翳り
焼き付いたのは、瞳か?心か?
季節は既に夏。眩しい太陽が灰色のコンクリートを焼き、青空に浮かぶ雲は陽炎で歪み、影は強すぎる光で無意味に拡大する。眩暈がしそうな感覚と許容範囲を越えるほどに明るい世界は、翠の心を僅かではあるが癒す。それでも彼の心は苦しみと後悔で煮えたぎっていた。沸騰する翳りが染み付いた心は、瞳と脳裏に刻印を押し込まれたかの如く彼の記憶を再生する。
赤い、赤い炎。焦げた臭いと熱気。ずっと彼の心の底に眠る恐怖という感情。一年間の軍事訓練により苦難を克服し、実戦により兵士としての胆力を覚醒させて、長らく忘れていた死への恐怖。幼き頃に常に感じていた弱さゆえの恐怖が、それが甦っているのだ。しかし彼は単純な弱者ではない。ハーベスターという力を持った戦士なのだ。守られる存在ではなく守る側に立つ戦士。その道を選んだのは翠本人であり、その思惑の裏には"誰に向ければ良いのか分からない復讐心"が闇の底から湧き出ていたであろう。でなければ、誰が防人になるものか。
瞼に見える薄れた記憶と共に、翠は学校へ到着する。今日から彼は学生服ではない。腰には拳銃を差し込んだカイデックスホルスターを下げ、左胸には英語で綴られた自身のネームバッチ。肩には鎌を豪快にくわえたドクロ。つまり死神のマークが禍々しく存在感を出している。最低限の戦闘行動が可能なファーストラインを装備したバリアドレススーツ、紛れもない戦闘服だ。
藍深山高等学校は制服と私服のどちらかを選択できる。そうでなくとも、ハーベスターは戦闘服による自由な行動が許されているため、翠の行動は何もおかしくはない。しかし、皆はその姿を見て後ろ指を指したり、避けていく。
今まで多少の抵抗はあったものの学生服を着ていた彼はどうして戦闘服を着るようになったのか。それはカーベックの死から感じた"死ぬことへの恐怖"が彼の心を深く蝕み始めたからである。彼なりの死から免れたいという行動が、そのまま出ているのだ。
無機質な校内で一際目立つScorpion W2迷彩。それを気にする事もなくクラスルームに入り、翠は鞄から教科書類を机に入れる。そのとき、横から肩を掴まれながら話し掛けられる。
「やっと来やがったか。もうすぐ夏休みだっていうのに、良い度胸してるぜ」
岡崎優斗だ。いつの間にか良好な友人関係を築いている。茶化すように翠が休んでいた理由を咎めた。それに翠は手を動かしながら静かに答える。
「サボってみたくなった」
優斗は眉を潜め、言葉を返す。
「もっとマシな嘘は無えのか?」
「早く座れよ優斗。ほら、チャイムが」
久しぶりの学校。朝はそんな風に、特に何もなく終わった。
一週間の間が空いているが、日常は何も変わっていなかった。抜けている授業内容は端末に送られるデータで一応目は通しているし、本当にいつも通りで、変化と言えるものが無かった。他の仲の良い男子が迷彩服のことを茶化してくるだけで、教師達も一週間の欠席について文句を言うこともなかった。単純に性格の悪い先生がいる時間割じゃないという事もあるだろうが。
「なぁ、翠」
昼休み、優斗が話しかけてくる。
「なんだ」
「……仲間が死んだって、本当なのか」
「知ってどうする」
「いや、もし本当ならあの一週間って」
「気を遣わなくて良い。僕は兵士だから」
「そうだけどよ……」
優斗は前のめりの身体を戻そうとする。だが、翠はそれを引き止め、耳打ちした。
「誰から聞いた?」
何故、優斗がカーベックが亡くなった事を知ってるのか。翠にとっては出来るだけ隠したい事だった。思い出したく無い記憶なのだから。
その問い掛けに優斗は目線と仕草で訴える。皆にバレないように指をさしたその先には、新谷綾美の姿があった。
どうして彼女が知っているんだ。そして、何故それを話したのか。腹の奥から込み上げてくる感情、翠はどこか立腹を感じていた。
やがて放課後、翠は綾美に直接聞いてみることを決断した。
一足早く教室を出て、廊下を歩く彼女に近付いていく。
「新谷さん」
普通に声を掛けるつもりなのに、自然と声に敵意が籠ってしまう。きっとそれは彼女に対する怒りと不信感が少なからずあるからだ。
唐突に名前を呼ばれた彼女は、さっと振り返る。夕焼けに照らされる廊下に立つ長身のシルエット。
「何?」
おそらく彼女は、翠の隠しきれない敵意を感じ取ったのだろう。何処か、硬い表情で彼を見つめる。
「僕の仲間が死んだって話。誰から聞いたの」
単刀直入に言葉を話す翠。それに綾美は特に調子を変える事もなく答える。
「ママから聞いた。それで、岡崎君が聞いてきたから話しただけ」
「……そんなんだ。もういいよ、引き止めてごめん」
おそらく、百合音が梅に話して、それが娘である綾美に伝わっただけ。ただそれだけの事なのだろうと翠は理解した。霧が掛かっていた部分が晴れて少し安心した彼は、さっと踝を返して帰ろうとする。その刹那、綾美が……
「ねぇ」
一言掛けられ、足を止める翠。
「今さら"さん"付けするの、何か変な感じだからやめてほしい」
その言葉に彼は振り返らず、背を向けたまま答える。
「分かった」
翠はそのまま廊下を歩き、階段を降りていった。
一週間ぶりの学校帰り、彼は基地に立ち寄った。射撃場で苛々を発散するかのように拳銃を撃っていた。片手で腕力に物を言わせて撃ち切る。スライドストップに引っ掛かったところで力んだ腕は緩み、マガジンを抜いてテーブルにゆっくりと置く。この時間帯で射撃場を利用してる者は少ない。いつの間にか翠一人になっていた。
3本目のマガジンを撃ちきったところで、後ろから声を掛けられる。
「がむしゃらだな」
トン・モーザだ。暗闇で怪しく光る戦闘義眼の左目と、超能力者特有の青白い瞳が翠を見つめていた。
「中尉」
「お前に渡したい物がある」
彼はそういってポケットから鞘に納められたナイフを翠に渡す。
「……これって」
「カーベックが使っていた物だ。鞘は爆発でボロボロだったから新しく作り替えたが、本体はまだ使えるぜ。何せ彼奴は、このナイフを相当手入れしていたようだからな。」
左手でそれを握り絞める翠。
「まだ、気が沈んでるのか?」
モーザは翠に問い掛ける。
「僕は彼を、いや……これは言い訳だ。僕は見殺しにしてしまったんだ」
「いつまでそうしているつもりだ」
「……」
言い返せず、黙り混む翠。それを見たモーザは一つ溜め息を吐いて落ち着いた口調で話し出した。
「亡くなった者に対して、残された者ができる償いは"ひたすら生きる"事だ。彼等の分まで生き続ける思いだ。いつまでも後悔と懺悔に浸っているだけでは、ただの自己満足になる。そうだろう?」
最後に問い掛けるように話を終わらせたモーザ。
「……あぁ」
翠は、言葉が詰まっていた。
「絶望的な状況はない。絶望する人がいるだけだ。」
ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン ドイツ陸軍上級大将