Day0 とある少年のプロローグ
「みんなを救えるようなかっこいい魔術師になる」
そんな大それた、そして子供じみた夢を少年はあの日から抱いていた。
あの日――少年は全てを失った。
7年間暮らした思い出の家、誕生日にもらった大事な絵本、かけがえのない友人、そして自らの両親さえも。その小さな体に重くのしかかった絶望は彼をどれほど苦しめたか。
それは赤い、紅い、朱い、緋い記憶。
鮮明に思い出される凄惨な情景。
これは今から8年前の出来事。
セリス王国西部の小村コルテンを襲った災厄。少年のみが知る悲劇と悪夢。
そして少年アヴァンの始まりの物語。
*
一面に広がる緑の絨毯。吹き抜ける風は草木を揺らす。野鳥は遙か遠くの地平線を目指して飛翔し、地上の生物たちは自然と寄り添い生きている。生きとし生けるものが自然と調和する。そんな優しい世界がそこにはあった。
人は自然を決して汚しはしない。彼らとて自然の一部なのだから。コルテン村の人々はただ小鳥のさえずりを聞きながら、流れる時間に身を任せ生活する。朝は鶏の声に目を覚まし、昼は働いて、夜の静寂と共に眠る。時には遙か遠くの満天の星を見て、将来を語りあう。
なんとコルテン村は平和であっただろうか。
しかしその平穏は、たった一夜のうちに崩れ去ったのだった。
「お父さん!お母さん!」
燃え盛る業火の中、幼き日の少年は一人泣いていた。もう決して言葉を発してはくれない両親を交互にゆすっては「二人はもう生きてはいないのだ」という現実が少年を襲う。そしてその現実は少年を哀しみの深淵へと誘っていく。
この火事の原因は不明であった。三人の団欒の時、突如として家が火に包まれた。そして燃え炭となり崩れ落ちた壁の隙間からは隣の家も、そのまた隣の家も、この村全体が火の海になっていることが見えていた。
この火事が人為的要因によるものなのであれば、きっと被害は拡大しなかったはずだ。この村では少年が記憶する限り、他に一度だけ火事が起きたことがあった。しかしその時は村長により即座に村中に情報が行き渡り、火事は最小限の被害で済んだ。それなのに今回の火災は火事を知らせる声もなく、そして異音の一つもなく突如として起こった。
家族三人で暮らしてきた家は酸素を取り込むことで燃焼が加速していき、もはや原形をとどめていないほど崩壊が進んでいる。今すぐ逃げなければもはや少年も燃木に埋もれるであろう。
しかしもはや少年にとって、そのようなことはどうでもよかったのだ。いっそ死んでしまえば、二人の元へ行ける。幼いながらに少年はそう悟っていた。
「グルルルルゥゥゥゥッッツ!」
「っ!?」
少年ははっと息をのむ。何かが近づいている。今までに聞いたことのない、地響きを起こすような低いうなり声。その声の主が人間ではないことは明らかであった。では、一体正体は?飼育していた動物?野生の動物?村の周囲であのような声を発する動物はいないはず。
それに生物は自ら望んで死地に踏み込もうとはしない。それ故普通の生物だとは考えられない。人間でもその他動物でもないならばいったい・・・・・・?
バゴンッ!と壁を突き破る激しい音がした。少年は泣き目をこすり、おそるおそる音の方向を見た。それが助けの手であればどれほど幸せであっただろうか。
そこにいたのは少年が今までに見たことがないような異様な存在。それは化け物と言うに相応しかった。化け物は犬のような姿をしていた。しかし愛くるしい犬とはまるで違う。頭からは角が生え、目には生気がなく、皮膚からはその生々しい肉が露出していた。そして何よりその口元からは赤い滴が滴っていた。少年はその赤い滴が何なのかを知っていた。少年はよく転んでは自分から流れ出すそれをよく見ていた。それは人間の血。あの化け物はもしや人を――?
――逃げなきゃ!
少年の本能がそう告げた。先ほどまでは火に飲み込まれることで両親のもとへ行こうとしていた・・・・・・しかしあれは、あの化け物に殺されるのは!その思いが少年を突き動かした。
「ガルルルルゥゥゥゥッッッッ!!!」
「ひぃっ!?」
少年は勇気を振り絞って立ち上がろうとした。しかし同時に化け物がけたたましい怒声をあげる。その威嚇に少年は背筋が凍り、その場に尻餅をついてしまった。近づく化け物からなんとか距離を取ろうと、少年は手を使ってなんとか体を後方へと移動させる。
その移動速度の差から少年と化け物の間合いは、じわりじわりと縮まっていく。しかしある地点にて化け物はぴたりと歩みを止めた。ある地点――それは少年が化け物から逃げはじめた地点、すなわちそこには少年の両親が横たわっていた。
「なっ、なにするの!?」
少年は化け物に問いかけた。しかし化け物が答えてくれはしない。化け物はそこに腰を落ち着かせ、そしてガブリ!と、少年の父親の腹部の肉に囓りついた。
「……ヒイっ!」
少年は見てしまった。自分の父親が捕食される瞬間を。父親の体から血飛沫が飛び、少年の額にべとりとついた。生ぬるい血液は重力に従い少年の頬を滴っていく。
声にもならない恐怖が少年を絶望へと突き落とし、やがて少年は意識を失った。
それからわずかな時が経過したのちに少年は目を覚ました。少年の目には血の海、そして無残な骨と肉、先ほどまで両親であったものが映った。おもわず吐き気を催す少年のもとへと、容赦なく化け物は迫っていた。
「グルルルルゥゥゥゥッッ」
低い唸り声、まるで悪魔のような双眸から放たれる恐怖が少年を襲う。少年は再び意識を失いそうになった。しかしもう気絶するわけにはいかない。今度気絶すれば自分は化け物に捕食される。化け物から目をそらさず必死に腕を使い化け物との距離をとる少年であったが……こつんと腕に何かがあたる。まもなくして火の粉が少年に降りかかった。少年はおそるおそる後ろを見る。それは行き止まり(かべ)であった。壁はいまだ堅牢さを維持しており、か弱い少年に壊せるはずがない。もはや少年は逃げ場所を失った。
少年は覚悟した。きっと噛まれてもすぐには死なない。化け物に腹を喰われ、足をちぎられ、腕を引き裂かれ、そして痛みの中でようやく死ぬのだろう。何故神様は両親と一緒に死なせてくれなかったのだろうか。けれどそんなことを考えても時は既に遅かった。この現実を受け入れ、死ぬしかないんだ――
化け物の荒い鼻息が少年の頬に触れる。少年は化け物に身を任せるかの如く、そっと目を閉じた。
「諦めるにはまだ早いぜ、少年ッ!!」
その刹那、壊れかけの天井を突き破り何者かが少年の前に降り立った。化け物は後退し、鋭い眼光をその闖入者に向ける。闖入者、その男は青みのある黒髪、紅蓮の瞳をしており、そしてセリス王国の公認の魔術師に配られる礼装に身を包んでいた。そしてその男は右手を化け物へとかざし、即座に詠唱を始めた。
「《万象に希う!汝、我が命に答えるならば、汚れを祓いし清浄の光を》ッッ!」
男が詠唱を始めると、彼の右手が白き光に満ちていき、そして直視できないほどの輝きを放った。
「さて、憑獣。お前の暴走もここまでだっ!!」
その言葉に少年は確かな安堵を覚えた。彼ならばもしかしたら自分を救ってくれるかもしれない。張り詰めた緊張は緩み、そして今度こそ少年の意識は深い闇へと落ちていった。
*
少年が次に目を覚ましたとき、遠方より駆けつけた祖父に抱きかかえられていた。それから祖父の暮らすカラナンに向かい新たな生活が始まった。
少年は連日連夜泣き続けた。少年にとって、あの惨劇で受けた心の傷はあまりに大きすぎたのだ。
しかし少年は思い出した。自分を助けてくれたあの魔術師のことを。言葉を交わしたわけでもなく、その名前を知るわけでもない、自分を救ってくれたあの魔術師を。そして彼の詠唱したあの魔術を。
そうして少年はあの夢を抱いた。
「みんなを救えるようなかっこいい魔術師になる」
魔術という奇跡の力が、彼の暗き絶望に射し込む一筋の光となったのだ。
そして時は現在に至る。
少年は15歳を迎え、ある大きな問題に直面していた。
これより始まるは、夢を目指して奮闘する少年の物語。
彼がその果てに掴むのは魔術世界の希望か、それとも――