6話 成長の日 [その2]
若干の流血描写ありです。
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しまった、しまった! しまった!! 失敗した!!
僕はやっぱりどこかで森とモンスターを舐めていたんだ。
なまじ中途半端に準備し、知識をつけたことで優位に立ったと愚かにも勘違いをしていた!
後方に迫る脅威が嘲るかのように、僕を追い詰める。
まずい。とにかくこのままじゃまずい!
この二人だけは何としても助けないと!
僕とリリィは深い森の中を当てもなく駆けていた。
背負ったメルの体から伝わるぬめり気を持つ嫌な温もりが、僕の思考を混濁させる。
「ちょっとライト! しっかりしなさいよ!!」
リリィの焦りを含んだ鋭い声にハッとする。
「あんたがじゃないと…。難しい事考えるのはあたしじゃできないんだから…!」
もはや半泣きで不甲斐ない僕に訴えてくる。
くそっ、まだ八歳の姉にこんな思いをさせるなんて!
僕は二十年も多く生きているのに…!
そうだ、まずは落ち着け。
焦っても追いつめられるだけだ。
この絶体絶命な状況を一旦受け入れろ。
僕たちが水場を目指そうとなったあの直後、
茂みから大型のウォルフが現れた。
次の瞬間には、一番近くにいたメルのわき腹をその鋭利な爪でえぐり取っていた。
とめどなく流れる赤色を見て、思考停止した僕を即座に呼び戻したのはピオだった。
主の身の危険を知らせるような、高く響く鳴き声を聞いたのち、
ほぼ無意識のうちにポケットに入れておいた「とっておき」を使ったのだけはかろうじて覚えている。
簡易魔法符―――。
たまたま母さんが書斎に置き忘れていたのを興味本位でこっそり拝借しておいて正解だった。
効果は一時的な麻痺を付与した煙の発生、と大した代物では無かったが、あの状況をひっくり返すだけの力はあった。
後のことはもう覚えていない。
倒れたメルを死なせないように。それだけで頭がいっぱいで、とにかく逃げた。
事態を悪くしている要因がさらにもう一つ。
ウォルフには厄介な特性がある。
口にした血の所有者のいる方向を数時間の間特定できるという厄介極まりない特性が。
そのため僕は一直線に逃げていた。
攪乱よりもまず距離をとる事を優先した。
ここ数分の出来事を振り返り、回想が現在に追いつく。
背には瀕死のメル。後方には格上の襲撃者。
文字通り絶体絶命。けど思考が纏まる位には冷静になれた。
「ごめんリリィ。頭冷えたよ」
「気にしないで。あたしも怒っちゃったし…。けれどどうしよう…」
「まずはメルの応急処置だ。このままじゃ出血が多すぎて助からない。
幸いにも麻痺であいつはすぐは追ってこれないと思う。
今の内に視界が広いところで処置をしよう!」
「了解よ。…あっ!あれ湖じゃない?あそこなら…!」
リリィが指し示す先には、
木から漏れ出す日光に照らされたかなり多きめの湖だった。
偶然にも当初の目的地を見つけた僕らは、
入り口をすぐ確認でき、なおかつ少し離れた湖畔を陣取った。
ひとまずそこにメルを下ろし、バックの中のから薬草と包帯を取り出す。
メルの健康的なお腹は右側が痛々しく削がれ、 熟れ過ぎたトマトよりも真っ赤な血が吹き出していた。が、
「良かった。内臓までは傷が届いていない」
しかし完全に意識はなく、目に見えて衰弱している。
「助かるの?」
「一応薬草を飲ませて、傷口を塞いでおく。けどこれでも早く連れて行かないと……厳しい」
薬草を濡らした包帯で挟んだ自前の応急処置セットで傷口を抑えるが、
すぐに血で滲んでしまう。
取り替えても、取り替えても、無尽蔵に溢れてくる。
辺りを警戒していたリリィが不意に声を漏らす。
「ラ、ライト…! あれ…!」
「! 思っていたより早い!こんな時に!」
かつては純白であっただろう牙を、メルの血で真っ赤に染めた四本足の猛獣。
湖の入口には既にそいつが立っていた。
一瞬。
僅か瞬き一つの間にリリィは大樹に叩き付けられた。
頭からは血が流れ始め、いくら呼んでもぐったりとして動かない。
ここまで決定的な差があるとは…速さが違いすぎる…!
目の前の脅威は、もう先ほどまでの動きを見せなかった。
完全に戦意を引き剥がされた僕を弱らせる必要もないと判断したのか、ただ一歩ずつ、緩慢な、しかし無駄のない動きで、僕に近づく。
十分に近づき、鎌よりも鋭いであろう剛爪を振り上げる。
あぁ…やり残した事いっぱいあったな。
せっかく貰った人生だってのに、凄く勿体無い事した。
あの家でもっと暮らしたかったし、魔法学園も見てみたかった。
メルとサラには悪い事したな、恨まれて当然のことをした。
前の世界じゃ言えなかったから、もし最後が来たときは、その時は母さんにお別れちゃんと言おうって決めてたのに…。
リリィも。こいつとはろくな事が無かったけど、いつもやんちゃで横暴で、けど可愛らしいとこもある。
そんな彼女を英雄のように助けることも、ましてや身代わりになることすらもできない自分が嫌だ。
けど何より、何よりも、初めてできた大切な姉さんが死ぬのは一番嫌だ…。
嫌だ!
いやだ!
僕がどうなってもいい!だから大好きな二人だけは…!
まだ助かるこの二人だけにはまだ生きてほしい!!
その時、光った。
獣のおぞましい爪よりも、湖に降り注ぐ木漏れ日よりも、何よりも眩しい光が僕の右手からあふれた。
次の瞬間、
「その…その汚い手でライトに、触ってんじゃないわよ!!!」
感情と共に爆発した姉の炎が、僕の視界を暖かく、明るい橙色に塗りつぶす。
その炎はまるで生きてるみたいで、生命そのものの様で。
今まで見た何よりも美しかった。
まるで夢や幻を見たような、
そんなあっけにとられた僕を見て、熱の中心のリリィは笑う。
「何て顔してるのよ。こっから先はあたしの仕事だから、あんたは休んでなさい」
――たまには良いとこ見せないとね。あんたは良く頑張ったわ。
かろうじて耳に残った優しい音を聞いて安堵したのと同時に、僕の瞼はゆっくりと閉じていった。
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目が覚める。体は重くてピクリとも動かない。
いつの間にか夜になっていて可能な限りあたりを見回すも何も見えない。
聴覚だけが状況を知るために許された手段だった。
夜の森は静まり返っていた。
昼鳴り響いているはずの虫や野獣の声一つしない、静寂に包まれた空間。
湖の穏やかな波音だけが緩やかに世界の音を埋めていく。
リリィは、メルは無事なのだろうか。
草を踏む柔らかい音が聞こえる。
…くしゃり。くりゃり。
何者かの足音は僕の真後ろで鳴りやんだ。
誰だろう。二足歩行だから人間だと思うんだけど。
母さん達だろうか。
僕の体を地面に縫い付ける疲労感に負け意識がまた遠のいていく。
あ…これは夢の…。