第二話
アズライトは46歳を迎えたその日に、元老院議員の職を辞した。
常に誰かしらが議員の席を有している程度の名門としては、比較的若い35歳からの11年間、無難に職責を果たしたつもりである。
ただ、それなり程度の名門かつ無難な仕事ぶりだけでは、更なる地位は見込めない。特別栄達を望んだ訳でもなかったが、先の見える状況に我慢ができる性根でもなかった。
元老院議員として特筆すべき点の無い中で、人物に対する鑑識眼にだけは自信があった。
事実、在籍期間中に議長や要職に就いた人物は悉く自身がこれは、と思った者であったのだ。
世渡りの上手な人間であれば、見出した時点で協力を申し出て恩を売るなり、近づいて懇意になるなりという方向で尽力するところであるが、生憎とそういった類の才能は無かったようである。
付け加えるならば、その様に他人に阿る姿勢が、自身の信じる、共和国人としての高潔さ、の様なモノに反していると感じてもいたのである。
斯様に不器用で意固地な面のあるアズライトであるが、不思議なことに子供が好きであると共に自身も子供には懐かれ易かった。
元老院議員ともなれば、彼の一門の中でもそれなりの地位ではある。事ある毎に同族から声がかかり、自然多くの子供と接する機会は多く、保護者そっちのけでの彼らとの交流はアズライトの楽しみの一つであった。
その奇妙な交流の度、一門と共和国の将来を担うべき彼らの環境の、重大かつ限定的なある部分不満を感じていた。
本人に対しての教育、これは特段問題ではない。教師を招聘し、武芸、精神、知識、そのすべてにおいて
健全な育成を成しえているからである。他門閥との比較をしたとして、標準を下回るということはなかろうと思われた。
しかしながら、我々は人間社会の、それも共和国の構成員である。
例え、天性の才と十分な教育を以てしても、個の能力だけでやっていけるほど甘い世界ではあるはずもない。
愛する共和国では、英雄は求められていないのだ。
ある一定以上の名声・財を得た、いわゆる名門や名家と呼ばれる一族の子女には、幼少期から一生を共にする同年代の男子を宛がうことが通常であった。
彼らは時に良き相談相手となり、護衛となり、対外交渉の窓口となり、戦時には副将ともなる、正に公私共に主人の影となる存在である。
しかしながら、アズライトの一門であるセントレア一門はこの、子息たちの生涯の付き人の質も、活用の方法も十全とは言えず、少なくとも彼の満足する水準には達していなかった。
そもそも、先述した通りに彼らの才能・活用を行っている場合は数えるほどであり、大半は掃除や身の回りの雑務担当といった位置づけ者が大半ではあったのだが。
とはいえ、生涯の付き人をお手本通りに活用している者たちはほぼ例外なく出世を果たしており、ここに一門の不遇の根源が存在するとアズライトは判断していた。
身近な事実として、既に亡くなってしまった自らの付き人であった者の名前も、アズライト自身覚えていないのである。確か38歳で病に罹ってそのまま、であったように記憶している。
文字の読み書きも出来なかったので、荷運び等の力仕事が主だったものであった。亡骸は共同墓地にでも埋葬されているのであろうか。
翻って、今を時めくクラウス一門の子息と付き人たちはどうか。
先だっての北方征伐の際には、総司令エンポリオの付き人ホールストンが、彼の名代として実質的に全軍を指揮し遠征を成功に導いた。
特筆すべきは彼への評価と、主との関係性である。ともすれば、自らの成功を自信に増長し、謀反という言葉が頭をちらつく、状況と成果であった。
実際、主となるべき人間が制御できずに、付き人が主人を暗殺することや、食事に毒を盛ることで生かさず殺さず衰弱させ、実権を握るという事例も、長いこの慣例とも言うべき制度の中ではままある。
エンポリオ主従の場合はどうであったかというと、まずホールストンの成果への称賛は主としてエンポリオへと向けられた。
この場合に危惧されるのは、手柄を横取りした形になった主人に対するホールストンの感情の部分であるが、その点エンポリオは心得ていた。
遠征軍の帰還の際、全軍を前に繰り返し、状況を、修飾語を変え、事あるごとにホールストンと彼の軍を褒めたたえたのである。
他人を掛け値無く褒めることのできる人間は、共和国の風土・文化に於いて最も歓迎される。
また、相手方よりも自らが優位であるという遠巻きなアピールを兼ねてもいるのである。ともすれば単なるおべっかである様に感じられるが、エンポリオの場合は徹底していた。
ある時は食事の席で、ある時は市井の演説で、場を変え人を変え、今回のホールストンの功績の大なるを喧伝して回った。
そもそもの北伐によって得られた領地等の収穫、得るものが大であったので、誰一人として訝しむことなく、むしろ当然といった雰囲気が形成されていたことも大きかったであろう。
しかして重要なのは、世間一般では単なる従者や世話役と思われている立場のホールストンを、エンポリオの付属品としてではなく一つの個人としてエンポリオ自身が扱ったことである。
必然、ホールストンの評価が上がるに連れエンポリオの評価も上がり、それは個人としてのものに加え、ホールストンの主人であるという点でも評価は向上した。
無論、そもそもホールストンとエンポリオの間に十分な信頼関係を有している前提があっての話ではある。
従者の名前も墓地も覚えていないどこかの誰かとは雲泥の差、と自嘲してしまう事も仕方のないことであると思われた。
ともあれ、長々と述べた講釈の結句は、つまるところこれら従者に対する価値観の差が、セントレア一門が今一つぱっとしない最大の要因であると認めざるを得ないことにあった。