第一話
先生、と少年の呼ぶ声がする。
麦の穂が奏でる実りの音に負けず、よく通る声。
出会った当初は人見知り故かぼそぼそと呟くように言葉を発していたのだが、もうそのころから2年が経過している。
この年頃の子供の成長の速さにも感心するが、自身がこの少年に多少なりとも好かれていることもある、と思うのは自惚れであろうか。
明日で7度目の誕生日を迎えるこの少年には、性根なのであろう、それでもまだ内向的な部分が多く見られた。
一面黄金色の景色の中、一際映える銀髪である。
馬上から右手を挙げて軽く応えると、少し嬉しそうにはにかむ少年の後ろに彼の両親が姿を見せた。
『やあ、ご両親。今年は良い実をつけているようですね』
『はい、今年は雨の日がそんなに長くなかったんで。もうそろそろ刈入時ですよ』
『それはそれは』
やや頬を紅潮させて現れた二人と対照的に、少年は上げていた口の端を元に戻した。
『さて、早速で申し訳ないですが本題の方に……』
『はいはい、お待ちしてました。じゃあこっちへ』
母親の方がアズライトを室内へ促し、父親は息子に外で待っているよう言ったが、銀髪の少年は一緒に家へ入ることを望んだ。
父親が何度か同じことを言ったが、彼はただ一言、僕も、とだけ応えて引かない。
既にアズライトの方から因果を含めている。今日行われる儀式は、立場によっては当然かつ普通のものであるが、本人に現場そのものを見せることは心理的に憚られた。
強い子なのか、賢い子なのか、よく伝わっていなかったのか。アズライトもまた、どうするべきか判断に迷ってしまっていた。
しかしながら、頑として譲らない意思を年端もいかない少年に見たか、若しくは見ようとしたか。
これも一興。アズライト自身も初めてのことであるし、意外とそういうものなのかも知れない。
特に父親の側が渋ったが、アズライトの説得で少年は立会を許された。
家の中に入ったアズライトは間髪入れず、いかにも使い古された感のあるテーブルの上に銀貨の袋を置く。
銀貨30枚。一家の15年分の総収入に近しいこれが、この家族の三男の値段である。
『一応、お確かめ下さい。終わりましたらこちらに署名を』
極めて事務的に伝えるアズライトを余所に、少年の両親は嬉々として銀貨を数えている。
その目に浮かぶのは唯々至福の色であった。
自らを売る親のこの姿に彼は何を感じているのか。
ちら、と目をやってはみたが、元々感情の起伏が激しい方ではない。若干表情が暗く見えるのは、アズライト自身の心情を投影してしまっているからだろうか。
若い娘のように騒ぎながら、自らの息子の代価を確認した両親はようやく書類への対応を始めた。
『はいはい、30枚。これに名前書けばいいんですね』
『ええ、こちらと同じように描いていただければ構いません』
『えーっとと……』
アズライトの用意した見本を見ながら、たどたどしい手つきで自分の名前を記入する。彼の感覚では絵を描くこととさして変わらないものであろう。
『うし、これでいいですかね』
いくらか時間を掛けて出来上がった絵画は、見本の見事な署名と比べると辛うじて字と見られる程度のものであった。
見本を描いたのは銀髪の少年である。
『はい、ありがとうございます。では、これで終了ということで』
『いやー、ありがとうございますね先生。もし良かったら他のもいますし、またおねがいしますわ』
『ええ、まあその辺りは追々』
夫婦にはこの少年のほか、四人の子供がいるが皆相応の子供である。
愛想よく答えたが、二度と来るつもりも無ければその必要性もないだろう、と思った。
夫妻との会話を終えたアズライトは、少年の反応を確かめようとしたが、先程のやりとりの最中にでも外に出てしまってたのだろう。目の届く範囲にはいなかった。
一言二言交わした後、繋いでいた馬の前で待っていた少年と合流する。
普段とそれほど変わらないように見える彼を先に乗せると、いつの間にか勢ぞろいした一家が並んでいた。
夫婦は喜びを、五人から四人になった兄弟は困惑を含ませながらも、皆一様に笑顔で手を振っている。
銀髪の少年はかつての家族に、こちらも笑みを浮かべながら手を振り別れを告げた。
ゆっくりと馬を進めている間も、家族の側は手を振り続けている。
麦の穂と同じ髪色をした一家の姿は、やがて周囲の景色に埋もれ見えなくなった。
アズライトは自然、手綱を握る手が強張ることを認めざるを得なかった。
少年の目は既に首都のみを見据えている。