水色のペン
1.
閉め忘れたカーテンに起こされた日曜日の午前六時。酷い頭痛と憂鬱とともに布団から起き上がる。畳六畳程度の部屋から玄関へ少し出たところにある多少薄汚いキッチンの冷蔵庫を開ける。
「せっかくの休みなのに……」
呟きながら、起きてしまったんだ、と諦めながら朝ごはんの準備をする。といっても、トースト一枚だ。
トースターが、チン、となる朝の光景。夢うつつの中、今日の予定を考えた。どうせなら、久々に町のほうに出てみるか。
学園都市鹿波。今年三十周年を迎える鹿波高校。五年制だが、いまだに理事長が高専機構とは手を組んでないらしく、『高校』の名前が付いている。十五年ほど前か、俺が生まれてからすぐ後のことだ。電子工学に特化していた鹿波が改革を起こした。電子工学だけではなく、農業も、第三次産業、いわゆるサービス業のほうにも手を出していた。ここ最近鹿波で毎年高い倍率を誇っているのは、芸能科。芸能といっても多くに分かれる。俳優、声優、歌手、演奏家。お笑いなんてのはさすがに無かったか。
その二年ほど後か、広報活動の充実によって、鹿波は高校ではない、本物の高等専門学校の様な存在になった。もちろん、電子工学に特化しているわけではないので、日本で唯一の『高専』であって『高専ではない』学校が生まれた。その際、さまざまなスポンサーが出来た。例えば、有名な事務所。アイドルだったり俳優だったりを雇っているところだったり。ほかには、食品会社も多くスポンサーが付いた。歴史は浅いどころの話ではない、そんな学校に出資する理由はある政治家にあるのだが、俺はそこまで詳しくは無い。
いまやその学生数三万を超える。高校では異常な数であり、大学でもかなり有名どころではない限りここまで膨れ上がらないはずだ。いまや鹿波の文字を知るものがいない、そこまで大きくなった学校だ。つまり全国から志願者がいるわけで。学園都市となったのも十年前程度の話だ。
「さて、どこへ行こうか」
俺が住んでいるここは、多少安いが、地理的にはどこへ行くのも不便なE区居住地だ。アパートのような建物が並んでいるが、ほとんどが学生だ。寮に住んでいる学生は、この学校の七割から八割と聞いている。寮というか、下宿かな。
しかし、この都市は太陽や水力、風力で発電された、いわゆるクリーンな電気を基に役十分に一度電車がそれぞれの駅に止まる。なので、交通で不便なことは無い。
ここはまさに、今の最先端の町といっても言いぐらいだ。
「休日の電車は、六時半からか。そろそろいいか」
電車は訳三十分で一周する。大体山手線の半分くらいだが、もちろん電気で走っているので、あまり速く走れるわけではないので、それよりは大きくない。が、この都市だけでかなり大きいことが分かるだろう。
「朝だし、大体のところは空いているだろうな」
所川区。昔は大きな駅で駅前もにぎやかだったらしい。今も十分にぎやかだが、多くの有名店が並んでいるからだ。大型店ひしめく、そんな中でも、学園都市唯一のデパート施設がある。そこに行けば、安く何でもそろう。それぐらい大きい。地下一階と地下駐車場。上は四階。地方の駅前なんかのショッピングモールなんかと比べれば比になんてならない。
「足りないものは何かな?」
俺はそう呟きながら、頭の中で必要なリストを起こし、そのまま電車を降りた。
三年ここに住んでいる俺でもまだ迷いそうになるぐらい、そんな迷路のような所川区のいたるところに看板が設置されている。駅のホームから多少デパートは離れているので、といっても数百メートルだが、その間で迷う一年生はちらほらといる。
俺は、デパートのほうへと歩く。もしかしたら、今日はすべて運命に沿って動いていたのかも知れない。
2.
デパートに入る前に、その前に並んでいる出店……というか、なんと言うか。フードコートのように並んでいるさまざまな店を見ていた。アクセサリーや、もちろん食べ物も売っている。デパートとあわせて、本当にそろわないものは何もないだろう。
「さて……そっか客用の食器買わなきゃならないか。何でこう、三年目で初めて客人が来ちゃうかな?」
多分、後二年全然使わないだろう無駄なものだが、もしもう一度こんなことがあったら、それはそれで大変だ。大は小を兼ねるというか、備えあれば憂いなしだ。
安物で、それでいていかにも客人に出すような少し高いように見える皿なんて便利な物品は無いだろうか。出店を探る。
三軒目に訪れた店に、ちょうどよさそうなコップとお皿がどっちも低価格で売っていた。
「こんなんでいいか。意外に重いな。買い物の後にすればよかった」
後悔を口に出し、俺は適当に店を回った。買いはしないが、以外に面白い物品が数多く展示されている。見ているだけでものすごく楽しく感じる。
そんな時、俺に話しかけるある少女が一人。
「あの、すいません。今、忙しいですか?」
とても綺麗だった。幻想的で、そこにいないような存在にすら思えた。ただ、こんな暑いのに冬から春にかけたちょっとした厚着をしていた。
「いや、全然。……何か用でしょうか?」
「いえ、すいません。ここら辺全然詳しくないんで案内してくれる人を探してるんですけど。話しかけても誰も誰も反応しなくて、この辺怖いところだな、なんて思ってたところなんですよ」
この子に話しかけられて断る人がいるのだろうか? 女ならまだしも男なら二度見するような可愛さだと思うけどな。つまりあれか、そういう口実と共に俺に近づいてくる逆ナンか、それとも美人局か。うぅん、圧倒的後者の可能性が高い。が、俺の答えは肯定を示すものだった。
「別に良いですよ。行きたいところ言ってもらえば」
「本当ですか! ありがとうございます!」
偽りのなさそうな、その無垢の笑顔を見てると、この選択が正しかったのかと思えた。
「とりあえずどこ行きたいんですか?」
俺は彼女に聞く。彼女は「デパートで目的の商品をとりあえず集めたいんですよ」と答える。俺は彼女を連れて目の前のデパートへと行く。
「なんか大変そうですね、どうしてここ来たんですか?」
「この町一番の繁華街って聞いたもので。でも私方向音痴だったりドジ踏んだりするんでいつもは妹と来るんですけどね。たまたまこれなくて、一人で回ることになっちゃって」
「あなたもここの学生なんですか? 鹿波の」
「あぁ、ごめんなさい私の名前は、日下 春香です。すいません、名乗らなくて」
「いえいえ、俺も名乗ってないし。俺は小阪 夏樹っていいます。で、ここの生徒なんですか?」
「そうですよ、四年生ですけど」
「一個上ですか。妹さんも?」
「妹は二年生です」
他愛の無い自己紹介のようなものを終え、俺はエレベーターホールへとたどり着いた。
「まずどこ行きますか?」
「いきなりで悪いですけど洋服売り場へ案内してもらっても良いですか? 別に私はイメージしてる女の人より服選ぶ時間は少ないですから待たなくても良いですよ」
俺の案内が無ければ本当に迷ってしまうのか、熱弁をふるう彼女の姿に少し笑いそうになった。
「いや、どうせ暇ですしいつまでも待ちますよ」
「そういってくれると助かるけど、さすがに長い間待たせませんよ。というか勝手にどこかへ行ってもらっても構わないですけどね!」
「……帰れます?」
「自信はないです……」
「なら着いてきますよ」
もし彼女が美人局のような人だったら俺なんて恰好のカモだろう。が、彼女がそんなことをするように思えないと俺は思っている。会ってすぐの人だけど、なぜかそう思えた。
3.
「お待たせしました」
俺は彼女の分のキャラメルマキアートを渡す。それと一緒にお金をもらう。
「すいません。一緒についてきて欲しいなんてだけでも迷惑な頼みなのに、お買い物させてしまうなんて……」
「いや別に全然構わないっすよ。むしろ経験したことの無いデート気分味わってる俺がいますよ」
言い切った瞬間に冷静になった俺もいた。なんてことを口走ってるんだよ。だが、彼女は彼女で「え、い、いやデートだなんて」と顔を真っ赤にしてる。
俺は、冷たいストレートティーを買った。一口飲むときりりとした冷えが口を潤す。
「はぁ、デパートの買い物もこれで終わりですね」
買い物の時間は、女性にしてはかなり短かった。女性にしては、といってもそれについては経験が無い俺にはただのイメージでしかないが。それでも何軒か回ったがすぐに買い物を終わらせてきた。
「最後に、もう一つだけ行きたい所があるんです。デパートの外の出店なんですけどね。すいませんが、大体の場所しか覚えてないので一緒に探してもらっても良いですか?」
「ここまできたら断るわけには行きませんしね。俺はどうせ暇なんで、ついていきますよ」
残りのストレートティーを一気に飲み干しゴミ箱に入れる。そして、デパートの外へと抜け出した。溶けるような太陽を浴びて、一瞬くら付くほどだった。彼女は暑くないのだろうか。
「どんなところなんですか? 目的の場所って?」
「ペンダントを作ってくれるところらしいんだけど、前来た時はあいにく時間が無かったから作れなかったの。綺麗らしいから一度は作ってみたかったんだ。あ、あれだよ!」
彼女が指差した先には、周りの喧騒から少し遠のいた落ち着いた雰囲気の店があった。彼女は「早速行きましょ!」って走り出す。俺も続く。
「いらっしゃい。今日は何しに?」
「ペンダントが作れると聞いたもんですから」
「あぁ、はい。ペンダントを作るのには時間がかかりますがよろしいでしょうか?」
「えぇ、構いません」
「では、この用紙に必要事項を書いて、もう一度お声がけください」
店主のような人は紙とペンを渡してきた。
「すいません用紙をもう一枚ください」
俺もそのペンダントに興味が湧いた。用紙を受け取ると、俺は近くのいすに座る。彼女も後に続く。
「えっと、お名前……あれ? このペンかけないや」
何度書いても線は描かれない。
「じゃあ、このペン使って」
彼女は水色のペンを差し出す。
「あ、ありがと」
好きな色……か。水色。深い、暗い、そんな青じゃなくて。海のような、そんな神秘的な美しい青。俺は好きだった。
「ん? 日下さんも水色好きなんですか。まぁペンの色もそうですもんね」
「ということは、あなたも? なんだかおそろいになりますね」
「まぁ、ここであったも何かの縁程度に思っておけば、ちょっとした思い出にはなりますね」
俺は店主に二枚用紙を差し出す。
「はい承りました。時間はかかりますが、その間好きなところへ行ってもらって構いません。時間になったと思ったらまたこちらへとお越しください」
「分かりました。お願いします」
俺は右手で彼女から借りた水色のペンでペン回しをする。そのまま席へ戻る。そこに日下さんの姿は無かった。そのペンは、地面へと落ちていった。大量の買い物袋も、彼女のバッグも、彼女も、すべて消えていた。ただ消えなかったのは、ここに落ちた水色のペンだけだった。
4.
水色のペンと、水色のネックレス。二つを交互に比べる。夏の文字が描かれた俺のネックレスに、春の字が描かれた日下さんのネックレス。あれから、彼女は戻ってこなかった。何だったんだろうか。俺はあれこれ頭を悩ませながら、電車から降りる。自宅最寄駅から一つ前の駅だ。歩きたかった。純粋に歩きたかっただけだ。歩いて、考える時間が欲しかった。
太陽の下、歩いてるだけなのに吹き出る汗を拭う。不思議だったのは。あれだけ厚着だったのに、汗一つかいてない彼女の姿だ。しかし、そういう体質だというのなら、それはそれで納得できる。
今、俺の中で葛藤が起きている。
あの可憐な彼女は存在しているんだ。そう俺の心は叫ぶ。
空虚な存在に淡い思いを抱くな。そう俺の心は叫ぶ。
彼女に恋心すら抱いている俺は、彼女の存在を認めたくて、認めたくなくて。
そうだ、彼女はここの学校の生徒だ。明後日にでも聞けるはずだろう。妹もいるといった。
しかし、当初の予想通り美人局のような存在だったら? いや、ずっと買い物に付き合ってそんなことは無いだろう。いくら彼女が消えたからといって俺から盗まれたものは何も無い。その可能性は低い。低いと信じたい。
いつの間にか下宿のドアの前に立っている俺は、現実へと引き戻される。そうだ、今までこういう経験が無かった俺は、その妄想にとらわれている。いつの間にか、そんな考えに行き着いていた。しかし妄想なら、何で俺の手には、水色のペンと、水色のネックレスがあるんだ。
とりあえずペンとネックレスを含め、買ってきたものを机の上におく。今日見てきた彼女の姿を勝手に思い浮かべていた。節操の無いやつだな、つくづく思ってる。
ただただボーっとしながら考えるだけで時間は過ぎていく。時計の長針が約半周したころ、やっと現実へと振り返ることが出来た。というよりかは、腹時計の鳴る音が現実へと連れ戻したのだ。
「何食おうか……」
彼女と話してる最中、彼女はカルボナーラが好きだといっていた。もちろん狙ってだが食材はある。作ってみるか。
初めて作るレシピなのでスマホで検索したレシピと睨めっこしながら料理を作っていく。完成したそれは、不恰好ながらも美味しそうだった。
俺が行った所川の駅前には、確かカルボナーラが評判のスパゲッティーのお店があった気がするな。半年ぐらい前なんかあって改装工事をして、最近また開きなおしたんだって聞いたな。うわさだけは蓄積されてるが、残念ながら行動力の無い俺はそれを確かめる術も、やる気も持ち合わせてなかった。だが、今なら行っていいかもしれない。
「いただきます」
一言呟くように発して食べ始める。意外に美味しく出来ていた。というか、初めてにしては十分満足な味だ。
「駅前のそこに行ってプロの味を食べてみたい気もするかもな」
俺は庶民はでも十分楽しめるけど。
そういえば、何で改装工事したんだっけか……。そういえば、バスが倒れてきたんだっけ。そんで亡くなった人が一人。けが人はいないとか言う話だったか。当時は身近で事故が起こるなんて思ってもいなかったから、すげぇぞわぞわする話だったな。亡くなった人は、うちの生徒だったらしいが……。
「……ん、ちょっと待て?」
俺はスマホでブラウザを立ち上げ、三年間のタイピングの集大成を迎えるような速度で「鹿波 トラック 死亡事故」と打ち込む。最近、個人情報がなんたらかんたらといわれる時代だが、亡くなった人の名前は書かれる。そう、その事故で亡くなった人の名前は
「日下・・・・・・春香」
そう、半年前の死亡事故で亡くなった人と、俺は今日一日を過ごしていたのだ。
「思い出した。妹が、俺と同じ部活だったな。その後一ヶ月しないでやめたから覚えないけど……」
俺は明日の予定を変更して、国民の祝日に、このネックレスを彼女へ届けに行くことにした。
5.
海の日。ここの近くには海がないので少し足を伸ばさなければ海まではいけない。といっても電車で乗り換え一回ぐらいだ。
俺は町外れの、この学園都市唯一の墓地へと来ていた。ここに、日下さんが眠っていると思ったからだ。特に理由は無い。学園都市唯一の墓地であるから、ただそれだけだ。
ある程度小規模な墓地だが、ここら辺一体で唯一の墓地だけあってさすがに数が多かった。俺は、ネックレスを握り締めながら日下の苗字を探す。炎天下の中、降り注ぐ太陽をすべて汗に変えて歩き回る。
「あ、日下」
十数分で見つかった。名前には「春香」と書かれていた。ここで間違いない。生き生きとした花が添えられていて、灰と化した線香がまだ風に散らず残っていた。
「花を持ってくるの忘れたよ……悪いな、こういうことには疎いから」
誰に謝るのかもわからず、お墓の前でただ昨日のことを軽く反芻しながら線香に火をつける。おばあちゃんちのにおいを思い出した。こんなにおいだったな。あれは、線香のにおいだったのか。
「これが、人の命のにおいなのかな」
線香をおくであろう場所に火のついた線香をおく。そして両手を合わせて昨日の出来事に感謝した。たった一日だったけど、幻想的な現実を生きていけたから。ありがとう、日下さん。
俺はネックレスをお墓に置こうと思った。その瞬間、何か難しい表情をしている少女が一人ぽつんと立っていた。かすかに、日下さんの面影が垣間見える。
「……誰ですか?」
「うん……その質問非常に答えづらいな」
真面目に答えても頭がおかしいと捉えられるし、嘘をつこうと思ってもまともな嘘が思いつかない。
「お姉ちゃんの、何なんですか?」
「……日下さんの妹? 夏香さんって言ったっけか。一年前一ヶ月程度しかいなかったから覚えてないんだ」
そこまで言うと、彼女はかすかに驚いたように、思い出したように、そんな顔をした。
「先輩……がどうしてここに?」
「信じてもらえるかどうか分からないけど、昨日君のお姉ちゃんに会った」
一瞬呆れ顔になった彼女だった。そりゃそうだ。
「自分が何言ってるかわかってますか?」
「俺だって全部知った上でここに来てるんだ。さすがに馬鹿じゃない」
「馬鹿じゃないなら、昨日おねえちゃんに会ったなんて名文句思いつきませんよ。毎日私がここに来てるって知って適当な口実作って私にでも会いに来たんですか?」
ちょっとムカッとした発言だった。
「大した自信だよ。ってかそんなんならもっとましな冗談を作るし。君のお姉ちゃんは君とは違ってやさしい感じがしたんだが」
「……すいませんね、お姉ちゃんと違って」
シュンとしてしまった。ちょっと言い過ぎたか。
「ほら、これが証拠。水色のペン彼女から受け取った。いや、正確に言えば受け取ったわけじゃないけど。彼女は水色が好きだといっていたし、このネックレスは彼女が欲しいといったもんだ」
ペンとネックレスを彼女の目の前に差し出す。とたんに彼女の目の色が変わる。
「ど、どうして……この水色のペン、私の……半年前、お姉ちゃんに渡したまんま帰ってこなかった」
「……そんなの分かるの?」
「水色は、私もお姉ちゃんも好きな色で、お互いこのボールペンを使っていたから、区別できるようにって、二箇所にシールを貼ったんです」
確かに、よく見るとシールらしきものが貼られている。
「なんで、どうして!」
彼女は軽く錯乱している。そりゃそうだ。死んだ人が持っていたものが、俺の手にあるんだから。普通なら俺はかなりの変人だと思われていいだろう。
「信じてもらえなくていい。昨日日下春香と名乗る女の人から一緒に買い物に付き合って欲しいと頼まれて付き合ったんだ。そしてこのペンダントを買う店で彼女は消えた。そのボールペンを残して」
「ペンダントも、ペンダントは、あぁ!」
冷静さを完全に失い、彼女は虚ろ気な目で何かを呟いてる。
「落ち着いてくれないか?」
「ご、ごめんなさい」
彼女は黙って墓の花を持っている花に変えた。そしてこちらを振り返る。
「話は、私の家に来てから詳しくお聞きしてもいいですか?」
「え? あぁ、別に構わないけど」
目的がどうであれ、平然を装ってるだけで精一杯だった。女性の家に、しかも向こうから誘われることなんてもはや人生で一度も無かっただろうと思っていたからだ。何だろう、不思議な感覚だよ。
6.
リビングのソファーのようなものに座らせる。そして彼女は麦茶のようなものとコップを持ってきた。
「その、あの……いきなり家に来てなんて迷惑でしたか?」
「いや全然」
むしろうれしいという言葉は飲み込んだ。
「その、なんか迷惑なこと言ってすみません」
やっぱり姉妹なのか。この子もものすごく優しい子だった。
「いや別に気にしてないし。むしろさ、いきなりあんなこと言われて驚かない方がおかしいと思う」
彼女は俺の目の前に座る。
「どうぞ」
麦茶を前に差し出す。俺は緊張でのどが渇いていたため、とてもうれしかった。
「ネックレス、見せてもらえますか?」
「うん、いいよ」
俺はペンダントを二つとも渡した。
「この春はお姉ちゃんので、この夏は……私の?」
「いや、俺も綺麗だからって一緒に作ってもらったんだ。夏樹って名前だからさ」
「あ、そうなんですか」
空返事をしながらぼーっとネックレスを見ている。その目は、うらやむ気持ちと、懐かしむ気持ちと、憐れむ気持ちが混じっていた。
「お姉ちゃん、私のこと何か言ってましたか?」
「特に何もいってなかったな。方向音痴だからいつも妹と来てるぐらいか」
「確かに、お姉ちゃんすごい方向音痴ですよ。学校から帰る道で一年も同じ道通ってるのに時々迷っちゃうぐらい」
ほほえみを浮かべる彼女。こっちもつられて笑う。
「楽しそうなお姉ちゃんじゃないか」
「楽しかったですよ。本当に」
笑みがだんだんと消え、その表情は暗く、つらいものに変わっていった。
「悪い……なんか思い出させたようでさ」
「いえ、悪いのはお姉ちゃんですから。他人に迷惑かけて、私だってこんな悲しいのに」
顔を見上げる彼女の表情は、涙に輝く笑顔を取り戻していた。
彼女を見ると、第一印象の姉への思いが強いというのは、現実であろう。毎日お墓参りに行って、姉のことを思い出して一喜一憂する。とても強い姉妹愛ってやつか。
「うらやましいなぁ……」
「え?」
思わず口に出していた。
「いや、仲がいい姉妹だなって。一人っこだったし親とも仲良くなかったからさ」
「よく言われましたよ」
ほほえみながら彼女がつぶやくその『過去形』が僕の胸にさっきから非常に刺さる。そう、現在形では表せない。今はこの世界にいない。過去に葬られたこの子の姉。それを思うだけですごく悲しい。それ以上にこの子は悲しいはずなのに。
「お姉ちゃんは、私のせいで亡くなったんです」
唐突に彼女は話し出す。相槌を打てる間もなく彼女は続けていく。
「私が、このペンダントが欲しいって言って、そして昼食を食べたところで私はお姉ちゃんを待たせて、そこで、そこへバスが!」
あの時のことを思い出してるのか、彼女は半ば狂乱気味になる。
「それは結果論だ。その時に待たせておかなきゃいけない理由もあったんだろ?」
彼女は涙にぬれた目をかすかにこちらへ向け、コクッと頷いた。
「所詮、私のせいなんです。お姉ちゃんを連れて来たら迷って足手まといになるからって。あんなこと言わなければ! 待っててなんてて言わなければ!」
「頼むから落ち着いてくれ……」
俺は、何をすべきか、何をすればいいのか、まったくわからないまま懇願するようにつぶやいてた。
「じゃあ! どうすればいいんですか! どうすれば……」
彼女は俺に近づく。
「過去を悔いるのも、未来を見据えるのも、自分の責任だよ」
意味不明な言葉の羅列。問題解決にはならないが、俺は冷静を装いながらやっとのことでつぶやいたセリフだった。
「私は……どうすれば……」
彼女はいきなり俺に抱き着く。いきなりすぎて俺も何をすべきかわからなかった。特に、女の子に関して俺の過去にこんな経験はあるはずもなかったので何をすべき迷う余地すら与えられなかった。
「お姉ちゃんの分まで生きるのが、残った人の責任だろ。自分のせいだと思うなら、お姉ちゃんから許してもらえるまで精一杯生きるのが務めでしょ」
なんというか、この前読んだなんかの小説――たしか刑務所の話――に書かれていた気がする一文だ。だが、彼女を説得するなら、この言葉が一番いいのかもしれない。
「お姉ちゃん……」
嗚咽と、その涙は次第に収まっていった。彼女の息遣いはだんだんと寝息へと移り変わっていった。
「泣き疲れたのかな? ごめん、俺のせいかもな……」
彼女に聞こえるか聞こえないか、しょうもないつぶやきを残す。彼女をソファーの上に寝転がす。その寝顔は、涙の後と、微かな笑顔で飾られていた。
「それより腹減ったな。そうだ、昨日成功したし、お姉ちゃんの思い出の品だと思うし、カルボナーラ作るか」
俺は買い物へと出かけた。
7.
買い物から帰っても、彼女はいまだにソファーの上で静かに寝息を立てていた。とりあえず昨日使った分の二倍程度、言うなら最低限の量を買ってきた。
あまり手際はよくないが、一度作ってる分、昨日よりもうまくできた。調理時間は何分ぐらいだろうか。十分……それぐらいか。割と見た目は美味そうにできた。
「今思ったけど、人の家のキッチン勝手に使っちゃったな……」
罪悪感と恥を感じる。彼女が起きるまでに急いで使用した器具を洗う。しかし、流れる水の音や、食器と何かが当たる微かな音で寝ていた彼女は起きてしまった。料理中は眠りが深かったのが幸いだろう。
「え、ごめん、寝てたの?」
「うん。勝手に離れるのも悪いし、かといっておなか減ったし、勝手に借りちゃったけど大丈夫だった?」
「はい……何作ったんですか?」
「君のお姉ちゃんが好きだって言ってたカルボナーラ」
「そんなことも言ってたんですか。お姉ちゃんが、最後に食べたのもカルボナーラなんですよ」
今度は優しく囁くように、懐かしさのあまり微笑むように、そう話す。
「そうか……悪いな」
「いえ、私も大好きですし、せっかく作ってもらったんですから、食べなきゃいけませんよ」
「よかった、勝手にキッチン使っちゃったし、怒られると思ったけど」
俺は二人分のカルボナーラを机に運ぶ。その間に彼女はコップと麦茶を用意していた。
「いただきます」
静かに食事は始まった。特に何も話題がなく、むしろ気まずいような雰囲気の中、カチャカチャと金属が触れる音のみが響く室内。もしも、昨日死んだはずの彼女にあってなかった、今日も寂しく一人で何かを食べていただろう今の時間。いったい、何のために彼女は現れたのか。まったくと言っていいほどわからない。
「そういや、俺が君のお姉ちゃんに会ったことはもう疑ってないの?」
「疑うも何も、これだけ証拠があれば疑う余地もないですよ。水色のあのペン見たときから信じてますし」
「そっか、最初あれだけきつく当たられると、やっぱり心配でさ」
彼女は顔を少し赤らめながら「わ、忘れてくださいよ」と言ってる。あの時のことは恥なのか、やっぱり。二人そろって根はとっても優しい姉妹だよ、本当に。
「お姉ちゃんは、そういえば何買ったんですか?」
「何かは聞いてないけど、服とか、日用品っていうか、100円ショップで何かとか。想像以上に選ぶのが速くて待ち時間なんて存在しなかったってのが一番の感想かな。女子って長いイメージがあるから」
「それは人それぞれじゃないですかね。お姉ちゃん、珍しいですね。服なんてめったに買わないし、私が着なくなったの、って言っても私もそんなに服買いませんけど、私の服をお姉ちゃん着てるぐらいですし」
「天国にかなりのイケメンがいたのかもね」
「お姉ちゃん、モテるのに、男っ気はなかったですけどね……急に色気でも持ったんですかね」
二人で笑う。俺は結構不謹慎なことを言ってしまった気がするが、彼女が笑って過ごしているなら、良しとしよう。
「ふぅ、食べた食べた。お粗末さまでしたっと」
「ご馳走様でした。すごくおいしかったですよ!」
「おぉ、本当か。俺の口にはあってもほかの人に合わなかったらどうしようかと」
「心配性ですね。大丈夫ですよ、人生なんて思ったよりプラスなんですよ」
「そっか」
深い意味は、受け取ろうとは思わなかった。
「……明日も、また、お墓に一緒に来てもらえますか。学校が終わったら。おねえちゃんも喜びますよ」
「君が良ければ、俺は喜んでだよ」
一言の別れを告げた後の空は、輝きに満ちていた。
8.
「私の妹はどうですか?」
「春香さんに似て優しいっすよ。でもまぁ、すごい落ち着いてますけど」
「なんか私がはしゃぎすぎって風に聞こえるんだけど」
「違う気もしないですけどね」
「あぁあ、でも妹にこんないい人とられちゃったら、こんなの死んでも死にきれないなぁー」
「比喩じゃないところが、俺にはいまだに驚きですけどね……」
「そろそろ天国からあなたたちを見守ることにするよ」
「化けて出るのはやめてくださいね」
彼女は消える。その直後、夏香が来る。
「先輩待ちました?」
「姉ちゃんと話してた」
「先輩ずるいですよー。私も話したいなぁ」
そう夏香が言うと、突如現れる春香さん。
「私が見えればいいんだけどね」
「今目の前にいるよ」
「……いるんだ、お姉ちゃん」
「私からこんないい人とったんだから、せめていい人生送らないと私怒っちゃうからね」
「お姉ちゃん何か言ってますか?」
「いい人生おくれよってさ」
「当り前ですよ。お姉ちゃんの分まで」
4年生の夏。あの日から一年たったんだ。そう思うと早いな。不思議な出来事が起きて、こんな彼女ができて、人生って面白いな。
「お姉ちゃんなんてほっておいて行きましょ! せっかくの休みを楽しまなきゃ!」
「あぁ、待ってよー。って、私みたいな邪魔者はここら辺で退散しますよ」
ありがとう。ありがとうな、二人とも。