水溜まり
戦いの記憶。それが薄れないように思い返すのは、自分のためか?
現在時刻午前11時24分。プルートー基地のトレーニングジムに高那翠はいた。限界まで冷房が効いた大きな一室でも、筋力を高めようとする兵士達の熱気に包まれていた。そんな中、翠はルームランナーで無心に走り続けていた。よくあるようなランニングウェアを着込み、大量のスポーツドリンクが近くに置いてある。
やがて、12kmに設定したルームランナーが緩やかに動きが遅くなる。1分ほど時間をかけて、床が停止。
翠は汗塗れの額をタオルで拭い、その場にあるスポーツドリンクを飲みながら些細なことを考えた。やはりルームランナーは駄目だ。本当に走った気がしない。ずっと同じ景色でひたすら足を走らせるだけだ、走るというより単純な足のトレーニングに思えてしまう。それが嫌なら頭にVR装置でも着ければ良いのだが、頭に何か被って走るのは、任務と訓練の時だけで充分だな。と思った翠。外を走るには気温が高すぎる。いくら超人的な身体を持つ超能力者とはいえ40℃を越えようとする気温の中で走り込むのは危険だ。脳ミソが溶けてしまってからは手遅れなのだから。
それにしても、他の兵士達はひたすら上半身を鍛えている。走力を鍛えようとする者は少ない。何故だろう?と翠は疑問を感じた。
そんな腕がはち切れるような重い物を持つわけではない。歩兵の平均装備重量はエグゾスーツによって軽量化されてる。ならば、必要なときに必要なだけ走り切れるように走力を鍛えた方がまだ実用的ではないのか?と。大人の考えることはよく分からない。
そろそろ昼食を食べに行こう。翠はシャワー室で軽く身体を流し、いつもの戦闘服に着替えてから食堂へ向かった。
まだ食堂にいる人は少ない。快く飯が食えそうな空気である。トレーに適当に皿を乗っけていき、完成したのはメキシカンライスにミートローフ、チキンブロスにスパニッシュサラダ。とても日本人が食うような品ではない。翠はそんなこと微塵も気にせずに、飲み込めるまで咀嚼したら喉へ放り込んだ。
こういう、よくある休日を過ごしていると、自分が戦場を体験したということを忘れてしまいそうになるな、と翠は思う。つい数日前にタイプgと戦闘したばかりだというのに、その感覚を思い出せそうにない。それはそうだ。今この場所は戦場ではない。そんな環境で戦闘勘を思い出せ、なんて無茶な話だ。そんなことやる必要はない。そう考えながら昼食を平らげたら、翠は携帯端末を取り出す。通知欄にはトークアプリに2つの通知。画面を開く。
松宮咲華からだ。あの作戦が終わって二日後の補習日、学校で連絡先の交換を求められた。同時に推し団扇を貰った。僕にファンになれっていうのか?と質問をすると、彼女はそれが当たり前かのように返事をした。自分はブルーリーパーとしての仕事があるから、あまり時間を割けないかもしれないと言ったら、私もそれは同じだから気にしないでと返ってきた。確かに、彼女は学生でありながら社会へ進出している。それは彼女も自分も同じ立場ではあるなと思った翠だった。
翠はトークアプリを開き、松宮咲華が送ってきたメッセージを見る。そこには新しい衣装に身を包んで、最高の笑顔で映る彼女の写真。その次のメッセージは……
―次のライブの新衣装!!めっちゃイケイケでしょ!どうどう!?
と送られていた。翠は"とてもカッコイイ"と簡潔に返事を返して、携帯端末をポケットへしまった。
8月が始まって、もう一週間が経った。夏休みがもうすぐ終わる。かといって何かやりたい事があるか?と言われれば何もない。ひたすらこうやってVR装置による射撃訓練と、体力錬成を繰り返してるだけで終わってしまいそうだ。別にそれでも良いだろう。味気のない夏休みだが、わざわざ派手なことをする必要はない。そんな気力すら起こらないほど暑いのだから。
そういえば、もうすぐ夏祭りが始まる。ふと翠は思い出した。前に優斗からお誘いのメッセージがあった。翠は最初は断った。何故なら、僕は祭りに客として参加するのではなく、警備員として参加する側だろう?と思ったからだ。しかし、優斗は押し付けがましく何度も誘ってきた。それに押されて、もし任務の予定が入ってなければ向かおうと言った翠だった。
とても高校生らしい生活だ。翠がずっと重責して、勝手に思い詰めていた"兵士"としての自分。学生という身分の前に、自分は軍隊に所属する兵士なのだ。という気持ちはいつの間にか薄れていた。
しかし、忘れてはいない。高那翠はブルーリーパーに所属する兵士。その中でも、ハーベスターという超能力者を集めた人類で唯一ファントムに対する確実な抵抗力を持った戦士なのだと。その誇りは常に胸の奥底にある。人類を守るために、生きているのだと。超能力者として生を得た者の殆どは、ブルーリーパーに導かれるように志願していく。それが何故かは分からないが、皆、心のどこかで自分の力がある存在理由を証明したいという気持ちがあるのだろう。翠にもその気持ちは少なからず存在する。
そんなことを考えていたら、時刻はもう2時を過ぎようとしていた。いつの間にか周りに人が溢れかえっている。翠はそそくさと席を立ったのだった。
従姉妹の百合音には、今日は帰りが遅くなると伝えていた。午前は体力錬成、午後は射撃訓練に没頭したいからだ。シューティングレンジでひたすら拳銃を撃ち続ける翠。
小銃ならば、当てるのは簡単だ。何故なら固定して安定させる箇所が多いからだ。しかし、拳銃は違う。掌だけで固定して、反動を受け止め、安定させなければならない。故に遠くへ当てるのが非常に難しい。まずブレてしまう。
翠は射撃が特別に上手いわけではない。亡くなったカーベックは、天才的な射撃技術で、まるでパフォーマンスのように的を撃ち抜いていた。それに憧れる他の隊員は多かった。翠のその一人だ。
友人というには些か歳が離れているが、良い友人であった。だから、自分がその空いてしまった溝を埋めなければならない。外れた楔を打ち直すのだ。その思いでひたすら射撃能力を鍛えている。
一通り弾倉の弾丸を撃ち切って、的を引き戻して命中した箇所を確認する。的の形はファントムタイプbだ。25mから撃って、4発も的から外れている。やはり、まだ駄目だなと翠は思い詰めた。もっと彼に近付かなくてはならない。もっと強くならなければ……その一心で、ひたすら引き金を絞り続けた。
やがて時間が過ぎていき、夕食すらほったらかしていた。時刻は午後9時半。そろそろ帰った方が良いだろう。第3世代のヘルメットを被って、装甲バイクで町中を走り抜ける。喉が乾いた翠は、偶然通り掛かった自動販売機の前で停車して、カフェインの入っていないジュースを購入した。ヘルメットを外して、それを飲もうとしたとき、いきなり横から声を掛けられる。その声は聞いたことのある声だった。
「あっ、高那じゃん!」
松宮咲華だった。彼女はとてもラフな私服にサンダルという姿で、髪の毛は綺麗に下ろしていた。
「こんな時間に何してるの」と、翠。「夜中じゃないか」
「いや、ちょっとジュースを買いに来ただけだよ。この近くに住んでるからさ」
「そう」
冷たい返事の翠に、咲華は返す。
「そーゆー君こそ何してんの?なんか、ゴツゴツした格好だけど」
翠の服装はいつも通りの戦闘服に、バイクを乗るために着けている戦闘装着時のステンレス製プロテクターに厳つい戦闘用グローブ。靴もいつも履いてる軽量のタクティカルシューズじゃなくて、半長靴型のコンバットブーツだ。他にも、着替えが入ったアサルトバックパックと腰に下げた拳銃。どう見ても一般人ではない。町中でこんな格好の人間が歩いていたら嫌でも目に入ってしまう。そんな格好だ。
「基地から帰り」
翠はそのままの事を返した。
「へえ、何やってたの?」
咲華はそう言いながら、自販機に小銭を入れた。
「走って、拳銃を撃った」
「それだけ?」
「うん」
「もっと色んな事してるのかと思ってた。何だか、期待外れだなぁ」
と、咲華は購入したジュースを取り出しながら返す。
「もっと、こう、スゴいことやらないの?」
「例えば?」
「戦車がドカーン!とか、飛行機飛ばしたりとか!」
「やらないよ。僕はそんなこと出来ない。だって戦車の免許は持ってないし、航空機のライセンスもないから」
「戦車って免許証があれば乗れるの?」
「うん」
「免許証で乗れるんだ……」
軽く驚いた形相の咲華は、ジュースを一口飲んで話を続ける。
「そういえば、アタシって一年遅れで入学してるの知ってた?」
と咲華。
「知らなかった」
「へへっ、高校生になる前からアイドルやってたからさ。そのせいで少し遅れちゃったんだ。だから今、17歳で高1なんだよね」
「僕も17だ」
翠はそう返す。それを聞いて目を丸くする咲華。
「どうして?」と咲華。「同じ高1だよね?」
「中学を卒業する前から、年の始めにすぐに入隊して訓練が始まった。そのおかげで卒業式は丸坊主で出ることになってしまった」
「丸坊主?あははっ。その顔で丸坊主は似合わないなぁ」
「皆からそう言われたよ。それで、一年間丸々使った訓練で、高校生になるのが遅れたんだ」
「へぇ、アタシと同じだね」
翠はそれに返事をせず、空の缶をゴミ箱へ捨ててヘルメットを被った。明かりの少ない夜中で、自販機の光に照らされる翠。それでも、力強く光ったバイザーは彼女の視線を奪った。
「それ、どうやって光ってんの?」と咲華。
「さぁ」
翠はそう返す。
「さぁ?自分が使ってる物なのに?」
「壊れたら、修理に出せば良い。兵器なんてそんなもんさ」
「うーん……」
咲華には理解できない考えだった。翠はそれを横目にバイクに跨がる。
「それじゃあ」
翠は軽く手を振ってアクセルを入れようとした。その刹那だった。
「待って」
咲華がそれを引き止める。
「何」と翠は不満そうに返事をした。「どうしたの」
「メッセージで送った写真。あれにカッコイイって返事はどうかと思うなぁ」
咲華は腕を組みながらそう言った。どこか、得意気な顔だった。
「ごめん」
翠はそう一言だけ返して、バイクを走らせた。暗くなった道路へ消えていく。
「プロテクターについて」
・ハーベスターは、一般の兵士より多くプロテクターを装着する。膝と肘だけに留まらず、脛から膝まで覆うステンレス製のプロテクター。両肩にも同じ素材のプロテクターを装着する事になる。
ハーベスターの機動力は人間の運動量を遥かに越えており、相応に障害物へ間接を接触事故を起こした場合のダメージも甚大なものへとなってしまう。故に大量のプロテクターで身体を保護することになるのだ。