伝令者
物言わぬ伝令は、ただ1つのものを探してさ迷い続ける。伝えるべき言葉すらも無くしながらも。
午前10時47分。夏の陽炎で視界が歪む。絵の具で塗り潰したように真っ青な空は、雲一つ浮かばせることなく太陽を光らせている。その太陽に照らされるコンクリート。過剰なまでに熱を帯びて、また陽炎を作り出す。そんな変わり映えの無い景色の中、巨大な翼を広げて優雅に空を舞う人影。それは人の影というにはあまりにも異形で心底気味悪く、嫌悪感のある姿。
ファントム、タイプeだ。d以降の記号が使われるファントム。確実な人的被害を引き起こし、対処が困難になるハードルが一気に跳ね上がる危険度を持つ存在。その殆どが人の想像を絶するモンスターばかり。
タイプeは、全長10メートル程はある巨大なファントムである。人型ではあるのだが、身体は非常に痩せ細っており、極端なまでに手足が長い。そして、明確に人間と違うシルエットなのが腕の間接だ。肘が2つあるのだ。
ただでさえ長細い腕に、まるで節足動物のような間接を持っている。頭部にはくりぬいたような目玉が常に動き回っており、口にあたる部位には無数の触手が垂れている。背中には蝙蝠のような厳つい翼を羽ばたかせ、右手には柄の短い斧を握りこんでいるのだ。そう、武器を所有している唯一のファントムだ。
そして、最大の脅威は圧倒的な巨体でも、手に握った斧でもない。
タイプeには音がない。鳴き声も、羽ばたく音も、呼吸する音でさえ存在しない。
そこだけ空間を切り離したかのような、だがそこには物体が確かに存在している。これがタイプeの危険度を飛躍させている要因だ。
しかも狙ったかのように必ず真夜中に出現し、襲撃を開始するのだ。暗闇に無音のまま動き出す翼。破壊される道路に建物が爪で抉られ、余りある程に巨大な斧で人は血溜まりと化していく。気付いた頃には全てが遅いのだ。何もかも、誰かが犠牲になり、苦しんでからでないと戦う準備が始まらない。旧都市部が廃棄されてしまった原因を作り上げた張本人なのだ。
現段階では午前2時頃に出現したと推測されており、姿が発見されたのは7時18分であった。被害状況すら不明で、ブルーリーパーは高精度GPSによる追跡を開始し、予測される着地地点にハーベスターによる狙撃班を配置。対物狙撃銃によって脚部を破壊した後、軽機関銃部隊が掃射を開始する。その後、プラスチック爆弾による解体を実行し、作戦は完了となる。
高那翠とトン・モーザは軽機関銃部隊として編成され、現在、約120mほど距離をおいてステルスヘリによりタイプeを追跡中。
軽機関銃"ファーストランスMk.3"の弾倉には100発の7.62mm弾が詰め込まれ、常人であれば片手で持ち上げるのは困難であろう重量がスリングによって肩に食い込む。
「間もなく予測着地地点に到達する。狙撃班、異常があれば報告せよ」
機内の通信手が現場の狙撃班へ通信。
「異常無し」
「了解。微修正は各自で調整せよ。通信終了」
無線が途絶える。機内の空気が変わった。冷気に包まれたかのように温度が変わったような雰囲気となる。
翠にとって、タイプeの討伐作戦はこれが初めてとなる。緊張感が膨れ上がり、今にも破裂しそうな心臓が彼の血液を循環させる。
「目標が降下を開始。総員、投下準備」
ヘリパイロットが皆にそう伝え、機体のハッチが開いた。
翠は震える左手を握り締めて立ち上がる。モーザの後に続いてハッチへと近付いていく。
「目標、着地を確認」
まだヘリからは見えない。
「狙撃班による脚部破壊が成功。ハーベスター、投下開始」
宣告。体が一瞬だけ硬直した。だが、すぐに現実へ引き戻される。
「行くぞ!翠!!」
モーザがそう叫んで勢いよくジャンプした。それに続いて翠もヘリからジャンプ。高度は70mだ。いつもより低い。
目に映る都市は、避難が完了して人の気配は消え去っていた。事実上のゴーストタウンがそこにはあった。
二人は超能力エネルギーによってベクトルを調整し、斜めに突き進むように降下する。増していく速度に身を任せて迅速に地面を目指す。そして、30mを切ったところで姿勢を変更して着地姿勢へ、やがて着地。
勢いを殺さずに着地した衝撃は、超人であるハーベスターの身を軋ませる。内蔵が宙に浮いたような気がした。
翠とモーザは視線を前へ、走り出す。その視線の先には仰向けになって倒れているタイプeの姿。今にも立ち上がろうと腕をビルにひっかけていた。
それを阻止するかのように発砲を開始。フルオートで引き金を絞る。
7.62mm弾の火薬が炸裂する音が、コンクリートジャングルに反響する。ヘルメットの聴覚保護装置が揺れる。脇に締めたファーストランスが、まるで暴れまわる動物のようだった。激しいマズルフラッシュにバイザーを焼かれて反動を無理矢理抑え込む。
かつてないほどの数の空薬莢が地面に転がり続け、少しずつ前進していく二人の尾を引くように跡を残していった。
これで何発目なのかさえ分からないところで、モーザが叫ぶ。
「発砲中止!」
その言葉を聞いた瞬間、翠は瞬時に安全装置を掛けて銃口を上へ向けた。感覚が麻痺した腕が痺れそうになるのを堪え、待機する。
「168発目。計算上はこれで死亡する」
「これより死亡確認を開始する。再び構えろ」
モーザの命令通りに安全装置を外して、銃をもう一度脇に締め直す。
忍び足だった歩みは、急に駆け足となって血の池が出来上がったタイプeの屍のもとへ近付いていく。蒸発していく血の煙が視界を歪ませている。
タイプeの身体は、まさに風穴だらけだった。しかし、超能力エネルギーが付着した7.62mm弾の集中砲火を受けて未だに原型を留めている。全身は血だらけで至るところから血が溢れ出てきている。
「まだ構えておけ」
モーザがプラスチック爆弾へ手を伸ばしたその時だった。
巨大な影が彼を襲う。一瞬にして吹き飛ばされて姿を消すモーザ。
「!?」
翠は目の前の状況を理解しきれず、モーザが吹き飛んだ方向へ視線を送ってしまう。そのせいで、再び視線をタイプeへ送ったときには、奴の影はいなかった。
タイプeは瞬時に飛び上がり、狙撃班がいる方向へ斧を投げた。トマホークアックスのように遠心力によって速度を増していく斧は、轟音と共に遠くのビルに着弾する。ビルが倒壊した。
翠は、思考が止まっていた。自分はどうすれば良いのだ。と。
風船のような重さを感じさせない挙動で再び着地するタイプe。ゆっくりと、顔を翠の方へ向けた。3つの目玉が翠を睨む。恐ろしい程に不気味で、血走り、開ききった瞳孔がそこにはあった。
恐怖。
見てはならぬ者、知ってはならぬ者、人の理解を越え、人よりも上位に君臨している存在が目の前にいる。
翠は震えた指で引き金を弾いて、再び脚部の破壊を試みた。タイプeの左太股が弾け飛んで体勢が崩れた。しかし、同時に弾倉の弾は空となり、引き金が引けなくなる。
タイプeは水平方向に、翠に向かって片足で跳躍してきた。10mの異形な人型が圧倒的な速度で向かって来る!
避けれない、伸ばされた巨大な手に掴まれ、やがて両手で捕獲された翠。3つの目玉が次第に近付いてくる。
目が合った。振動している瞳孔がピタリと動きをやめて、翠を見つめた。
瞳が、そこにはある。
刹那、握力が弱まっていく。首から触手だらけの口にかけて血が垂れていく。
「ふっ…!ぐぅ!」
籠った声が翠の耳に届く。視界の先には、モーザがタイプeの首もとにしがみつき、青く光ったナイフでその首を切り落とさんとしていた。全力で引き裂こうとするその力は、震えた両手で理解できた。首の半分ほどまで刃が食い込み、翠を握っていた力は失われる。そのまま地面へ落とされる翠。
モーザはその場から離れて翠の元へ着地。同時に、タイプeは傾いた首の方向へゆっくりと横に倒れていった。
「弾で殺せないのならば、刃を打ち込むまでだ。だろう?翠」
モーザはそう言った。心を喪失していた翠は気を取り戻し、足の力を無くして尻餅をついたのだった。
「タイプe」
・全長10m、体重不明。人型のファントムではあるが、そのシルエットは異形で極端に長細い手足に、間接が2つある腕、華奢な腕に似合わぬ手斧を握り締め、蝙蝠のような巨大な翼に、顔と思わしき部位には3つの目玉と口に相当する部位に触手が無数に生えた非常に醜く、恐ろしい姿をしている。
そして、全ての行動に音を伴わないという特性によって危険度が最上位にまで跳ね上がっているファントムである。
かつて旧都市部を放棄する原因を作り上げた張本人であり、過去に2度の出現が確認されている。