縫
敵とは、自分を守るために作るものである。
学校に向かう前、翠はアルベン軍曹と出会っていた。あの作戦以来、少しだけ交遊がある。最も一般歩兵とハーベスターでは出会える機会は少なかったが、互いに敬語を使わずに会話するほどには関係が良くなっていた。そもそも、ブルーリーパーという組織において階級は形式上のものに過ぎない。一度戦場へ向かえば皆戦士なのだ。
早朝、ロビーで鞄を漁っていた翠は通り掛かったアルベンに挨拶をした。
「ヘイ、アルベン」
「おはようございます少尉殿」と、彼は茶化すように言った。
「まだ先だよ」
「良いことだ。階級が高いほど上の連中に文句を言いやすくなる」
アルベンはそう言って椅子へ座る。
「左腕、どうなんだ」
「たまに痛む。骨が当たるんだ。専用の義手が完成する頃にはそれも治ってるだろうけど、気持ち悪いもんだよ」
「よくあの状況を生き残れたものだ。少尉に昇格するのも分かる」
「あのとき、あんたもいたのかい?」
「第1機甲部隊の追従歩兵として出撃していた。出番は一度も無かったけどね」
アルベンは肩を竦めてもたれ掛かる。鞄の荷物を整理し終えた翠は、自販機に近付いて戦闘員優遇を使ってスポーツドリンクを購入する。
「あの新しい少佐、今回の不祥事を全て背負って弁解中なんだとよ」アルベンが話題を変える。「何でも、数えきれん程の報道局が彼を拘束したとか」
「当然の報いだな」
「また反ブルーリーパーの連中が騒ぎ出すぜ。今頃大喝采してるだろうさ」
ペットボトルを鞄に詰めると、翠はその言葉に少しだけ間を開けてから、アルベンに問いかけた。
「ファントムは幻だと思うか?」
翠のその言葉にアルベンは息を詰まらせ、答えた。
「なんだ、いきなり」
「あんたはどう思う。ファントムは幻なのかどうか」
アルベンは顎を擦る。
「よく分からない。だが、これだけは言える。ファントムは俺達の敵だ」
「敵か」
翠は再び椅子へ腰掛けて話を続けた。
「民間人の中にはファントムはブルーリーパーが作った侵略兵器だと言う連中がいる。それどころか、ファントムという存在を知らない奴だっているんだぜ」
アルベンは翠の言った言葉に眉を潜める。
「ファントムを知らない?そいつは本当に人間なのか?生まれたての赤子のことを言ってるんじゃないだろうな」
「事実だ。現に僕が通ってる学校には、名前を初めて聞いたって奴がいた。何故だか分かるか?」
「さぁ」
「テレビとかネットでしか存在を知らないからだよ。そいつらに言わせてみれば、ファントムなんて薄い画面の向こう側の存在なんだ。僕らブルーリーパーもな。現実ではなくて"いるかもしれない"っていう空想なのさ」
「そんな馬鹿げた話、聞いてて頭が痛くなる。ファントムを知らないってどういうことなんだよ。実際に襲われた人間がいるだろうに」
「そうだ。確かにファントムは存在する。僕達ブルーリーパーの前ではね」
「何だと?」
「皆、自分には関係ないって信じ込んでる。隣の家族がファントムに食い殺されようが、自分が食べられている訳じゃない。ならばそれは幻想だってね。そして、例えばファントムが現れたとしてもブルーリーパーっていう変な奴等が退治してくれる。だからファントムに襲われて死ぬっていうビジョンが出来ないのさ」
それにアルベンは溜め息をつく。
「じゃあ俺達は何と戦ってるんだよ。そのネット情報が作り上げた幻想とドンパチしてるとでも?」
「どうだろうな、分からない。だが、僕には彼等の気持ちが分かるよ。自分はハーベスターとして生きて、戦って、定年退職金をもらって、やがて老いて死ぬ。それ以外は幻想だ。自分が生きている世界だけが現実なんだって思ってた。昔はな。だけど今は違う。ファントムは確かにいる。紛れもない僕ら人類の明確な敵なんだ。今までも、これからもな」
「そうでなくちゃ困る」と、アルベン。「でないと、俺達が命を張って生きてる理由が無くなってしまう」
彼はそう言って遠くを見つめた。何となく、彼の人生観を察した翠は話題を変えた。
「……あんたも早く准尉になれよ。いつまでも兵隊気分じゃ身体が持たないぜ」
やがて適当な雑談を終えると、翠は基地を出て装甲バイクを走らせた。向かうは藍深山高校。本来ならバイク通学は禁止されているが、今日は呑気に歩いていく気分じゃなかった翠は近場の駐車場にバイクを置いていく。自動運転モードを止めて、鍵となるカードを引き抜いてポケットへ突っ込んだ。いつもの癖で、左手でカードを抜いてポケットへいれる動作。それがどこかぎこちなかった。
鞄を肩に下げて、何食わぬ顔で校門を抜ける。他の学生に紛れて、何事もなかったように職員室の前を通り抜けようとした。そのときだった。
「高那、止まれ」
嫌な声が翠の耳を障る。現代社会の教師の声だ。前に、自分を理不尽に怒鳴り付けた男の声。翠はそっと振り返って彼の方を見る。そこには睨みを効かせて、いかにも不機嫌という態度をとっている彼の姿があった。
「…はい?」
翠は彼にそう言った。
「お前、後半の補習日を全てサボっていたよな?連絡も入れずに」
後半の補習日。そうか、FOGビル事件の頃か。たった2日間だけの補習日だ。
「それは、その…申し訳ありません」
「ふざけてんじゃねえぞ」
彼は怒鳴った。早朝のロビーに厳つい男の声が響く。
「お前それでも高校生か?ブルッパだかブルッペリだか知らんが、他所で働いてんだろ?だったら、社会人として当然の事もお前は出来ないのか!」
翠は唐突に胸ぐらを掴まれた。身の危険。反射的に身体が行動してしまって、思わずそれを振り払って距離を取る。
お互いに感情がリセットされ、硬直。
翠は気まずい空気を自ら切り出して抜け出そうと思ってか、ひっくりと頭を下げた。
「それには理由があるのです。どうか、弁解をさせて貰えませんか」
教師からすれば、翠は唐突に連絡が途絶えてしまったかと思えば、今日は何食わぬ顔で登校しているのだ。
虫唾が走るのも無理はない。
「舐めた態度取ってんじゃねぇぞ糞ガキが!!」
だが、度合いが吹っ切れていた。
自分に抵抗して、腕を振り払った翠の態度に逆上した彼は、恐ろしい勢いで翠に近付いて顔面を殴り付けた。近くにいた学生達が悲鳴を上げる。彼はそのまま馬乗りになって殴り続けようとしたが、それをすぐに駆け付けてきた他の教師達に止められる。
「止めなさい!」
体育教師が必死に大柄な彼を抑えて、他の教師達も慌てていた。以前から現代社会の教師である彼は問題のある行動が多かった。軽い暴力や体罰は彼のそれなりに高い地位のおかげで黙認されていたが、今回は違う。明らかに一方的な暴力行為である。
顔面を殴られ、その場に倒れていた翠はゆっくりと立ち上がる。だが、彼の心に芽生えていたのは怒りでも苛立ちでもなかった。
戦闘勘だ。長らく忘れかけていたあの感覚。体に残る確かな痛みが、彼の戦士としての精神を覚醒させたのだ。ずっと病床で眠っていて、鈍りかけていたこの感覚。どこか恐れてしまって隠しそうになっていたところ、こういった形で再び甦ったのだ。
右手が震える。腰に下げた拳銃に手が伸びそうになる。筋肉は硬直して視界が変わる。敵は、どこだ?
何処にもいない。視界に映るのは人間のみ。そう、自分が命をかけて守るべき人間しか翠の目には映らない。それなのに、翠は毛が逆立った猫のようになっている。自分は一体何をしようとしていたのか?ゾッとしてきた翠。そうか、自分は人を殺しかけていたんだな。沸き上がる感情に身を任せて、自分を殴った"敵"を殺そうとしたのだ。
震えていた指は止まって、膝立ちで呆然とする翠。すぐ側に駆け寄ってきた黒いスーツの女性に肩を担がれ、保健室へ運ばれていった。
意識が薄くなる。
確かな変化は、ファントムだけでは無かった。青年の心は変形しつつある。