白昼夢
薄い記憶、遠い眠りのその向こう。翠の心に残るのは、何だ。
目が醒める。柔らかくないベッドの上で、翠は意識を取り戻した。外的なものではなく、精神的なストレスによる気絶だった。頬に残る痛みは消え去っていた。ゆっくりと身体を起こして周りを確認した。ここは学校の保健室だ。薄暗い。気が付いたかのように自分の右腰に手を当てて拳銃があることを確認し、安心感を得る。そして立ち上がってカーテンを開けた。
狭くはないが、さして広くもない保健室。黒い回転椅子に黒いスーツジャケットの女性が一人。
「目が覚めた?」と、彼女が翠へ。「頭痛は無いかしら」
翠は無言で周囲を見回して、ソファーに置いてあった自分の鞄を肩に掛ける。
「ちょっと、どこへ行くのよ」
彼女のその言葉に翠は答える。
「帰ります」
「待ちなさい、まだ授業が」
「こんなところにいて堪るか。帰らせてもらいます」
当たり前だ。教師が殴り掛かってきて、敵意の目を向けられる。こんな場所、翠にとっては敵の陣地も当然だった。
学校にいる大人共は自分を認めていない。全てを否定してくる。自分が命を削って人類を守っている最中で、こいつらは呑気に酒でも飲んでいると思うと虫酸が走る。
翠は左手で手動のドアを開こうとしたが、どうも指が動かない。どうやら、殴り倒されたときに自分の体重で壊してしまったようだ。びくともしなかった。
「糞が!」
翠は義手を無理矢理外して床へ投げ付けた。
「どうしたの」
黒いスーツの教師が側に寄ろうとしたが、それを拒絶するように言葉を返す。
「貴女には、関係ない」
右手でドアを強引に開けると、そのまま玄関へ向かった。
今の翠には全てが敵に見えた。特に学校の教師は、ファントム以上に憎くて醜く視界に映った。左腕の袖が揺れる。近くの駐車場に置いてあった装甲バイクのエンジンを回し、そそくさと駐車料金を払ったらすぐにバイクを走らせた。
向かうは自分の家、もとい百合音のアパートだ。そこに自分は帰るのだ。帰還するのだ。法定速度の限界まで加速させて、真っ先に家へ向かった。そして、到着。
バイクを駐車し、階段を駆け上がる。ついに自分がいた部屋に到着した。
そこには、百合音の遺族が立っていた。部屋の中の遺留品を纏めて段ボールに詰め込んであるようで、運送業者が近くで忙しそうにしていた。
翠は立ち尽くした。そうか、そうだ。百合音は死んだのだ。ファントムに食われてこの世から消えたのだ。
遺族の一人、恐らく父親だろう。彼が翠の存在に気付いた。その刹那だった。
「この糞野郎!」
彼が全力で翠を殴った。真っ正面から殴られ、体勢を崩して階段へ。そのまま転げ落ちる翠。
全身の痛みに耐えながら起き上がろうとする翠を押さえ付け、さらに殴り付けてくる百合音の父。
「お前が、お前のせいで!殺す、殺してやる!殺してやる!」
何度も翠の頭を滅茶苦茶に殴る。抵抗する力もなく、殴られ続ける翠。硬いコンクリートに頭を打ち付けられて、ついに息が苦しくなった。彼は翠の首を絞め始めたのだ。
大人の男が全力で首を絞め上げている。翠はそれに耐えきれずにもがく。しかし、ここで抵抗をしてしまうと彼を傷付けてしまう。ハーベスターの怪力では、無闇に動くことすら許されない。
されるがままに暴行を加えられ、意識が遠くなりかけたとき、彼の妻であろう女性が駆け寄ってきて彼を引き離した。声はもう聞こえない。ただ、泣き崩れているのが視界に映る。百合音の面影を感じる2人の、憤怒と絶望の表情が、翠の脳裏に焼き付いた。翠、再び気絶。
次に目が覚めた頃には夜だった。顔を触れると、鼻血と歯茎から垂れる血でぐちゃぐちゃだった。重たい身体を引き摺るように、近くの壁へ身体をもたれさせた。
痛み。今まで感じてきた痛みの中で、最も深く強く痛んで消えなかった。最後に目に映った2人の顔。まるで百合音が翠を否定しているかのような、そんな気がした。
蝉の鳴き声が響いて、耳を障る。ずっと永遠に、遠い感覚が翠を襲う。どうせならばこのまま自分も死ねれば楽になれるが、ハーベスターの頑丈な肉体はそうはさせてくれなかった。ただひたすらに痛みが翠の心を蝕んでいた。
右の腰には拳銃がある。痛みを堪え、首を回して視線を送る。モーザが翠に託した拳銃が、そこに確かにあった。45ACP弾。ヘルメットを着けていない剥き出しの頭部ならば、たとえハーベスターでも死亡するだろう。頭蓋骨を穿ち、脳を破壊できる。
右手が震える。ゆっくりと、それに伸び始める。グリップに人差し指が触れた。冷たい感触。息も落ち着いてきた。全てが、涼しく感じてくる。
百合音が住んでいた階は人が少なかった。そのお陰か、翠が目覚めるまで誰もここを通らなかった。あの遺族2人は翠を放置して帰っていったのだろう。
僕は誰からも必要とされていないのだな、と翠はひっそりと心に想う。ずっと眠っていた気持ちが彼の心で覚醒した。百合音が生きていることが自分が生きている理由だった。アルベンに言った言葉を思い出す。
「自分が生きている世界以外は、幻想だ」
違う。自分が死のうとも世界は続く。現実はそこにある。そうだ、自分はブルーリーパーなのだ。人類に牙を向くファントムを殺し、戦い続ける最強の戦士。ハーベスターだ。
自分は死神に導かれる側ではない、自分こそ死神なのだ。自分に関わった人間は死んでいき、ファントムには平等の死を与える。そう、自分は死神だ。ならば、ここで消えるわけにはいかない。自分は死神として、ファントムが現実から消え去るまで、死を与える使命があるのだ。僕は、ハーベスターだ。
翠は拳銃を掴もうとしていた右手の力を抜いて、地面に下ろす。まだだ、まだ死なないぞ。その気持ちは充分に芽生えた。しかし、身体が辛い。
少しだけ休もう。時間はたっぷりとある。今だけ、少しだけ休んでからにしよう。一度しっかりと眠ってしまえば疲れも取れる。戦士には戦いに相応した休息が必要だ。
翠はゆっくりと瞼を閉じる。涼しい夜は彼の身体を心地よくする。緩やかな息が続く。
その時だった。
「翠ちゃん!」
どこかで、遠い記憶で聞き慣れた声。百合音の声が重なる。いや、違う。この声は……
曇った視界に映る姿。影が、2人。目を開こうとするが、翠の意識はここで途切れた。深い眠りが始まった。
「モーザが持っていた拳銃」
・亡くなったトン・モーザ中尉が持っていた拳銃。それは特別仕様のTG-A3 スターキッカーだ。
シルバーフレームに交換し、様々なパーツをより高度な性能の物へ改造している。ほぼ私物といって良い程に手の施された代物である。
彼はこれを高那翠へ託した。