果実の小説とテーブルクロスについて
緩やかな曲線のごつごつとした道の先には、複雑に絡み合った草木に隠されるようにしてひっそり家が建っていた。フェインド老夫婦は五十二年住んでいる。妻のエリザベートは脚が悪くなり、外へ出歩くこともなくなり、台所仕事とレース編みをする日常を繰り返していた。寝室と子供部屋、ダイニング、リビングの小さな家の中で、彼女は寝室とダイニングのしかも限られたルートの移動しかしなくなっていた。
繰り返される日常の中で、会話も少なくぼんやりと過ごす妻を見て、夫のアルドーは小さな不安を抱えていた。二十歳の頃妻に迎えた彼女は活発で明るく、くるくると軽やかなな身のこなしで家事をし、上品だけれどおおらかな笑顔で仕事帰りのアルドーを家に迎えた。確かに二人は年を取った。五十二年の時間の流れを思い出しても数えきれない程の出来事があったはずだった。しかし、エリザベートにとってその時間がこんなにも彼女をかえてしまう時間だったかと、彼女の寂しい姿を見て不安を拭えなかった。
自分はどうか。私自身の今の姿はどうなのだろうと彼は考えた。それは自分自身を振り返ってみてもさっぱりわからなかった。額には深い皺、頑固に曲がった口元、震える手、それらは彼女と過ごした時間と共に得たものだ。彼女が老け込んだことを悲しいと思うことはなかったが、アルドーはこのところ彼女の顔を正面から見ることができなかった。レース編みをし、台所に立ち、食事をする姿では彼女の顔を真正面から見ることはできず、瞳を覗くことができなかった。一度アルドーは彼女に尋ねた。
「わたしは君にとって生きた存在であるだろうか」
彼女は少し顔をあげたが、そのまままた深く俯いてしまった。不安は一層強く心には大きな闇が生まれてたのが彼にはわかった。
脚の悪い妻の代わりに買い物へ出かける日課はアルドーの安らぎの一つだった。市場はこじんまりとしたものだったが、エリザベートの好きな果物の種類が豊富でいつも違うものを買って帰った。果物が好きな彼女は唯一の趣味であるレース編みにまったく上手に果実の模様を編み込むことができた。アルドーはその技を見事だと感じていたが、うまく褒めることができずに何十年過ごしてきた。最近になってエリザベートに対する不安を感じるようになり、自分が今まで上手く彼女にたいして接することができなかったことを悔やんでいた。五十二年!彼が妻に対する態度を顧みるまでにそんな年月が過ぎたのだ。アルドーは昔のエリザベートを思い出し、果物を手に取る。新鮮で美しい青林檎はアルドーの皺深い手にしっとりと重く馴染んだ。
帰り路、アルドーは公園で開催している蚤の市に寄ることにした。壊れた時計や、銀のタイピン、古いアクセサリーは彼の心を満たした。エリザベートに何かやるものはないかと彼は探した。公園の一番奥の隅っこに小さく店を広げた老人の店があり、品物はずいぶん変わったものが多かった。その中で一つの小説がアルドーの眼に入った。
『瑞々しい青い果実のこと』というタイトルは、彼がたった今買った昔のエリザベートに似た青林檎を連想させた。アルドーはそれを老人から買い、急いで家へと帰宅した。
家に帰るとエリザベートは安楽椅子で編みかけのレースを膝に乗せて眠っていた。起こさないようにそっと傍のテーブルにつき、小説を開いた。
「私の果実のレシピは人を幸せにする。青い果実は妻の育てた、庭の大きな林檎の木からもぎ取った青林檎のことである。妻の友人であるバーンズ婦人は癇癪持ちで彼女自身それに悩んでいた。青い果実は癇癪に効果がある。その効果を紹介したいと思い、バーンズ夫妻の物語を書いた。レシピは忘れずにメモして欲しい。」
小説はそんな風に書き出されていた。ページをめくるごとにテーブルにおいた青い果実の香りが漂いバーンズ夫妻も私も幸せな気持ちになっていた。途中の『瑞々しい青い果実のクロスタータのレシピ』はしっかりとメモに残し、小説は最後まで読み終えた。
バーンズ夫妻は週末になるといつもお茶の時間に瑞々しい青い果実のクロスタータを焼いて夫婦で楽しむようになったのだという。
「今からだとお茶の時間には少し遅くなってしまうだろうが・・・」
とアルドーはつぶやいきながら林檎を持って台所へ入った。慣れない手つきで、メモを何度も見つつ、青林檎のジャムを作り、生地を粉ね、オーブンでこんがり焼き上げた。
部屋中に甘い青い果実の香りがただよい、
エリザベートは眼を覚ました。夫が一体何を始めたのだろうと、上半身を台所に向け覗き込むと、アルドーは子供の様な顔をして出来上がったクロスタータを運んできた。
「エリザベート、ケーキを焼いたよ。一緒にお茶にしよう」
テーブルを囲んでお茶の時間が始まった。少し甘すぎるジャムの味は、寒い冬によく合い、差し込む柔らかな日差しに照らされ、きらきらと輝いて美しかった。
「どうだろうエリザベート。僕初めてケーキを焼いたので、うまくできたかわからないけれど、初めてにしてはずいぶんうまいこと焼けたんじゃないかと思うんだがね」
「ジャムは少し甘すぎるようだけど、青地林檎の味がクロスタータの生地にしみていて、とってもおいしいですわ。私はケーキを焼くことがもうできなくて、ずっと食べたかったのよ。また作ってくださるかしら」
エリザベートはほんの少し笑った様な気がした。彼女は笑顔さえ疲れたような様子だったが、それでも彼にとってはうれしかった。
「もちろんまた作るよ。できればもっと違うケーキも挑戦してみようかね」
翌週アルドーはまた蚤の市へ出かけた。老人の店であの本をどこで手に入れたのか、また他にも著者の本があるのかどうかを知りたかった。老人は同じ場所で同じように小ぢんまり店を広げていた。
老人に本のことを尋ねようとすると、広げた品物の一つに眼がとまった。あの小説に似た装丁と同じ著者の名前、そして『紅い果実の贈り物 ローテ・グリュッツェ』と書かれたタイトルがあった。思わず老人を見上げると老人はにっこりとして話す。
「来週もまた持ってくる。少しずつがいいんだ。彼もすこしずつレシピを増やしたのだから」
老人はお金を受け取ると、店を閉め始めた。
アルドーは蚤の市を後にし市場へ向かった。途中、本を開いてはじめの文章を読む。
「私は世界各国の果実のレシピを知っている。ローテ・グリュッツェはドイツの定番のデザートだ。甘酸っぱい赤いベリーをフルーツジュースとさっと煮て冷たく冷やしたらバニラソースをたっぷりかけていただこう。そして私の経験した甘い初恋の話をお聞かせしたい。もちろんメモは必ずとって欲しい」
アルドーはレシピのページを探し、メモを取る。必要な材料を市場で買い、飛ぶように家へと帰った。
ラズベリー、ブルーベリー、ストロベリー、ブラックベリーを煮始めた。エリザベートが傍に椅子を寄せ、座ってそれを眺めている。アルドーが振り向くと、彼女はうんうんと頷くようににっこりと笑っていった。
「なんだか甘酸っぱい幸せな香りがするので、傍にいてもかまわないかしら」
彼は微笑みうんうんと頷いた。
彼はデザートをテーブルに運ぶ際、ふとあるアイデアを思いついた。
「君、苺のレースのテーブルクロスを編んでいなかったかね」
「ありますよ。レースの棚にしまってあると思いますが」
「せっかくだから苺のテーブルクロスにしよう」
そういって彼はテーブルクロスをひき、ローテ・グリュッツェをそれに乗せた。エリザベートは少し顔に紅味が差し、少女の様な笑顔でそれを口にした。
「お笑いにならないでね。これってまるで恋の味のようですわ」
お茶の後、アルドーは果実の小説をエリザベートに読んでやる。先日までの離ればなれの日常が嘘のように二人は近く寄り添って幸せな時間を過ごした。
次の週も彼は蚤の市へ出かけた。老人は相変わらずにっこりと微笑み、彼に本を手渡した。果実のお菓子を作り、その果実にあった彼女のレースのテーブルクロスを敷き、お茶を楽しむ時間。エリザベートがすっかり美しい笑顔を取り戻していることが、彼の生き甲斐となっていた。
十二月のある週末、『聖なる日の贅沢なベラヴェッカ』という本を彼は老人から買った。ページをめくるとこう始まっていた。
「私は人を幸せにするレシピを秘密にすることなんてできない。特にこんな幸せな日には。
聖なる日に家族で囲んで、めいっぱいの果実を贅沢に口に頬ばって、私の家族はなんて幸せなんだろうと思う。私がこのレシピを初めて作ったときの思い出の出来事をここに書こうと思う。そしてレシピは必ずメモをとってほしい。きっとクリスマスにはこのケーキが必要だから」
そのレシピに必要な果実は、洋梨、杏、イチジク、プラム、レーズンと沢山あり、彼女が作ったテーブルクロスにそれらの果実はなかった。レシピを読むと、果実は漬け込んで1年は時間がかかる。アルドーは少し困って帰宅すると、エリザベートに相談をした。
「これじゃ今日はお茶ができないよ」
「いいじゃないですか、今日は来年の聖なる日の為の果実漬けをこしらえてくださいな。私はその為のレースを編むことにしますわ。お茶の時間はこないだあなたが作ってくださった林檎の煮たものがりますでしょう?クランブルをこさえてくださいな。クロスは私が敷いておきますから」
エリザベートはいそいそと用意をし始めた。
それを見たアルドーは押さえきれない笑いと心の満たされる暖かい気持ちで、こういった。
「君は二十歳の時結婚した僕の妻に間違いないよ。本当に美しい君と結婚できて僕はなんて幸せ者だ」