ニンゲンセラピー! 〜未亡竜、人間を飼う〜
千年前。一体の偉大なる竜が、その永い生に幕を下ろした。その竜は世界が始まったその瞬間に誕生し、創造主に仕えてきた。天と地を切り開き、海を創り、生命が息づく世界を創りし偉大なる竜。番いを作り、妻を愛し、子を成した。家族とともに力を振るい、世界に貢献してきた。
そして──妻や子を残し、彼は逝った。
偉大なる竜の死に、世界は泣いた。世界中で雨が降り、風は荒れ狂い、山は噴火し、大地は震えた。やがてそれら天変地異は沈静化したが、偉大なる竜を知る多くの存在は数百年もの間喪に服した。
千年が経ち、多くのものは悲しみを癒し立ち直る。彼の者が築き上げた世界を、守ってきた尊い生命を、その仕事を、今度は我らが引き継ぐのだと奮起した。
世界は廻る。一体の偉大な存在が失われても、それで潰えるような柔な世界ではない。そんな世界にならないように、偉大な存在が尽力してきた結果なのだ。それを受け継いだ子たち、仲間、あるいは敵がまた世界を廻す。それが世界の摂理である。
──しかし、まだ立ち直れていない者がいた。
その者は今だ悲しみに暮れている。喪に服している。泣いて泣いて泣き果てて、涙が枯れ果てても泣いている。誰もその悲しみを想像することはできない。けれど、察することはできる。もしかすれば残りの生涯を泣いて過ごすのではないか──そう察してしまうほどの悲しみ。
人間はおろか、動植物すら寄り付かぬ世界の果て。世界が出来てから何も立ち入っていない。そう思わせるような秘境。名も無い山脈。しかし、その場所を見れば誰もが想像してしまう、名付けてしまうであろう、不思議と痛々しい景色。
──世界の傷。
誰もがそう呼んでしまう。ズタズタの大地、引き裂かれた山々。血化粧のような赤黒い岩肌。そして刺し傷のような谷の底。
そこに、一体の竜がいた。
その竜こそ、彼女こそ、偉大なる竜の番いであった雌竜──アルテミシアである。
眠っているように見える。いや、それどころか生きているようにも見えない。全身は年老いた象のように皺くちゃで、くすんだ鈍色と黴びたような緑色が中途半端に混ざったような色をしている。羽であろう骨格にはゴミのような皮膜の名残がぶら下がっている。瞑った瞼の周囲は泣き腫らしすぎて、無惨な傷跡になっていた。
それでも、その竜は生きていた。それどころか、千年前から一度も眠っていない。今この瞬間も泣き続けているのだ。この竜──アルテミシアは夫を亡くしてからずっと泣いている。泣いていること以外のことをしていない。彼女が泣いているだけで、世界は泣いた。全世界を覆った天変地異は全てこの竜が泣いたことにより──泣いただけのことで起こったのだ。世界を創る竜の番いならば、世界を壊す竜が相応しいだろう。世界を壊せる竜の悲しみが、世界を壊しかけたというだけのことだった。
そしてそれは終わろうとしている。単純に力尽きようとしている。泣き疲れて眠りに落ち、目覚めればまた泣くだろう。そしてその時、今度こそ世界は壊れるかもしれない。
それを防ごうとしているものがいた。悲しみで世界諸共自らを滅ぼそうとする彼女を、救おうとする者がいた。
その者こそは賢竜リディア。アルテミシアの実妹である。
◆ ◆ ◆
『相変わらずね……』
姉が居る谷の上空、リディアは飛びながら呟いた。数百年前からちょくちょく様子を見に来ているリディアだったが、その景色の変わりなさに、姉の変わりように、思うところがあるようだった。
やがて、細心の注意を払いながら、ゆっくりと降下する。下手に降りればアルテミシアを刺激し、また泣かせてしまうだろう。些細なことで夫を思い出し、泣く材料にしてしまうのだ。いや、夫を思い出していない時なんてないのだが、せっかく消化した思い出をまた表に出すこともないだろう。
『姉さん、私よ。リディアよ。また様子を見に来たわ』
それを聞いて泣くアルテミシア。いつものことだとため息をつくリディア。そしてゆっくりと近づいて、背中を撫でる。慰めるように、あやすように。それと同時に、ゆるゆると力を流し込む。
リディアの体が淡く光り、やがてアルテミシアの体も輝き始めた。朽ち果てた皮膚は徐々に瑞々しさを取り戻して行く。涙の痕は薄れ、ひび割れた爪も癒されて行く。千切れた皮膜は再生し、妖精のような美しさを取り戻す。砕けた鱗も戻り、新雪のような輝きを取り戻していく。その代わりにリディアの鱗はくすみ、やせ細っていく。姉の状態を見て力を流し込むのをやめると、くったりと俯いてぜいぜいと息を切らした。
『……ありがとう。ごめんなさいねリディア……』
『何てことないわよ。それに、同じメスとして姉さんの姿は見ていられなかっただけ。気にしないでいいわ』
それもあったが、リディアがこうして姉を度々訪ね、力を分けて癒そうとするのは、姉が力尽きるのを少しでも遅らせようとする狙いもあった。だが、それも限界に近づいていることも分かっている。力が枯れ果てる間隔が徐々に短くなっているのだ。いずれ破綻するだろう。
だから、その前にアルテミシアの悲しみを少しでも軽くしないといけない。
リディアの計算ではあと百年持つかどうかというところだ。これまでに数々の案を試したが、一時的な誤魔化しに過ぎなかった。子供達が訪ねてきたこともあったが論外である。彼らの姿に残る夫の面影を見て、ますます悲しみに暮れたのだった。それでも多少の慰みになってはいたが。
困り果てたリディアは親戚を訪ね歩き、未亡竜の悲しみを癒す何かはないかと尋ねた。ある者は新たな夫を迎えればいいと言ったが、アルテミシアは生涯夫一筋と誓っている。共に死ななかっただけでも奇跡なのだ。ある者は親元で家族と共に過ごせば良いと言ったが、今のアルテミシアに近づくのはかなり危険なのである。アルテミシアに次ぐ力を持つリディアだからこそこの場に居ることができるが、そうでなければアルテミシアの悲しみに巻き込まれ、精神を悲しみで塗りつぶされるか、荒れ狂う力に吹き飛ばされるかしてしまうだろう。そしてある者は……少々破廉恥な案だったので却下した。あと案を出した者はリディア直々にシメた。
悩み苦しむリディアに、ある未亡竜はある案を告げた。リディアはかなり半信半疑だったが、実際に立ち直ったという未亡竜を前に否定する言葉を持たなかった。
──その案とは、ずばり『ペットを飼う』ことである。
竜がペットを飼うというのは、珍しいというほどではないがそれほど一般的でもない。竜は基本的に巨体のため、傍に置けるような生物が限られているというのもある。爪先程度しかない大きさの生き物を飼うために、常に結界を張っているような変わり者もいるといえばいるが。
さて、姉に贈るならどんな生き物がいいだろうと思案するリディア。人気なのはフェンリル狼である。躾ければよく懐き、忠実なしもべになってくれる。育て方を間違えると飼い主の手を食い千切ったり、それどころか飼い主を食べようとするので注意が必要だが。
姉に似合う血統書付きのフェンリル狼を選ぼうと、張り切るリディア。しかし、思案する。下手に立派なペットを贈り、それを万が一死なせた場合、ますます悲しむのでないだろうかと。いや、どんなにチンケなペットでも、心優しい姉なら悲しむだろうと再び悩み始める。
そうこうして悩んでいるうちに姉を訪ねる日が来てしまい、慌てて出発する。山を越え、谷を越え、再び山を越える──その時、見慣れない生き物を見かけた。一見猿のようであるが、他の動物にはないような様々な特徴が見て取れる。賢竜と呼ばれるリディアは勿論竜の中では賢い方なのだが、ここ千年は姉の世話と一つの研究に打ち込んでばかりいたので、その間に発生した動植物については疎かったのだ。その生き物に興味を覚え、力を使って異空間に捕獲する。
さて一旦戻るべきかと考えて、リディアはふと思う。実験と称して姉に預けてみるのはどうだろうかと。
その後姉を訪ね、力を分け与え、小休止を取ったのちにリディアは口を開いた。
『姉さん、ちょっと相談があるんだけれど……』
『まぁ、珍しい……あなたにならともかく、あなたが相談しに来てくれるなんて……嬉しいわ』
こんななんでもない会話でも涙声である。かなり気を使いながら話を進めようとするリディア。
『ここに来る途中で珍しい猿を拾ったのよ。折角だから観察したいのだけれど……生憎今は別の研究をいくつか進めていて手が空いていないの。また捕獲できるかどうか分からないし、かと言ってずっと閉じ込めておくわけにもいかないし。それで、姉さんにしばらく預かってもらいたいのよ』
嘘である。今している研究は一つしかないし、観察程度ならリディアの巣でも可能である。しかし姉に仕事を与え、少しでも悲しみを忘れさせようという思いやりであった。更に説明を始め、死んだら死んだで構わないと前置きをし、死んだ場合はこんなところに連れてきたリディアが悪いのだ、と言い含めた。万が一のために責任感や悲しみを軽減させるための言い分だが、実際リディアはそう思っている。これは結構な賭けになるかもしれない。胸の内でリディアは苦笑した。
『そう……今の私にでもできることなら、構わないわ』
『まあ猿が食べそうな基本的な食料や寝床になる藁は置いて行くし、結界で逃げないようにしておくから、姉さんは見ているだけでいいわ。様子を見に来る頻度を増やすから、何か気が付いたことがあったら教えてちょうだい』
『ええ、分かったわ』
『うん、ありがとう。それじゃあよろしくね、姉さん』
『ええ……こちらこそ、ね』
あ、これはこちらの思惑がばれているなとリディアは思った。とはいえ、あからさま過ぎたということもあるが。
そしてここ数十年のことを肴に雑談して姉妹の絆を深めた後、最後に飼育セットと捕まえてきた猿を異空間からぺいっと吐き出して、リディアは去って行った。
その後ろ姿を眺めながら、アルテミシアは思う。この千年、世界に対して色々な迷惑をかけ、妹に気を使わせている。自分でも分かってはいるのだ。いつまでも悲しんではいけないと。それでも、張り裂けそうな悲しみに、身を裂かれそうな哀しみに、耐えることはできなかった。
しかしもう千年経った。いつまでも甘えてはいられない。妹はこうして、自分で研究したいであろう生き物を託してくれたのだ。他でもないこのアルテミシアに。それならば、責任を持って飼うのが務め。猿一匹飼えないなんてことになったら、亡き夫に笑われるだろう。そう思った瞬間に悲しみがずしりと来たが、涙目になっただけで堪える。やれば出来るじゃないかと自らを鼻で笑い、悲しみを抑える。
やがて、アルテミシアはケージ替わりの結界に入れられた猿に目を向けて、優しく微笑んだ。猿は元気良く跳ね回っている。
『これからよろしくね、お猿さん』
「畜生! 俺を喰う気なのか!? ここから出せ! 何のつもりだーッ!!」
『あらあら、すごく鳴いているわ。お腹が空いたのかしら?』
ちなみにその猿はこの千年で文明を急激に発達させ、近くの土地まで進出してきたニンゲンという生き物なのだが、引きこもってばかりいる竜の姉妹は勿論その存在を知らなかった。
◆ ◆ ◆
一年後。リディアは約束通り様子を見にやって来た。姉が以前ほど悲しみに囚われていないことに安堵した。爪先ほどに小さな猿とはいえ、姉の悲しみを多少なりとも癒せたようだ。
「ひいいいい! も、もう一匹のドラゴン……!?」
リディアがアルテミシアの傍に着陸すると、びくりと猿は飛び上がり、震えた。
『あら、いらっしゃいリディア。今日もポチは元気よ』
『お邪魔するわ姉さん。それと……ポチっていうのはその子の名前?』
『ええ、少しは愛着が湧くかと思って……初めてペットを飼ったけど、いいものね』
『まぁ、それは良かったわ。それじゃあこの一年で気が付いたことを教えてもらえる?』
『いいわよ。それじゃあねえ……』
話し込む竜達の側で、ポチと名付けられたニンゲンはリディアを眺めて何かを思い出そうとしていた。
「ま、待てよ……? あいつは見覚えがある……俺を攫ったドラゴン!?」
ポチは激怒した。必ず、かの暴虐非道の竜を討たなければならぬと決意した。ポチには竜の言葉がわからぬ。ポチは旅の冒険者である。剣を振るい、魔物を討伐して暮らして来た。それゆえ隙に対しては、人一倍に敏感であった。
雄々、と雄叫びをあげながら、石を研いで作ったナイフを振るい竜へ突進する。竜はすっかり油断していて結界内に足を踏み入れている。今が好機! 竜の指へナイフが走る。何度も何度も刃を突き立てる。どうだ。ニンゲンを無礼るな! ポチは咆哮した。
『あら、くすぐったいわね。何をしているのかしら』
『それがね……結界内にいると時々こうして突っついてくるのよ。ふと目を開けると目の前にいたりしてね。きっと汚れを取ってくれていたんだと思うの』
『ふーん、猿には仲間同士やボス猿相手に毛繕いをする習性があるらしいけど、似たようなものかしらね。それに道具を使っているわ。かなり知能は高いみたいね』
ナイフは割れてゴミになった。ポチは笑った。以前目玉を狙ったこともあったが、呆気なく武器は折れた。竜というのは何から何まで強靭すぎたのだ。普通目玉というのは生き物の急所だろう。それが目玉に傷もつかずに刃は折れて、それどころか瞬きすらもしていなかった。何かしたことにすら気が付かなかったのだろう。ポチの心はとっくの昔に折れていた。
ちなみに、悲しみに暮れるアルテミシアの傍にいてポチが影響を受けていないのは、結界とその身にかけられた守護の力のおかげである。装備にはかかっていなかったためにあっという間に朽ち果ててしまったが。
リディアは質問を再開し、ポチの情報をまとめると共に姉の様子を伺った。初回であるし、間隔も短いために油断はできないが、いい傾向である。 この調子なら悲しみを完全に癒せないまでも、世界を壊すには至らない程度までには抑えられるかもしれない。そう、期待してしまう。
それからというもの、毎年リディアは様子を見にアルテミシアを訪ねてやって来た。徐々に良くなっていくアルテミシアと、徐々に元気を無くしていくポチが印象的である。恐らくは親元から離されたせいだろう──体毛が全然ないのでそう判断した──そう判断したリディアは、食事のバリエーションを増やしたり、結界の範囲を広げたり、力で周囲の環境を整えたりなどケアしてやった。しているつもりだった。
何年経っても体毛が多少濃くなる程度で、一般的な猿ほどに体毛で覆われないのを見て、もしかしてこれで成体なのかもしれないとようやく気がついた。
『姉さん、もしかしたらなんだけど……番いがいないせいでポチは元気がないのかもしれないわ』
生き物は子孫を残すことが使命。それができない故に萎れているのだろうと推測した。
『まあ……確かに一人ぼっちは寂しいわよね……』
『それで提案なんだけど……』
リディアはおずおずと、硝子細工に触れるかのように慎重に提案する。
『もう一匹捕まえてきて、番いにさせようと思うの』
『…………』
アルテミシアは、目を閉じた。
思い悩むように、思い返すように──数秒だけ沈黙すると、微笑して口を開く。
『そうね、ポチにも伴侶が必要だわ』
そう告げる。
リディアは何でもないように、それじゃあ今度連れてくるわ、とだけ答えて去って行った。
番い。伴侶。家族。
夫を失ったアルテミシアの前で、新たな家族が生まれようとしている。その心中にあるのはアルテミシア自身にも分からなかった。喜びのようなポジティブな感情ではない。嫉妬のようなネガティブな感情でもない。かといって困惑のような疑問でもない。その正体はずっと後に分かったのだが、アルテミシアはその答えを誰にも言おうとはしなかった。
『素敵な子が来るといいわねえ、ポチ』
「行ったか……俺は一体いつまでここにいればいいんだろう……』
『うふふ……楽しみなのかしら?』
そして、数年経っても竜とニンゲンの間にコミュニケーションは一切成り立っていなかったのだった。
◆ ◆ ◆
数年前にポチが攫われた山、その頂上に一人の女が立っていた。探索と戦闘に特化した装備は彼女が冒険者だということを表している。そこからの風景を見渡しながら、しかし何処か遠くを見ながら彼女は呟き始める。
「先輩……貴方がいなくなってからもう八年が経とうとしています。みんなはもう死んだなんて言いますけれど、私は信じています。きっと新天地に旅立って、今も素敵な冒険を続けているんだって……。今はまだ未熟ですけれど、いつか貴方に追いついて、貴方を見つけ出して見せます……きっと……」
そこにある大切なものを守るように、抱くように、胸の前で両手を握りしめた。そして目を瞑り、しばし祈る。目指すべき未来に、敬愛する冒険者に──
「で、そこを攫われたわけだ」
「……はい」
所変わってアルテミシアの巣。その中に作られた飼育スペースにてニンゲンのオスたるポチと、メスたるタマ──竜たちによる命名なので、当然彼らは知らない──が向かい合って座っていた。
「ていうかあれは無理ですよ……なんであんなに大きいのに無音で飛べるんですか……山頂なので風は強かったですけど、風の乱れすらありませんでしたよ……」
「まあそういう出鱈目な存在なんだよ……ドラゴンなんて伝説の存在をお目にかかって分かったが、あいつらが伝説の存在でよかった。こんな連中が跋扈してる世の中だったら俺は冒険者になろうなんて思わなかっただろうよ……」
両者とも俯いてドラゴンの非常識さに愚痴大会を繰り広げていた。数年間囚われの身のポチは勿論、タマも敬愛する先輩の行方不明の真相と今の姿を見て落ち込んでいる。そんな姿を見て竜たちは呑気に『意気投合したみたいね』と胸を撫で下ろしていたのだが、当然彼らは知らない。
『とりあえず喧嘩するような事がなくてよかったわ……うまく番いになってくれるかしらねえ』
『まあ根本的な問題としてちゃんとオスとメスなのかという重大な問題があるんだけれど……捕まえやすかったから捕まえただけで、その辺りの確認はしていないのよね』
『大丈夫よきっと! だってほら、なんだか体つきが違う気がするし、雰囲気もそこはかとなくオスとメスっぽいじゃない?』
『うんまあ、姉さんがそれでいいならそれでいいんだけど……後はちゃんと交尾してくれれば言うことはなしね』
そう言って、リディアはペットたちのそばに置いてある木の実の山を見やった。
『興奮作用のある木の実を集めてきたから、発情期あたりに食べればきっと交尾を始めるはずだわ』
『楽しみねえ。暖かくなってきたあたりかしら? 私、動物の交尾って始めて見るわ。私たち竜とはかなり違うのでしょう?』
ちなみに竜は二頭が力を同調させ、極限まで力を練り上げることによって新たな竜を生み出す。肉体的な接触は特に必要がないのだ。なんか必殺技みたいな出産の仕方だが、こういう存在なので仕方が無い。
今までの研究で学んだことを姉に教えてあげようとリディアは佇まいを正そうとしたが、アルテミシアはペットたちの様子を見て急にはしゃぎ出す。
『あらあらあらあら! まあまあまあまあ!』
『何ともまあ……偶然にも発情期は今だったみたいね』
始まってしまった。健全な若い男子で、数年間一人きりで過ごしたために心底人恋しかったポチと、今更言うまでもないがポチを敬愛とともに懸念していたタマは、木の実の作用によりリディアの策にあっさりと堕ちた。
本作は全年齢対象のため詳細をお伝えできなくて申し訳ないが、要するにポチのポチがアレしてタマのタマはコレしてしまい、ポチとタマは合わせてポチタマというわけである。分かれ。
『がんばってポチ! かっこいいお婿さん連れてきてあげたんだから、がんばって可愛い子を産むのよ!』
『あれ、そういえばどっちがオスでどっちがメスなんだっけ……まあ交尾ができているのだから、異性同士なのは間違いないわね。うん』
そしてここに至るまでに竜たちはペットたちの性別を把握していなかった。
ちなみにリディアは賢竜と呼ばれてはいたが、単に他の竜がそれほど頭が良くないために、比較的頭が良く好奇心旺盛な性格を評して賢竜と呼ばれているだけだったりする。ペットたちは最後まで自分たちを捉えていた竜の正体を知ることはなかったので、どうでもいいことではあるが。
そんなわけでペットたちはハッスルし、姉を癒すというリディアの目論見は成功しつつあり、アルテミシアは最後の決断を迫られようとしていた。
たったの数年でほぼ悲しみは癒えていた彼女だったが、結局はペットに心を向けて誤魔化していたにすぎない。悲しみが癒えていっているという自己暗示で一時的に立ち直ったに過ぎない。ここでペットたちを失えばまた元の状態に戻ることだろう。リディアもそれは分かってはいる。分かってはいるが、最後の最後でアルテミシアを癒せるのは、やはりアルテミシア自身だということも竜たちは分かっているのだ。
結論から言うと。
アルテミシアが本当に立ち直るのに──この時から更に十年弱を要した。
◆ ◆ ◆
十年弱。
ポチとタマの生まれ故郷で言えば、彼らの最初の子供が成人したと見なされるだけの年数が経過した。ポチとタマはその分老いて、その間に子供をたくさん作った。発情期の期間を正確に知りたがったリディアの思惑があったことも確かだが、そもそもそれ以外にやることがないのが実情だった。なのでヤるしかなかった。万年発情期のニンゲンの生態にリディアは慄き、アルテミシアはペットの可愛い子供がたくさん出来て嬉しそうだった。ポチがオスだったことに驚いてはいたが。
生まれた時から側に竜がいて、しかも生まれる前からその力にさらされていた子供達は、それなりに優秀な冒険者だったポチとタマをぶっちぎりで超える身体能力を示した。反則級だった。チートだった。もう全部あいつ一人でいいんじゃないかなって感じだった。こいつは英雄の器だとポチは喜んだが、タマはこんな閉じた世界で何の意味があるのだろうと憂いた表情である。それを慰めるポチとぶっちゃけ誘っていたタマは放っておいて、当の本人である子供──勿論ポチとタマに名付けられたニンゲンとしての名はあるが、竜たちに付けられた名を表記させていただく──モモはというと、当然の事ながら両親から話に聞いていた『外』をずっと切望していた。
常に自分たちを見下ろし、片時も離れなかった竜。竜によって囚われているという両親。そんな両親から生まれた自分。それが当たり前だったので、彼は自分を特殊な境遇だとか哀れな身の上だとは思ってはいない。その発想がなかった。ただ両親が教えてくれた外の世界を見てみたかった。何かしらの力によって閉じ込められているのはなんとなく分かっていたので、時々こっそりと結界の壁に向かって体当たりしたり、殴ったり蹴ったりなどを行うようになった。弟や妹たちにも内緒にしていたが、いつしか共に結界を越えようと協力するようになる。
当然、ニンゲンごときが結界を破れるはずもなかった。なかったのだが、竜の力を取り込んで生まれた彼らは、いつしか力を体に纏うことができるようになっており、その結果結界を揺るがすことには成功した。そして、それによって両親と竜たちに外に出ようとしていたことがバレてしまったのである。最も、両親はとっくに知っていたが無駄な事だと好きにやらせていたので、この事態には大層驚いた。竜たちはもっと驚いた。こんなに小さな生き物が自分たちが張った結界を揺るがすとは。ちなみに揺るがしただけで、何のダメージも受けていない。分かりやすく我々に身近な例で例えると、ハムスターが壁に突進し、家全体を一瞬揺らすくらいである。なにそれこわい。
アルテミシアはとうとうその時が来たのだと悟った。
そして嬉しく思った。彼らを飼って良かった。後に彼女はそう語る。
『リディア』
『……なあに、姉さん』
問いかけてはいるが、姉が何を言うのか分かっていた。
分かり切っていた。
待っていた。
待ち望んでいた。
『ポチとタマを、元の場所に放してやりたいの。いいかしら?』
『……私としてはデータは十分に取れたし、拘る理由はないわ。姉さんが自由にしていいわよ』
ありがとう、アルテミシアはそう微かに呟いた。
おめでとう、リディアはそう心で呟いた。
竜たちの雰囲気が変わったことをなんとなく察したのだろう、ペットたちは集合し若干震えていた。アルテミシアはいつものように、いつも通りに心掛けて、彼らに優しい笑みを浮かべる。
ぽつりと、何処からか彼らの元に水滴が落ちた。
その水滴は大きすぎてばしゃりと彼らを大いに打ち付けたが、不思議なことに全く衝撃を受けることはなかった。濡れることもなかった。疑問を顔に浮かべる彼らに、アルテミシアはもう一度微笑むと別れを告げた。
『今まで側に居てくれてありがとう。子供を産んでくれてありがとう。家族というものを見せてくれて、ありがとう。本当に……ありがとう、さようなら』
アルテミシアがふと前足を翳すと、ペットたちは姿を消してしまった。
結界は解かれ、ペットたちの生活の跡は一瞬で消え去る。
アルテミシアは一鳴きすると翼を動かし始めた。千年振りに。千年と十数年ぶりに。翼を動かす度にその体に力が満ち始める。鱗は月のように輝き、爪は星のように煌めく。瞳は夜空のように深く、果てない色が続いている。美しさを毒だとか罪だとか表現することがあるが、アルテミシアの美しさは滅びだった。アルテミシアに滅びの印象を抱くのではない。美しすぎて、その美しさを目の当たりにした万物が滅びかねないのだ。具体例を言うと、過去にアルテミシアの美しさを受けたドブ川は一瞬で蒸発した。どこぞの王子の素顔よりもよっぽど物騒である。全盛期のアルテミシアは存在しているだけで世界を滅ぼしかねなかった。側にあれたのは夫だけだった。
全盛ほどではないにしても力を取り戻した、美しさを取り戻したアルテミシアは、リディアと共に巣を飛び立つ。
リディアに導かれて、最初に彼らを見つけた場所──赤子もいるので山の頂上ではなくて麓だが──でペットたちを解放する。
そして、何も言わずに去って行った。
音を立てず、風を乱さず。
一瞬で景色が切り替わり、去って行く竜たちを見て、もうペットではない彼らはどう思ったのかは分からないが──見えなくなるまでその姿を眺めていたという。
二十年近い年月を、彼らは竜によって奪われた。あるいは与えられた。
ちなみに彼らの故郷は既に滅んでいたので、ここから更に数年彷徨うのであるが──竜の力を持つ青年たちの英雄譚が始まるのは、そう遠い先ではない。
しかし、彼らが自分たちを飼っていた竜たちに再会することはとうとうなかった。
何故なら、後々になってニンゲンについて学び直し、自分たちがどれだけやばい事をやっちゃったかとうとう自覚した彼らが、罪悪感から身を隠していたからなのであった。
かくして、竜は伝説のままニンゲンたちの歴史に刻まれるのであったとさ。