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やるべきことがある

作者: 漢太郎

 バーテンダーはグラスに入ったウィスキーをコースターの上に置いた。音なんて一切しなかった。本当なんだ。もし彼がお酒を渡すところを見ていなかったらきっと気付かなかっただろう。そう、彼はその部屋、そのカウンター、その椅子、その空間の一部だった。ウィスキーに浸かっていたボールアイスは夜の光を浴びて、さらにそれを吸い込んだ。ワタシは煙草に火を点けた。そしたら煙がどんどん膨らんで、膨らんで、膨らんで……不思議とワタシの心は落ち着いた。煙はワタシの代わりに欲と望を載せて上へと昇っているようで。


 本当のことを言うと、ワタシは帰ってきたと言うべきだろうか。それまでは力強くて、豊熟していて、そして凝縮された時の中にいた。ワタシをそこへ連れて行ったのはケイレブだった。彼はまさに人間そのものであった。しかし、ワタシはすでに帰ってきてしまい、時々彼を懐かしむんだ。

 五年前、まだ二十歳の大学生だったワタシは昼間、学校に通い、日が空から沈むとミュージシャンとしてあちらこちらのバーでギターを手にしながら歌っていた。八月の湿った夜の風がワタシの首筋に貼りつく中、あの日、ワタシは入口に自分の名前が書かれてあったブラックボードを置いたバーに入った。

 着実な音を鳴らしながらワタシの指はアコースティックギターに張られた六本の弦を渡り歩いた。安らかなギターの音に潜り、ワタシは歌った。


色のない世界に

落ちて

彼女はもう死んだ

感じるものは一つ

あなたの

腕の冷めた体温


どこへ向かう……


「お疲れ。君の歌最高だったよ」

 その両目から彼の気怠るさが見られたけど、その奥からは他の人なら持つことを恐れる情熱を確かに感じることが出来た。

「ありがとうございます。何とお呼びすればよろしいですか?」

「ケイレブです。多分お互い歳近いから敬語じゃなくてもっと楽に話そう」

 その後、ケイレブはワタシを褒め続けたけど、正直なところ、彼が何を話したのかをほとんど覚えていない。しかし、ある言葉はずっとワタシの心の中に沈んでいて、底から微かな重みを感じることが出来る。

「強くて同時に繊細な何かを感じるんだよ。君は自分が何なのか、自分は何が欲しいのか何を必要としているのかを見つける力を持っていると思うよ」

 彼はすでに酔っ払っていた。両目は半開きで彼の言葉のリズムがどんどん感情的に乱れていった。

 数日後、ケイレブはワタシを彼が所属していた芸術団体の所に連れて行った。

「みんなおはよう。友達のローガンを連れてきたよ。コイツの歌本当に凄いんだよ。聴いていると彼の世界に落ちてしまうんだよ」

 Bob Marleyの”Three Little Birds”がスピーカーから流れていた。二つのソファーが直角を作り、それぞれ隣り合った壁に沿っていて、間には正方形のテーブルが座っていた。その上には灰皿、数冊の雑誌やCDなどが散らかっていた。そして、ケイレブの三人の仲間はソファーの上でくつろいでいた。

「はじめまして」

 ワタシはこれまで足を踏み入れたことのない夜の森の中へと招かれたような感覚を覚えた。そして、奥からは心地よい歌が聞こえて、その歌詞は”Don’t worry about a thing. Cuz every little thing gonna be all right. ”と歌っていた。

「どうも、オースティンです」

 オースティンは絵描きで、このグループを立ち上げた男であった。彼の家の一部屋を使っていた。何が面白いのかというと、彼は寝ているとき雷のような轟音を鳴らすのだよ。アナタの周りにも一人か二人くらいはこのような人がいると思う。さらに、彼の場合は、ずっと一定のリズムを保ち続けるのだけど、急に一ヶ所にアクセントを入れたりする。いつも笑いを堪えるの必死だった。もちろん、皆で彼の家に泊まるとき、お蔭でなかなか眠れない夜もあった。でも、ワタシたちは彼に真実を告げるのをためらったことはなかった。

「こんにちは、クロエです」

 クロエはグループの中で一番若かった。彼女は時々音楽を聴く以外特に何らかの芸術に陶酔することはなかった。彼女がそこにいた理由はオースティンの妹であるからだった。彼女自身を含め、人は皆彼女のことを馬鹿と言い、そして彼女はかつてこんな事も口にした。

「みんなよく私に『何を考えているの?』てきいて来るんだけど、私何も考えてないんだよね」

 しかし、本当のことを言うと、ワタシは一度も彼女が空っぽであると思ったことはなかった。彼女は常に人生のあらゆる所で綺麗な風景を探そうと思考を巡らせている。

「ローガンさん。はじめまして、アマンダと言います」

アマンダはいつも繊細で綺麗な言葉を選ぶ。彼女の囁きが浮き上がるとそれは空気を揺らし、ワタシの肌に浸透する。やがてその声はその柔らかい腕でワタシの心を包み始める。彼女は詩を書いたりしていた。彼女の筆先に並べられた文字はジャスミンの香りがする。そんな幻想を与えてくれる。彼女はまた、湿った土の上に聳え立つ一輪の花であり、あなたはついそれに目を向けてしまう。そして、あなたはその花に近づいて見つめるけど決してその花を触れることが出来ない。触れる勇気がないのだ……そのような女性であった。

 ケイレブはいつも色んな所でブラブラていた。彼は決して一つの場所に留まることはなく、砂、小石や落ち葉などを飲み込む流れる川のように場所を転々としていた。彼の寛大さのお蔭でワタシは手にするべきものを存分に探求することが出来た。彼がなぜワタシを誘ったのかは不明だけど、彼と一緒にいる時、不思議と怖いものが何もないと感じることが出来て、自分が纏っていた鎧を外してしまう。また、彼は人間のままであるための大切なことを教えてくれた。それはただ神様から与えられたものを素直に受け止め、それらを最大に味わうことである。

芸術団体と言っても、ただの芸術好きの集まりであった。しかし、夜と言う時間の力を知ることなくワタシたちは人生について語り合った。世間の人が狂気と歓喜を忘れている間、ワタシたちは暴れ回った。そして、人生を知り、理解することが出来たような気がした。ケイレブは他の人たちが取り損ねた喜びをどうやって手にしたのかを見せてくれた。

当時、ワタシは大学の友達と話していても、彼らの口から滑り出た言葉の中に何らかの果実が実っていると感じることがほとんどなかった。もちろん何人かの女性とデートし、彼女らと共に色んな場所にも行った。しかし、時々一人でそこへ行きたかったと思ってしまう。そして、ワタシの頭の中で一塊の煙がゆったりと回り続ける……あまり言いたくはないのだが、本当のことを言うとワタシは自分がつまらない男であるからと考えたこともあった。

 ケイレブはいつも自分の感情をありのままにさらけ出すことが多く、彼のこのような人柄がワタシを招き、引き寄せた。



 よく歌っていたバーでマスターのお気に入りのアーティストを集めたイベントがあり、ワタシはそれに出させて頂いたことがある。普段そのバーに行くとお酒で落ち着きながら甘く湿った歌声を聴くことができるけれどその日は店中に熱が飛び回っていた。ケイレブはもちろんためらいもなく彼の内側にある表情を曝け出し、他の客たちは彼の歓喜についていった。気付いたら彼は会場のほとんどの人と酒と笑顔を交わした。

 ワタシの出番がやってきた。目の前に浮かぶ数々の顔を見つめ、それらから伝わる情熱の中にワタシは歌を投げ込んだ。


色のない世界に

落ちて

彼女はもう死んだ

感じるものは一つ

あなたの

腕の冷めた体温


どこへ向かう

違った雲が夕日に沈む

あなたを待ってる

一緒に探そうよ……


 彼の両目尻が少しばかり光っていた。すると二つの光は彼の両頬を沿って下って行った。なんて感受性豊かな男なんだ。歓喜と悦楽で溢れそうなその涙は大地を抱え、人間の真実の神聖さを取り戻しながら赤色に輝く林檎を実らせていた。

「自分の感情をありのままに曝け出す人ているよね。時々そういう風になりたいと思ったりするんだよ。ほら、普通みんな自分を隠そうとするでしょ」

 ワタシはアマンダの横で自分のビールを味わっていた。

「彼らも普通になりたいと思っているよ。ただその小さな願いが心の奥底にある部屋の中で眠っていて、彼らはその部屋の鍵を見つけることもできないし、探す勇気もないだけだよ」

 彼女の声は私の耳に入ってこなかった。しかし、それはワタシの体をそっと包み、ワタシの頭の中で響いていた。彼女はそんな美しい声の持ち主だった。

「それに、そういう人はいつも周りに迷惑を掛けてばかりだよ」


 その日の帰り、電車が一緒だったのでアマンダと一緒に帰った。席は一つしか空いてなかったのでワタシはアマンダに席を譲った。

 二人とも疲れていたので特に会話を交わすことはなかった。ただ二人とも電車に揺られて、行き先を任せるだけであった。疲れたワタシは右手を吊革に引っ掛け、体を重力に任せた。しかし、足を優しく閉じたまま、両手を膝上で重ねていたアマンダは背もたれに一切背を付けず背筋を直線に立たせていた。よく考えてみたら、これまでに彼女が背を背もたれに付けたのを見たこたがなかった。オースティンの家のソファーだって、どこかの飲み屋やレストランだって……。下品でも高貴でもないその普通な姿は謙虚であった。

「姿勢良いね」

「本当?新体操やっていたからかな?」

「新体操やってたの?知らなかった」

「幼い頃だけどね」

「あ、着いた。またね」

「うん。お疲れ様。素敵なステージだったよ」


 オースティンの部屋に行ったのだがアマンダ以外誰もいなかった。彼女の煙草の煙が空気中に広がり、彼女の表情を隠すように白いベールになっていた。ワタシはもう片方のソファーに腰を下ろした。

「みんなまだ来てないの?」

「まだだよ」

 ワタシも煙草に火を点けて彼女と少しばかりの沈黙を共有した。

「彼氏と別れたの」

 彼女の口調は落ち着いたままであったがその声の背後に隠された真実に耳を傾けてみると震えているのが分かる。

 その彼氏に一度会ったことがあるけれど彼の顔を思い出せない。

「何があったの?」

「ただ彼との未来を想像出来なくなっただけ。彼はきっと全てを浪費してしまう。そう思ったの」

 彼は確か当時三十歳で安定した職もなく毎晩ライブハウスでバンドマンとして歌っていた。

「志がある人は確かに輝いている。でも現実を知ってその二つをうまく調和させなきゃいけないと思う」

 今度は冷めた口調だった。

 彼女を気の毒に思っていたのは本当だ。しかし、本当のことを言うと、少し喜んでいる自分がいるということに気が付いてしまった。彼女のことが好きだったことにも気が付いてしまった。ワタシは以前から彼女の飾らない上品さに惹かれていたのかもしれない。彼女はいつもただ普通な口調で喋り、ただ普通な仕草をする。それが他の女性はなかなかそのように出来ない。

 好きな人と話すとき、口調、表情や仕草は鏡のようにその人の気持ちを反映してしまう。だからアマンダはすぐにワタシの心に生えていた芽に気付いたのだろう。やがて二人だけで過ごす時間が多くなった。母なる海の上に浮かぶ夕日を一緒に見に行った。灯りで満ちた街中を一緒に歩いた。映画のスクリーンを前にして手を繋いだ。天井に吊るされた薄暗い光の下で共に夜を過ごした。

「おめでとう!」

 ケイレブはワタシたちの雰囲気に気付いた。

「恋は情熱。恋は創造力の源泉。恋は心の大地にあるルビー…」

  彼はまるで何か見えない力に憑りつかれたように喋り、すべての言葉がワタシたちを彼の世界に引き込んだ。

 

 ワタシは大学を卒業したが、どこかの企業に入って働こうとは思わなかった。クローンのような人間が大量にいる世界に住む、そんなことに耐えることができないと思ったからだった。だからワタシは学生の時のようにいくつかのバーで歌ってお金を貰っていた。さらに、ケイレブに影響されて、(そうだ、彼が小説を書いていたことを言うの忘れていた)いくつかの短編を書き初め、それらを文芸雑誌社に送って載せてもらった。

 ワタシとアマンダの関係は長く続いた。確か三年ほど続いた頃の話だった気がする。以前と同じ太陽が空から落ちていくのを彼女と一緒に見ても、同じ煌びやかな街を一緒に回っても、同じ映画の空気に包まれた中でお互い手を触れ合っても、同じ光を浴びながらお互いの体を抱き合っても、彼女のことを未だに愛していると自分で感じた。残りの時間の中でワタシは彼女を愛し続けるのだということを知った。さらに、彼女は当時もう二十八歳でそろそろ結婚について考えるべき時期だった。

 アマンダは安定した生活を望んでいたことは知っていた。子供を持ち、大切な人のためにご飯を作り、仕事帰りの夫を待つ。そんな生活を彼女は口にしてはいなかったが望んでいたというのは知っていた。前の彼氏と別れた原因だったり、街中で子連れの家族を見る彼女の和やかな顔だったり、結婚した彼女の友達に羨ましそうに結婚生活について聞く口調だったり……それらがワタシに彼女の心を気付かせてくれた。

「私は幸せだよ」

 付き合って三年目の記念日の夜に、ベッドで彼女が言った一言だった。彼女は目を閉じたままだったが、その閉じた瞼は微笑んでいた。

 そして、目を開けた。

「もうこれ以上何もいらないくらい」

 ワタシを見るその目は彼女の言葉通り幸せに包まれていた。

 なんだか愛しくなってワタシは布団から手を出し、彼女の頭を撫でて額に口を当てた。

 しかし、ワタシは彼女の願いを叶わせてやりたかった。

 自分の芸術活動にも限界を感じた。あと何年か続けたらきっと成功するだろう。しかし問題なのは時間だった。当時のワタシの給料では将来の家族を養えることは出来ない。だから就職することに決めた。

 ケイレブにワタシの決心を伝えた。彼はきっとワタシに賛成してくれる。

「結婚はお前の芸術を壊すぞ」

「芸術は続けるよ。ただ、仕事のためにそれに費やす時間を減らすだけだよ。暇なときに歌も歌うし小説だって書く」

「そんなの間違っている。暇の時の芸術はガラクタだ。魂をゴミ捨て場に注ぎ込むことなんて出来ないだろ。結婚がそのゴミ捨て場だ。結婚している人を見てみろよ。彼らはまるでガラクタの山で金属を集めるポンコツのロボットだろ。そんな環境でお前は芸術ができるのか?」

 彼は軽蔑の笑みを一瞬浮かべ、ワタシから視線を逸らした。

「前に恋は情熱で創造力の源みたいなこと言ってたでしょ」

「結婚は恋と違う。」

 彼は視線をワタシに戻してこう続けた。

「結婚は自分を閉じ込めることなんだよ。自分の首を絞めることになるぞ」

「でもジョン・レノンとオノ・ヨーコは結婚したけど二人とも偉大な芸術家だったよ」

「それはあの二人は成功してから結婚したからだよ」

 もう何を言えば良いのか分からなかった。五秒程の沈黙が流れ、二人とも煙草に火を点けた。

「なあ、ローガン。俺はお前にクローンになって欲しくないんだよ。分かるか?お前は自分の持っているダイアモンドを磨いてくれ。それはいつかこの世界の影を照らすから。お前は社会に憑りつかれるべき存在じゃない」

 彼の目は湿った光に包まれて、その目尻は震えていた。

「自分のダイアモンドのためだけに生きていくことは出来ない。俺は他の人の宝物も愛したいんだよ」

 彼は煙草を吸い続けていた。二人の意見が一致することはなさそうと思い、ワタシはその場から離れた。


 彼女の家で一緒に映画を見ていた時だった。

「俺、就職しようと思ってる。そろそろ安定したいと思ってね」

 思った通り、彼女は驚いて目をテレビからワタシに向けた。

「歌と小説はもうやらないの?」

 名残惜しそうな表情だった。

「そんなのやめられないよ。空き時間でやるよ」

 彼女を安心させるため、ワタシは微笑んでみた。

「良かった。私、ローガンの歌と小説好きだからさ」

「ありがとう。そんなこと言われたら尚更やめられないね」

「でも、あまり無理しないでね」

「大丈夫だよ。忙しい方がやる気でるしね」

 ワタシはこの言葉と共に冗談気味に笑ったが彼女の目に不安が残っていた。

 ワタシたちは再び視線をテレビに向けて主人公の男性がヒッチハイクで親友の居る街へと旅するのを見届けた。

 紅茶の入った白いマグカップを両手で持っていたアマンダは頭を静かにワタシの右肩に乗せた。


 ワタシはプロポーズらしい行為はしなかった。二人ともなんとなくこのまま結婚するだろうと感じていたし、ワタシが就職活動を始めたことによってアマンダはワタシが結婚に向けての準備を始めたことに気付いた。だからワタシは当たり前のように将来の計画を彼女に話した。

「この前アマンダに話した会社、そこの内定決まりそうだよ」

「本当?良かった。ローガンそこに一番入りたいて言ってたからね」

「決まったら籍入れよう」

 本当に自然な流れだった。緊張というものは全くなく、ただ朝露が葉から零れるような清清しさだった。

 言葉による確信を得た喜びでアマンダの顔が真っ赤に染まり、少しの間をおいて彼女は照れながら頷いた。


 有名大学に通っていたことと物語を書いていたことのお蔭で大手の出版社に就職することが出来た。

 就職先が決まってからすぐにワタシとアマンダは入籍した。市役所に足を運んだ時、ワタシたちの将来の家族がリヴィングでくつろいでいる姿が心に浮かんだ。とても暖かかった……ワタシはこれから彼女と家族になる。そして世界がワタシたちの愛を認めてくれるのだ。そんな思いで心が一杯だった。

 

 就職活動中はケイレブ、オースティンとクロエに会う暇がなかったから彼らの所に行ってワタシたちのことを報告しようとした。

「いつ式挙げるの?」

 クロエはきっともうすでに何を着て行くかを考えながら尋ねてきた。

「なんか手伝うことある?二次会とかさ」

 オースティンのワタシたちへの祝福の喜びを確かに感じ取ることが出来た。

 駅の近くにあるバーにケイレブを呼んだ。ワタシは張りつめた口調で就職先が見付かったことと入籍したこととを伝えた。

「やはりそうか。ここ最近就活していたのはオースティンから聞いたよ。正直、祝福できるような気持ちにはなれない。申し訳ない」

 ワタシは頷くことしか出来なかった。

「用事あるから先に行くわ」

 彼は手元にあったビールを飲み干して何か覚悟を決めたように空になったジョッキをコースターに叩き付けた。

「じゃあな」

 その言葉に重みを感じたワタシはただ彼の出口に向かう後ろ姿を見ているだけだった。

 そのバーで会った以来ケイレブに会うことはなかった。彼はオースティンの家にも来なくなり、連絡も取れなかった。彼の実家に連絡してみたら旅に出たということが分かった。だから結婚式の招待状は彼の実家に送った。

 オースティンとクロエが結婚式に来てくれた。もちろん、ケイレブは来なかったが代わりに一枚のはがきを送ってくれた。


「幸せになってくれ」


たったこの一行だけだった。しかし、この一行がワタシの涙を引き出した。

 彼は式に来るべきだった。来て欲しかった。

あれから今に至るまで彼と一度も会っていない。時々こうしてお酒を飲みながら、自分が吐き出した煙を眺めながら彼を思い出す。ステージで歌う時、瞼の裏にいつも彼の姿が浮かぶ。

 ワタシがここに来たのは仕事を終えてからだ。アマンダがやって来てハイボールを頼んだ。バーのスタッフはステージのセッティングを終えたのでワタシは長年愛用して来たアコースティックギターを抱えてステージに向かった。

「ケイレブ、俺は今日も歌うよ……」


色のない世界に

落ちて

彼女はもう死んだ

感じるものは一つ

あなたの

腕の冷めた体温


どこへ向かう

違った雲が夕日に沈む

あなたを待っている

一緒に探そうよ


汚れを知らない僕ら

無表情の男と話す

顔を裏に隠して

昨日より良い自分に

なろうとする


産みの母を忘れたんだ

街で会った迷子のように

喜びを探したいけど

やるべきことがある……


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