危惧
淡い夢。叶わぬ希望と渇望に、太陽に包まれながら酔いしれる。
グレイ-Wが投入された作戦から数日後、対策開発部隊はまともに寝ることも出来ない状態だった。ここ最近で起こっているファントムの急激な変化。数年前までは想像も出来なかった事態ばかり発生しているのだ。ハーベスターの殉職率も高くなっていき、歩兵隊はひたすら現地調査に駆り出されている。出現する動機は今も昔も不明だが、明らかに襲撃の手段を変えてきているは確かだった。
タイプBの形態変化。翠達が帰還したのち、入れ違いで調査部隊が現地を研究していた。タイプBの腕に鉤爪が生えていたという報告は紛れもない事実であり、これまでの対策作戦を根本的に計画し直す可能性がある。
しかし、ファントムは本当に常識を常軌している化物だ。死後30分以内に蒸発が始まり、約2時間で完全消滅してしまうのだ。その特殊を極めた性質ゆえに現地調査でしか情報を得ることが出来ないのだ。
調査部隊が到着した頃には鉤爪の生えたタイプBは既に上半身が蒸発しきっており、手の付けようがなかった。
ブルーリーパーにとって、悪夢のようなものだ。これまで優位を保っていた戦況が崩れようとしている。また生活圏を放棄するほどの打撃を受ける可能性もある。今はまだ比較的危険性の低いファントムばかり出現しているが、タイプD以降は確実に犠牲者が生まれるほど危険なものばかり。しかも対策作戦が発動されてから30年が経っているが、未だ一度しか出現していないのだ。次はいつ出現するのか完全に不明。今、頻繁に出現しているタイプですら周期を解明することが不可能というのに、ブルーリーパーはひたすら奴等が出てくるのを待つしかないのだ。打開策は無い。
1つ判明していることは、ファントムも赤い血を流すということのみ。
休暇を与えられた翠は、学校で世界の対策作戦情報を確認していた。薄い端末を左手で持ち、エナジードリンクを飲みながらひたすら情報を漁る。向こうは日本のように急激な動きはなく、アメリカ本部に至っては今月の出動事例はまだ無いようだ。こうやって対策部隊が忙しなく動いているのは日本のみ。
これが何を意味するのか全く分からないし、分かったところで何か対策が作れそうな気がしない。
そう翠が端末を弄っていたとき、一人の男性教師が鬼気迫る表情で彼に近付く。
「高那、今すぐ職員室に来い」
その声は敵意が表れていた。クラスの雰囲気が一気に変わり、今まで楽しそうにしゃべっていたグループが完全に静まり返る。
「了解しました」
翠は瞬時に気を付けの体勢をとって、男性教師に頭を下げる。そのとき、耳元で舌打ちが聞こえた気がした。
男性教師に連れられ、職員室に入室する翠。室内はただならぬ空気が漂っており、全教員が鋭い視線を翠に向ける。
「高那。何故ここに呼び出されたか分かってるのか?」
翠を連れ出した男性教師が問い掛ける。
「見当がつきません」
引き締まった気を付けの体勢で、彼は答える。その瞬間だった。
「いつまでふざけた態度取ってるんだお前!」
奥の方に立っていた大柄な教師が怒号と共に翠に詰め寄る。彼は現代社会の担当教師だ。恐ろしい形相で翠の戦闘服の襟を掴み上げた。
翠は背が低い。165cmと兵士としては小柄だ。だから大人が全力で持ち上げようと思えば持ち上げることは容易そうに見えるが、翠はそれを踏ん張って耐える。
「いつも馬鹿みてぇな服着やがってお前は。おい、聞いてるのかお前! 返事をしろ阿呆面が!」
ひたすら轟く怒鳴り声。彼の右手は握り込まれて震えている。しかし、誰も彼を止めようとしない。ただ、見ているだけ。
翠は表情を一つも変えず、襟を掴む彼に大きな声で言葉を返す。
「怒られている理由が分かりません!」
翠は最善の答えを言ったつもりだった。彼の思考、行動は既に米軍仕込みの物に変わっている。兵士として、何を改善すべきなのか、それを知りたいのだ。
しかし、その行動が教師の逆鱗に触れる。
「テメェふざけてんのかオラ!」
翠は後ろに思いきり押し込まれた。両肩を強く押されて、職員室の扉に背中を打つ。大きな打撃音が響く。
「ネットに、お前が立ち入り禁止区域で遊んでるところが晒されてるんだぞ!! まだしらばっくれるのか!」
これまでとは比べ物にならないほどの怒鳴り声。学校全体に響かすような勢いで、翠に尋問する教師。
「放棄地区で遊んでいる……?」
余りに予想外のことに敬語を忘れ、復唱する翠だった。それはそうだろう。おそらくグレイ-Wが投入された作戦のことを言っているのは分かるが、何故それが遊んでいるように見えたのか全く見当がつかないからだ。
翠はついに表情をしかめた。
「この写真だ」
その教師がスマートフォンでネットで騒がれている写真を見せてきた。そこには、確かに翠が写っている。
作戦を終えてヘルメットを外した翠が、調査部隊のリーダーとハイタッチをしているところが写真に納められていた。
「それは……」
翠は口を開く、しかし怒号で遮られる。
「言い訳するのか?」
「いいえ違います。その写真は4日前の放棄地区にて、第4対策計画に従って作戦が発動された際の写真です。私、高那翠准尉はトン・モーザ中尉と共に作戦を遂行し、後に第6現地研究調査対策開発部隊と合流した後、部隊のリーダーであるアラン・チュラム1等軍曹に作戦が完了した合図としてその行動を行いました。決して遊戯目的の行為ではありません」
翠は冷静に、噛むことなく弁解を行った。この時の彼の顔は怯える高校生ではなく、完全に兵士の顔であった。
その言葉に翠を問い詰めていた教師は一息の間を入れて、答えた。
「言い訳はそれだけか?」
あくまで翠のことを信用しないようである。
「言い訳ではありません! 事実です!」
「黙れ!」
再び大きな怒鳴り声が職員室に轟いた。鼓膜がどうにかなりそうな程、大きな声が。
「今度このような事案があったら停学だ。二度とやるな。分かったならもう出ていけ」
今度は静かに論すように彼は吐き捨てた。それを聞いて翠は気を付けをした後、失礼しましたと言い残してゆっくりと職員室を後にする。
なんて奴等だ、狂っている。翠は腸が煮えくり返っていた。当たり前だ。訳の分からん言い掛かりでここまで虚仮にされたのだ。
止まることの無いとてつもない憤りを感じた後、どうしようもない虚無感が翠を襲う。自分は人類のため、世界の平和のために命を掛けて全力で戦っているというのに、どうして守られている人類はそれを理解していないのだろうか?という現実に直面してしまった。
苦しい。自分の行動が誰にも認められないことが悲しい。
両手には銃を持ち、頭にはヘルメットを被って、身体はボディアーマーを着込んで、何が目的なのか分からない謎の化物とひたすら戦い続ける日々。それを今、全て否定された気がした。
涙を流せるような倫理的なものではなく、理不尽の塊を顔面に投げられたのだ。ただひたすらに虚無感ばかりが彼を包み込む。
職員室を出た先は少し広いロビーがあった。この怒号を聞いて駆け付けた野次馬共が何人かそこにはいたが、それを構わず翠は近くにあった椅子に腰掛ける。気力が出ない。憂鬱な気持ちが心を蝕む。
そんな俯いて動けない彼の元に、小さな足音が近づいていく。
「ねぇ、大丈夫?」
可憐な高い声。聞いたことのある声が翠の爆音で麻痺した鼓膜を刺激する。ゆっくりと顔を上げて視線を合わせる翠。
目の前には新谷綾美が立っていた。無表情な顔で彼を見つめる。
「……何が」
今の翠に小綺麗な言葉を考えれる余裕は無かった。目に映る全てが憎い気持ちになりそうなところに、彼女は現れた。
「何がって……怒られてたから、大丈夫かなって」
スレンダーで翠よりも背が高い彼女は、屈んで彼の顔を覗く。夏の太陽に反射した綺麗な瞳が、彼を見つめた。
目が完全に合ったとき、闇が渦巻いていた翠の心に、少しだけ風が吹いた。
「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」
ナポレオン・ボナパルト ナポレオン一世