帰んなさいよ」
非常に単純で簡潔な言葉。それに対し、翠は背を向けたまま頷いて、飛び出るように家を後にした。
一気に静まり返った室内。残された三人は、ただならぬ雰囲気になっていた。
「あーあ。酔いが醒めちゃった」
重たい空気を破ったのは百合音。開き直ったような口調で言葉を溢し、新しいビール缶を開けながら欠伸をする。
「本当に軍人さんだったのね」
そう言って顔をしかめる梅。
「……えぇ。あの子はもう立派な軍人さんなの」
百合音はまるで皮肉のように言葉を返した。その様子に梅は何とも言えぬ表情で彼女を見つめる。やがて哀れみの瞳に変わっていった。
「……ママ、そろそろ時間」
そこに綾美が割り込む。本当なら四人で外食をするつもりだったのだが、その予定が崩れてしまった。梅は気を取り戻したかのようになって席を立つ。
百合音も開けたばかりのビール缶をそのままにして、掛けていた上着に袖を通した。
「それじゃあ行きましょう」
そう言いながらヒールを履く百合音。玄関を開けた先には、既に翠の姿は無かった。
人は常に変わり続ける。全ては環境がそうさせるのだ。