ぶっとばせアルミちゃん!
八月二六日。
今日は夏真っ盛りな一日だった。
うだるような暑さの中、僕は坂道を歩いている。
傾斜のきつい坂を進むのは、歩くといよりも、登る、と言う方が正しいかもしれない。持ち歩いているボストンバックがいつも以上に重く感じるのは、体力の消耗が激しいからだろう。見上げると、雲ひとつ無い青空の先にぎらぎらと太陽が輝いていて、その熱線を顔に浴びた僕はたまらず目を細めた。
燃えるような気温は体から水分を根こそぎ奪っていく。
額からは汗が滴り、雫となってアスファルトに落ちた。首に巻かれたタオルで顔を拭うが、既に何度も何度も汗を吸い取ったタオルの感触は気持ちが良い物では無い。
「無闇矢鱈と汗を吹くのは関心しませんよ、宮成さん」
ふと、僕の横で歩いていた少女が、ため息混じりの声で言った。
少女は背が低く小柄で、半袖のカッターシャツに紺色のスカート、肩にはボストンバック型の学生鞄を引っ掛けている。背中まで伸びた黒髪は十分に熱を吸い取りそうに見えるが、彼女の白い頬や手足からは汗が流れる様子は無い。
僕がその表情を横目に見ると、年相応の幼い顔つきは平然としていた。この猛暑に苦痛を感じていないようだ。
子供らしくない、と思ったが、
「駅前に出来た新しいアイスクリーム屋さん、ワクワクしますね」
口元に小さな笑みを浮かべたのを見て、そういえば、この坂道を通って行こうと言ったのは彼女の提案だったのを思い出した。なんでも、駅まで行くには一番の近道だとか。
そんな可愛らしさを見つけた僕は、同じように微笑んだ。
「なんですか? 私の顔に何か付いてますか?」
「いや、なんだかんだで子供らしいなぁ、と思って」
「なんですかそれ……脚が疲れたー! 暑いー! あーん駅が遠いよぉ! おんぶー! って大声で騒ぎながら、駄々をこねた方が良かったですか?」
「いや……それは……」
「ね、困るでしょ?」
自分がいかに正しいかを説明した少女は、満足そうに鼻を鳴らした。
そういう所が実に子供らしいのだが、それを口に出してしまうと機嫌を損ねてしまうのは容易に想像出来るので、僕は何も言わない。
少し上機嫌になった少女は、駆け足になって道の脇まで進んだ。それを追うようにして、僕も端へと向かう。程なくして、遠くから力強いエンジン音が耳に届き、僕等が歩いていた道の中心をトラックが通り抜けて行った。
どうやら、音が聞こえる前に察知していたらしい。
「それと、しきりに汗を拭いて、汗臭くなりたくないのは分かりますけど、ちゃんと水分補給もして下さいね」
「ここまでに、もう全部飲んじゃったよ」
「……それじゃ、私の水、飲みさしですけど、あげます」
「いいよいいよ、別に平気だって」
「はぁー……いいですか? 私はあまりお金を持っていません。だから、奢ってくれる宮成さんに熱中症になられては困るのです。なので、受け取ってください」
少女には、僕の言葉がただの強がりだと分かっていたらしい。水の入ったペットボトルを差し出され、半分程入った水がちゃぷちゃぷと音を立てる。
目の前に水分をちらつかされ、平気だと言った自分が気づかない程に乾いていたのを自覚すると、僕はすぐさま受け取ろうと手を伸ばした。
が、掌は空を掴んだ。それよりも素早く、少女は僕の手を避けたのだ。
「間違っても、一息で全部飲まないでくださいよ。ちょっとずつ大事に飲んでくださいね」
コクコクと、僕は勢いよく首を縦に降る。まるでお預けを命じられた犬のようだ。
情けないのは重々承知だが、それでもいいから早く! と正直に水を欲しがってしまう。そんな年上らしさを取り繕わない僕を見て、少女は小さくため息を吐く。
「私だって、本当は暑いのに……もう、仕方ないな――ぁ?」
ついに我慢を忘れた僕が、奪わんばかりの勢いで手を伸ばす。
だが、その手が掴んでいたのは、水の入ったペットボトルではなく――少女のしっとりとした右手だった。それに気付いた直後、カツン、と足元に何かが落ちる音がして、そちらへと視線を向けると……。
――コロコロと勢いよく、ペットボトルが坂道を下っていく。
「あぁ! 水が!」
「静かにしてください」
少女が低い声を出し、坂道の頂上を睨みつける。先程の和気藹々としたお喋りからは一切想像のつかない変化に、普通なら驚きを覚えるかもしれない。
少女に習うようにして、僕も坂道を見上げる。
するとそこにはいつのまにか、バックを肩に通したお婆さんの姿があった。左手には白い日傘を持ち、右手で額にハンカチを当てながら、坂道を降りている。
まさか、このお婆さんを警戒しているのだろうか? いくらなんでも冗談だろ? と言ってしまいそうになるが、少女の顔は真剣そのものだ。
手を繋いだ僕等は、その場でピタリと立ち止まる。
日傘を持ったお婆さんは、ゆったりとした歩調で坂道を下っている。
お互いの距離が、徐々に徐々に近づくが……やっぱり、何が危険なのか分からない――と、そう思った瞬間、耳に突き刺さるような甲高い音が辺り一帯に鳴り響いた。
坂の頂上から、スクーターが飛び出してきたのだ。
まるで大砲から発射されたような勢いで、下り坂に着地する。二人乗りらしく、フルフェイスのヘルメットを被っているので性別までは分からないが、薄手のシャツに半ズボンの姿からは、なんとなく若そうな雰囲気が感じられた。
スクーターは一直線に下り坂を突っ切ろうとする。減速する気はないらしく、この暴走行為を楽しんでいる節すらありそうだ。いくら夏休みは子供が無邪気に遊ぶものはいえ、それにも限度というものがあるだろう。
僕がげんなりとしていると、前に立つ少女はぎょっとして、大声を上げた。
「お婆さん! 鞄を守って!」
えっ、と僕が言うより早く、スクーターは甲高い音を発しながら、お婆さんの傍へと近寄ろうとする。そんなうるさいマフラー音にかき消されることなく、少女の声が届いたのだろう、お婆さんはハンカチから手を離し、両手でしっかりと鞄を握った。
だが、バイクのパワーに老人が勝てる訳もない。後ろに座っている方の人間が手を伸ばし、お婆さんの鞄を掴むと、強引に奪い取ってしまった。力負けしたお婆さんは尻餅をついてしまう。
しかし、抵抗にはそれなりの効果があったらしい。
強引に力を込めてしまったせいか、スクーターはバランスを崩してしまい、前方のタイヤの向きがぐらりと揺れていた。運転している人間はなんとか姿勢を安定させようとするが、かなり早い速度で走っているせいか上手く制御が出来ないでいる。
本来であれば、鞄を奪ってまっすぐ走り去る予定だったのだろう。
しかし、少女の大声によってその計画は頓挫してしまった。ふらついたタイヤは曲がり、勢いはそのままで、こちらの方へと直進して――
「ぶ、ぶつかあぁぁ!?」
僕が悲鳴を上げるのと同時に、繋いだ手から激しい痛みが発せられる。
どうやら少女が万力のような握力で握り締めたらしい。僕の悲鳴が途切れ、少女は僕の体を強引に後ろへと押しやり、まるで盾になるようにして僕の前へと立った。
少女は膝を小さく曲げ、空いている方の手の指を第一関節の部分で折る。まるで格闘家の構えのようにも見えるが、詳しくない僕にはそれがどういうものなのか分からない。だが、今にも僕等を跳ね飛ばさんとするスクーターに向かって、何かとんでもない事をやろうとしているのは直ぐに理解する。
僕等とスクーターが接触しかけるその瞬間、彼女の手がブレた。
僕にはまるで、彼女の左手が二本になったように見えた。
一方の手が奪われた鞄を掴み、もう一方の手がスクーターの先端を真横から殴りつける。
一瞬の間に行われた動きに、感嘆の息を漏らす余裕すら無かった。
スクーターは向きを変え、すんでの所で僕等を避けるようにして斜め後ろへと直進する。
「アイスの前に、敵は無し」
構えを解き、僕から手を離した少女は、ドヤ顔でそんなことを言った。
その直後、遥か後方で、ガシャン! と、大きな破砕音が聞こえる。まだ驚きが抜けきらず、ばくばくと心臓の鳴る音を聞きながら、僕は振り返って後ろを見た。
スクーターは電柱に勢いよくぶつかり、その車体を停止させていた。その電柱は周辺住人のゴミ出しの場になっていたらしく、周囲には燃えるゴミ袋が弾けるようにして散乱していた。
その傍らには、仰向けに倒れる男が二人……そして二つのヘルメットがころころと、砕けた破片をまきながら坂道を下っていく。
「ねぇ……大丈夫なのかな、あの人達」
「大丈夫ですよ、あれくらいなら鞭打ちで済みます」
「あ、あれくらいならって簡単に言うけど、本当に大丈夫だよね?」
「だから大丈夫ですって、ゴミ袋がクッションになってましたから……ほら、見てください」
よろよろと体をふらつかせながら、二人の男は起き上がり、まるで生まれたて小鹿のような弱々しい足取りでその場を去ろうとする。壊れたスクーターを放置し、逃げ出そうとするその姿を見て、死んでなくて良かった……! と心の底から安堵した僕は、大きく息を吐きだした。
こわばった体から力が抜け、その場にへたりこんでしまいそうになる。
だが、そうゆっくりしている暇は無いようだ。
トン、と後ろで軽い足音が聞こえて咄嗟に振り返ると、少女が遥か高い位置――お婆さんの近くへと移動していた。瞬間移動でもしたかのようなその素早さに、ただただ唖然とさせられる。
「警察に通報するのはお婆さんにやってもらいましょう。それよりも私達はアイスです。無駄な時間を食ってしまいましたからね。さ、急ぎましょう、宮成さん」
「ア、アイス屋さんは逃げないから、歩いていこうよ!」
「脚が疲れたなら、私がおんぶしてあげましょうか?」
「急ぐからそれだけは勘弁して!」
嘆くように言いながら、僕は走って坂を登る。
おんぶくらい、あの少女なら本気でやりかねない。少なくとも、向かってくるスクーターを殴り飛ばし たり、坂を一瞬で駆け上がるよりは楽にやってのけるだろう。そして、強引に掴まれてしまえば僕如きが逃げられる訳もないので、必死になって走るしかない。
そんな僕を見て、少女はうんうんと満足そうに頷くと、くるりと僕に背を向け、その場で尻餅をついていたお婆さんに手を差し伸べていた。その光景を見て、そういえば僕とあの子が初めて会った時もあんな状態だったな、と、つい昨日の出来事を思い出していた。
✽ ✽ ✽
僕が彼女と知り合ったのは、昨日の夜のことだった。
高校が夏休みに入り、時間を持て余していた僕はひたすらアルバイトをしていた。他にやるべきことも思いつかず、ただのんびりとしているくらいなら一日中働いていた方が健全的だと考えたのだ。
アルバイトに明け暮れる毎日は、それなりに充実していた。
疲れは日に日に蓄積されていくが、不思議と辛さを感じることは無かった。いずれ来る給料日のことを思えば、これくらいの疲れ、なんてことなかった。
男性向けファッション雑誌にて紹介されていた、新作のアクセサリーやブーツのことを眺めながら、働き詰めの毎日を繰り返し――そうして、ついにやってきた二十五日の給料日は、とても嬉しい一日になる筈だった。
なのにまさか、こんな酷い目に合うなんて……。
二十五日の夜は特に客が多くて、忙しかったのだ。
給料日なのは自分だけでなく、社会で働く人達の大半がそうなので、お金を手に入れた人達は溜まった 鬱憤を晴らすようにして買い物を楽しむ。当然、客が多くなるということは仕事の量が大幅に増えてしまう。
その結果、仕事が全て片付く頃には真夜中になってしまっていた。
日に日に蓄積される疲労にも限界が近づき、僕の体はフラフラだった。帰ってさっさと休みたい。そんな思いから、僕は路地裏の道を進んでしまう。普段なら大通りを歩くのだが、その時だけは早く家に帰りたいばかりに、近道になる路地裏を選んでしまった。
それが、大きな間違いだった。
「お前、向こうのコンビニで毎日働いてたろ」
薄暗い路地に入って、数分程進んだ辺りでのことだった。正面に男が立っていて、ふいに、そんなことを言ったのだ。
外見から判断するに、僕と同じくらいの年齢だろう。ハリセンボンのように尖らせた金色の髪が特徴的で、耳には銀のピアスが幾重にも絡みついている。そんな奴に突然声をかけられて、恐怖を感じるなという方が無理だ。
僕は咄嗟に振り返り、来た道を全力で引き返そうとしたが、どうやら既に囲まれていたらしい。後ろには、黒いタンクトップにサングラスをかけた、筋肉隆々の男が立ちはだかる。
そうして逃げ場が無いことを理解し、どうしていいか分からなくなっていた僕は、顔面に強烈な拳を受けた。サングラスの男が僕を殴ったのだと気付いたのは、仰向けに転がった後のことだった。
「はいはーい、フルボッコにされたくないなら、素直にサイフを出しましょうねー」
下品な笑い声を響かせながら、金髪の男が僕のポケットをまさぐり、財布を引っ張り出す。中身を開き、札と小銭を地面にぶちまけると、不機嫌そうな顔になり、
「これっぽっちかよ、クズ!」
と言って、横たわる僕の腹を蹴った。僕はうめき声をあげて、体を折りたたむようにして悶絶する。胃の中に何も無いのが幸いだった。
「これ以上蹴られたくねぇなら、今から給料全額卸してこい。それが出来ねぇなら、ここで殺す」
脅しの言葉を吐き捨てると共に、ガァン! と硬いものが耳元に振り下ろされる。
僕が恐る恐る見ると、それは太い鉄パイプだった。
あんなもの、まともに受けたら痛いじゃ済まない、骨なんて簡単に砕いてしまいそうだし、当たり所が悪ければ、普通に死ぬ。早くお金を渡してしまうべきだ。それでなんとか許しを請い、この危ない人達から早急に離れるべきだ。
――でも、今日まで頑張った日々を、無駄にするのは嫌だ。
「お、何よその反抗的な態度は? もっといじめて欲しいのか?」
金髪がニタリといやらしく笑うと、サングラスの男が僕の襟首を掴み、強引に立ち上がらせた。そして、僕の胴体に再び蹴りを入れる。
こうして、僕の意地は無残にも消え去った。苦痛に表情を歪め、この不条理な要求を受け入れるしかない、と、諦めの気持ちが僕を支配する。こんな状況、たった一人で打破できる訳がない。二対一で、ボコボコにされて、情けなさすぎて涙も出ない。
でも、やっぱりお金は渡したくない。こんな人間の屑みたいな奴等の言いなりなんて嫌だ。
「だったら死ねや!」
心の中で念じたつもりだったが、声になって出ていたらしい。
金髪は怒りで顔を引きつらせ、手に持った鉄パイプを僕めがけて振り下ろそうとする。
その瞬間だった。
「そこ、邪魔です」
鈴の転がるような、凛とした声。
それが聞こえたのと同時に、まるで上から重い物体に押し付けられるようにして、金髪の男は膝から崩れ落ちた。
何が起こったのか分からないのだろう、金髪の男は驚き、両目を白黒させている。しかし、正面から見ていた僕には全てが見えていた。
突如現れた少女が、叩きつけようとした鉄パイプを後ろから掴み、そのまま金髪の肩に押し込んだのだ。
「この道は、私の家までの近道なんですよ。だから、どいてください」
不機嫌そうに言って、少女は奪い取った鉄パイプを投げ捨てた。カランカランと、跳ねる音が路地裏にこだまする。
その言葉を聞いて、自分が膝をついた原因は後ろの少女だと気付いたのだろう。金髪はすぐさま立ち上がると、振り向きざまに拳を放った。
「調子に乗んじゃねぇ、この――」
「遅い」
拳が届くよりもっと早く、少女の前蹴りが顎を捉える。
真下から打ち上げられ、顔面を空に向けた金髪は、再び膝から崩れ落ちた。そのまま受身も取らずに地面に伏してしまう。
「で、どうします? 後ろのあなたも、やります?」
少女は倒れた金髪から一瞥をくれると、こちらへと視線を向けた。その瞬間、まるで肉食獣が獲物を狙うようなプレッシャーを感じて、ぞくりと背筋に震えが走る。
……いや、少女は僕にではなく、その後ろで僕を掴んでいる男に言っているのだから、僕が怖がる必要は無いのだけれど、その余波を受けただけでも恐ろしさは十分に伝わってきた。
こんなものを直撃している背後の男は、とても冷静ではいられないだろう。
この少女には勝てないと、嫌でも思い知らされた筈だ。
男は僕を突き飛ばした。
少女は僕の体を後方へと難なく受け流す。腕から地面に落下したが、痛みは殆ど無い。どうやら少女が威力を殺してくれたらしい。
僕はすぐさま背後を仰ぎ見る。
男の姿は消えて無くなっていた。
倒れていた金髪までもが居なくなっている。恐らく、さっきの男が逃げる際に連れて行ったのだろう。
路地裏には、僕と少女の二人だけが残された。
少女は背中まで伸びた髪をかきあげ、ふう、と小さく息を吐く。そして、倒れた僕に向かって右手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
優しい声が、心に染み入るように浸透する。どうやら僕は、助かったらしい。救われた実感がようやく沸いてきて、思わず大声で号泣しそうになった。
が、いくらなんでも女の子の前でそれは格好悪い。僕はグッと堪えて、少女の手を掴んだ。
少女は軽く力を込めて、僕の体を引っ張り上げる。
「本当にありがとうございました。心から、感謝します」
気持ちを伝えようとして、僕が深々と頭を下げると、少女はわっと驚くような声を出して、あたふたと取り乱した。
「そ、そんな大したことはしてませんよ! だから、頭を上げてください。それに、敬語を使うのも勘弁してください。私の方が絶対に年下ですから! えっと、宮成鞘都さん、ですよね」
名前を呼ばれたことに驚き、ハッとした僕が首を上げると、少女は周囲に落ちた財布と、その中身を拾い上げていた。手にした学生証に書かれた名前を読み上げ、ふむふむと納得するように頷いている。
「宮成さんは高校二年生なんですね、やっぱり私なんかより全然年上だ」
少女はお金とカード類を全て拾い上げると、全て財布の中に戻して僕に手渡した。助けて貰うだけでなく、その後の後始末まで手伝ってくれるなんて、なんだか有難いを通り越して申し訳ない気分にさせられる。
この子は強いだけじゃなく、とても優しい。
財布を受け取った僕は、感動に心が打ち震えていた。
お礼がしたい。助けてもらった感謝を伝えるには、言葉だけじゃ足りなかった。少女が僕を助けてくれたように、僕も何か彼女の為に何かがしたい。
「あの、何かお礼をさせてください! お願いします」
「や、やだ、いいですって、そんなの結構ですから」
少女は両手を伸ばして拒否しようとする。でも、ここで引くわけには――
「なにか美味しいものとか!」
「美味しい……もの……」
意外と食いつくの早!?
少女は両手を組み、喉の奥から捻り出すように「う~んう~ん」と言っては、ちらちらと横目に、僕の顔を確認している。
「甘いものとか好きですか?」
「好きです! ……はっ!」
僕の何気ない質問に即答した少女は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
辱める気持ちは無かったのだが、これを好機と捉えた僕は、近場でお菓子を売っている店を思い出そうと頭を捻る。
……そういえば駅前に新しいアイスクリーム屋が出来ていた。夏休みに入る直前だったか、クラスの女子達が騒いでいたのを思い出した。なんでも『チョーウマ』くて『マジ可愛くてオシャレ』だとか、色々話していた。
「それじゃ、駅前のアイスクリーム屋なんて――」
「行きましょう、今すぐ!」
どうですか? と聞こうとした僕よりも早く、少女は答えていた。瞳を星のように輝かせ、期待に満ち溢れた表情で見つめてくる。
どうやらアイスクリームは少女の好みにヒットしたらしい。
だけど残念ながら、今すぐは無理だ。今はもう夜中なので、とっくに閉店しているだろう。
「よ、よかったら、明日、一緒に行きませんか? 僕にご馳走させてください」
「……いいんですか、本当に?」
「勿論です。こちらからお誘いしたものですから」
「それじゃあ……お言葉に甘えちゃおうかな」
やった! 僕は心の中でガッツポーズを決めた。しかし少女は、少しだけ怪訝そうな顔になり、「でも やっぱり、その堅苦しい敬語は辞めてほしいかも……」と、不満気に呟く。
「あ、そうだよね。君がさっきそう言ってたのに、無視してごめん」
「……それと、私のことを君って呼ぶのも、なんだか落ち着かないです」
少女はスカートのポケットから、ピンク色の財布を取り出し中身を開け、カードを一枚引っ張り出した。それを僕の鼻先に掲げ、内容を確認するように促してくる。
そこに記載された内容を見て、眼球が飛び出さんばかりに驚いた。
『私立霧ヶ原学園中等部 一年四組 出席番号三二番 真白井 或美』
中学……一年生って――えぇぇ! つい最近まで小学生じゃんこの子!
尋常じゃない強さを持っていて、その上精神的にもおおらかなのに、僕より圧倒的に若いなんて……一体どんな経験を積めばここまで成長するんだ?
「あの……私の生徒手帳、何か変ですか?」
少女は不安そうに上目遣いで見上げてくる。
衝撃の事実を知らされて、とんでもない表情になっていたのだろう。
我に返った僕はすぐざま笑顔を作り、優しい口調を意識してこう言った。
「いや、可愛い名前だなと思って見蕩れてたんだ。……よろしくね、アルミちゃん」
僕が名前で呼ぶと、少女――アルミちゃんは、顔を真っ赤にしてしまった。眼球から耳たぶまで、隅々が瞬時に染め上がる。
堅苦しいのが嫌だと言うから下の名前で呼んでみたのだが、何か問題があるのだろうか?
「いえ、家族以外に名前で呼ばれたのは初めてなので、ちょっと驚いただけです。……アルミちゃん、かぁ……新鮮でいいものですね」
「そっかそっか、それはよかった、アルミちゃん」
「ぅ……でもちょっと、恥ずかしいかも……」
赤くなった顔のままニヤニヤと微笑むアルミちゃんを見ていると、本当に、ただの中学生の少女にしか見えなくて、この子に助けられたという事実を忘れてしまいそうになる。
だけどまぁ翌日になってすぐ、突っ込んできたバイクを弾き飛ばす勇姿を見て思い出すことになるんだけど。
✽ ✽ ✽
目的のアイスクリーム屋はまだ開店して間もないからか、新店独特の小奇麗な雰囲気があった。赤く彩られた看板に白い文字で書かれた店名を確認すると、僕等はガラス扉を開けて店内へと足を運ぶ。
「わっ、凄い! 色んな種類がありますね」
アルミちゃんはショーケースの中に並ぶ、色とりどりのアイスを見ては感嘆の声を上げた。
カウンターに立つ女性の店員さんが「いらっしゃいませ」と言って微笑むが、アルミちゃんには全く聞こえてないだろう。その場にしゃがみこみ、両手の指をガラスに食い込ませるようにして、四角い鉄のケースに入れられたアイスを食い入るように見つめている。
「どうしよう、宮成さん、私どうしたらいいの?」
「急がなくていいから、ゆっくり選ぶといい……じゃあ僕、ちょっとお手洗い。……すぐ戻るから、じっくり悩んでて」
ショーケースに張り付くアルミちゃんを一人残して、僕はお手洗いへと向かう。
正直な所、体力がもう限界だった。とてもではないが、アルミちゃんの体力にはついて行けない。水も飲めずに炎天下の中を走らされたこの体は、今直ぐにでもブッ倒れてしまいそうなくらいに疲れている。 だけど、そんな場面をアルミちゃんに見せる訳にはいかないので、なんとか見栄を張っていたのだが――。
「はぁぁぁー、しんどかった……」
誰もいないトイレに入ると、ついため息が漏れてしまった。
洗面台に両手をつき、首を上げて鏡を見つめる。
そこには青くなった自分の顔があった。
僕は蛇口レバーを押して水を流し、顔を洗うと、冷えた感触がとても気持ちがいい。続けてボストンバックから制汗スプレーを取り出し、服の下に入れて体に吹き付ける。
簡単なリフレッシュを済ませ、再び鏡をみると、少しだけ顔色が良くなっていた。
よし、これなら大丈夫だろう。
濡れた顔を拭い、出した物全てを片付けてトイレの外に出る。そしてカウンターの前へと戻ると、僕に気付いたアルミちゃんは涙でうるうるさせた瞳でこっちを見た。
「ど、どれも美味しそうで……」
「決められないの?」
「えっと……三つまでは絞れたんですけど……」
「それじゃ、その三つとも注文しちゃおうか?」
「いいんですか!?」
僕が頷くと、アルミちゃんはパッと笑顔になる。それにしても、まさかアイスを選ぶだけでそこまで真剣になるとは思わなかった。
「私、ストロベリーと、ミントチョコと、ラズベリーヨーグルトでお願いします」
「じゃあ僕はバニラ……いや、やっぱりミルクセーキで」
アイスよりもまず、水分が欲しい。これといってこだわりの無い僕の判断は早かった。
僕等が注文を終えると、店員さんがショーケースを開けて、手際よくカップにアイスを入れていく。丸く切り取られたアイスが三段がさねに乗せられ、まるでパフェのようなボリュームがあった。最後にスプーンが添えられ、完成したアイスはアルミちゃんへと差し出される。
アルミちゃんはそれを慎重に受け取ると、僕に向かって深々とお辞儀をした。
「本当にありがとうごさいます。宮成さん」
「たかがアイスで大げさだって! ほら、早く椅子に座って食べてきなよ、僕も会計を済ませたらすぐに行くから」
咄嗟に言葉が出た後で、アイス屋さんで『たかがアイス』と言ってしまったのは失言だったかと思ったが、店員さんも僕と同じように目を瞬かせていたので、失礼な物言いには聞こえなかっただろう。てってってと駆けていくアルミちゃんの背中を、二人して見つめてしまう。
僕が財布から札を抜き取ると、ハッとした店員さんは慌ててレジの操作を始めた。
「アイス三つと、ミルクセーキが一つで、千三百円のお会計になります」
千円札を二枚出し、七百円とレシートが帰ってくる。程なくして、大きなグラスに入ったミルクセーキが差し出された。ほのかな甘味を纏った冷気が鼻先をくすぐり、胃の底から食欲がぐっと沸いてくる。たまらず僕はゴクリと喉を鳴らし、
「宮成さん、こっちです」
テーブルと椅子の並ぶ飲食スペースの一角に座ったアルミちゃんが、手を振っている。どうやら僕が来るまで待っていてくれたらしい。
僕がアルミちゃんの正面に座ると、彼女は満面の笑みを浮かべながら両手を合わせる。
「いただきます!」
こうして僕等は、念願のアイスを食べ始めた。
アルミちゃんは、とろけるように頬を緩ませながら、アイスを一口ずつ口に運び、じっくりと咀嚼する。甘くて冷たい味を存分に味わっているのだろう。時折、小さくため息を漏らしては、小声で「おいひぃ」と幸せそうに呟いている。
そんな幸せ満載な光景を見ながら、僕もミルクセーキを口に運ぶ。芳醇なミルクの味が口の中いっぱいに広がって、憔悴しきった体が蘇るようだ。
疲れた体には甘いものがいい、とはよく言ったものだが、ここまで痛感する事は中々無いだろう。僕がホッと表情を和らげると、ふとアルミちゃんはアイスを食べる手を止めて、僕の表情をじっと見つめる。そして、
「はしゃぎ過ぎました……ごめんなさい」
おもむろに謝った。さっきまでの感動の様子とは打って変わり、今にも泣き出してしまいそうな表情になる。
「ど、どうしたの?」
「顔の血色が……無茶をさせていたことに、今になってようやく気付きました」
「気にしないでよ、冷たいものを飲んだら結構楽になったし」
「あぁぁ、私ったら本当に馬鹿……こんなことなら、最初から私がおぶって走れば良かったのに……」
「待て待て待て待て」
そんな気遣いは断じて求めてない。
ていうか、当然のように言うけど、この子の体力はどれだけ無尽蔵なんだ?
燃えるような炎天下の中で一切汗をかかないどころか、普通の人には不可能なことを平然とやってのける少女――アルミちゃんとは一体どんな人間なのだろう。昨日偶然知り合っただけなので、僕は彼女について殆ど何も知らない。
「アルミちゃんはさ、どうしてそんなに凄いの?」
僕が聞くと、アルミちゃんは心底意外そうな顔をして、
「え? 私は凄くなんか無いですよ」
と返してきた。
その声に遠慮や謙遜が混じったようには聞こえず、本当に不思議そうに言う。
「いやいや、普通の人はスクーターを殴ったり、悪い人を成敗するなんて出来ないから」
「……あぁそっか、そういうことですか」
どうやらアルミちゃんの頭の中で、僕の言う『凄さ』について腑に落ちたらしい。
「宮成さんからすれば、私が凄く見えるかもしれませんけど、私の身近にはもっともっと凄い人がいるので、自分の強さに実感を得たことが殆ど無いのです」
「身近な人っていうと……アルミちゃんを鍛えた人とか?」
「はい。私の兄は人間辞めたみたいに強いですし、父なんかはもう、神でも殺すつもりですか? 思っちゃうくらいで……あんなのに比べたら、私なんかまだまだです」
なるほど……つまり、僕と彼女では当然と考える基準が大きく違う。
聞く限りでは、真白井家族の中でのアルミちゃんの強さはそれほどでもないらしく、本人もそれを重々自覚していて、だから自分なんか凄くないと断言してしまう。しかし世間一般からすればその力は尋常ではないので、そちら側に立つ僕からすれば驚くばかりなのだ。
「アルミちゃんは凄いね、ちょっと憧れるよ」
僕が尊敬の念を込めて言うと、アルミちゃんは顔を赤く染め上げ、視線を横に向けながら、指で髪の毛先をいじり始めた。どうやら恥ずかしがっているらしい。
「や、この程度の武術、五年くらい練習すれば宮成さんにもできますよ。あ、よかったら私と一緒に稽古します? 《ジークンドー》って言うんですけど」
「ジークンドー?」
聞きなれない言葉に眉を潜める。
僕が知っている格闘技の知識なんて、テレビで見たものくらいの物……せいぜい柔道、剣道、空手くらいだ。
「ふーん、ちょっと気になるかなぁ」
「ホント? それじゃ語っちゃいますよ。ジークンドーの凄さはですね――」
ここから、アルミちゃんの熱く語る時間が始まった。
ジークンドーがいかに素晴らしいかを、これでもかと言うくらいに説明してくれる。
それを僕は、笑顔を作って聞き続けた。アルミちゃんの話には専門用語が多く、それを噛み砕いて説明してくれる訳でもないので言っていることの半分くらい意味不明だったが、楽しそうに話してくれているのにその腰を折るなんて僕には出来なかった。
……だけど、それでも少しだけ分かったこともある。
曰く、ジークンドーとは実践向けの格闘技で、敵の急所を容赦なく叩き、考えうる最上の攻撃をぶつけるものらしい。なんでも、水のように流れる動きを意識して、相手を一瞬で倒すのが理想だとか。
「自慢じゃないですが、私は拳を突いてから引くのが得意なんです」
得意げに言ったアルミちゃんが、目先で拳を振るって見せる。それを凄まじい速度で繰り返されると、僕にはまるで手が分身してように見えた。
そういえば、スクーターが突っ込んできた時もアルミちゃんは、自分達を守ると同時にバッグを取り戻していた。
「相手を突いて、そのまま腕が伸びっぱなしだと簡単に掴まれてしまいます。だから手をすぐに引くことは大切で、どんな格闘技でも基本中の基本として教えているのです」
「成程、それが得意だから、スクーターを弾きながらもバッグを取れたんだね」
「その通りです。でも、気軽に真似しないでくださいよ。鉄の塊なんて殴ったら拳が砕けちゃいますからね」
「でも、あの時のアルミちゃんは普通に殴ってたよね? 痛くなかったの?」
「こうすれば問題なしです」
アルミちゃんは手の平を僕に向けると、第一関節を折り曲げて見せる。まるで猫のニクキュウみたいで、可愛い。
「掌低を使って叩けば、拳を怪我することはありません。緊急時の護身にも最適です。相手の顎を殴れば脳震盪を起こしますので、機会があれば是非試してみてください」
「う、うん」
僕は壊れた人形のように、カクカクと首を縦に降る。
無邪気な笑顔を見せながら、人体の破壊方法について楽しそうに語るアルミちゃんに、僕は少しだけ恐怖感を覚えていた。
だが、アルミちゃんはまだまだ話し足りないらしく、中々アイスを食べる作業に戻ろうとしてくれない。
僕としては、そんな知識に詳しくなった所で生かせる機会なんて当分来ないだろうから、学生らしく学校の話や友達の話題で盛り上がりたいのだけど……。
と、そこまで考えて、この子は誰かとこんな話をしたかったのではないだろうか? という思考が脳裏を過ぎった。
今アルミちゃんが楽しそうに語っているのは、普段から話したい内容なのに話せないからではなかろうか? 男子同士ならまだしも、女子同士でこんな話題が取り上げられることはないだろう。
それに気付いてしまった僕は、どれだけ長くなっても、とことん付き合うことに決めた。アルミちゃんへの恩返しを目的としているのなら、アイスを奢るだけではなく、ちゃんと話も聞いてやるべきだ。
僕はたるんだ気持ちを切り替え、話を聞き逃さないように意識を集中させる。
だが、そんな想いとは裏腹に、話が切り上げられるのは早かった。
「あ、サルミだ」
突如、そんな声が聞こえてきて、アルミちゃんの口がぴたりと閉じられた。表情から笑顔が消え去り、頬を小さく引きつらせる。
押し黙った原因に、僕は直ぐに気付けなかった。
店内はそれなりに客が多く、楽しそうにお喋りをするお客さんの声でざわついている。その喧騒の中に、まさかこちらを攻撃しようとする言葉が紛れていたなんて、僕には分からなかったのだ。
「男の人と一緒にいるね」
「遊んでる暇があるなら英単語の一つでも覚えろよ、馬鹿なんだから」
アルミちゃんは顔を動かさずに、目だけで横を見る。
その視線の先を追うと、そこには二人の女の子が居た。
金髪の髪に、力の入ったメイクが特徴的な少女。肩の部分だけ露出した半袖のTシャツにミニスカートという、いかにもギャルっぽい格好をしている。
そしてもう一人は、そのギャルっぽい少女を更にグレードアップさせた雰囲気があった。
肩まで伸びた白い髪の毛先は黒く染められていて、まるでV系バンドの一員のようだ。紫に塗られた派手なアイラインに、同色のカラーコンタクト。黒銀色に輝くネックレスに、胸元に英語の文字が入った黒いシャツ、デニムのホットパンツ。そこから伸びる真っ白な太腿の先には、縞模様のニーソックスが履かれている。
なんとも派手な少女達だ。年齢は……見た感じでは分かり辛いが、アルミちゃんと同い年くらいだろうか? かなり年下とはいえ、僕個人としてはあまり関わりたくない人種だ。
「わっ、こっち見た。さっさと退散しよ?」
「だね……ごめんなさーい、そのアイス、やっぱり持ち帰りにして貰えます? 店内にサルが居るんでー」
それを聞いた店員さんが首をかしげると、その呆気に取られた顔が面白かったのか、二人の派手な少女はきゃはきゃは笑う。そして袋に詰められたアイスを手に取り会計を済ませると、何もなかったかのように出て行った。
僕が視線を正面に戻すと、いつのまにかこっちを見ていたアルミちゃんと目が合った。
その瞬間、視線がテーブルへと下げられる。
「さっきのあれ、友達?」
アルミちゃんは押し黙ったまま、何も喋ろうとしない。
背筋を丸め、視線を下に向けたまま、凍りついてしまったかのように動かないでいる。
あの一連の出来事の間に、僕には分からない何かがあったらしい。
『どうしたの?』と、聞いてみるべきだろうか?
……いや、やめとこう。誰にだって触れられたくないことはある。無理に聞き出そうとするくらいなら、あんな子達なんて最初から見なかったことにして、ジークンドーの話題を再開した方が良い。
「とりゃ、必殺ネコパンチ!」
僕はさっき習った通りに、手の第一関節を折り曲げてパンチした。
無造作に振るった拳が空振りする。
視線を上げたアルミちゃんは、小さく吹き出した。
「びっくりするくらい遅いですね」
「そうかなぁ? 初めてやったにしては上出来じゃない? これを喰らったら、流石のアルミちゃんでもノックアウトだよ」
「ふふ……そうかもしれませんね」
僕の冗談に、アルミちゃんは目を細めて笑った。
それが何だか嬉しくて、僕も同じように笑う。
「なんだか、こうやって穏やかに人と話したのは久々な気がします」
「そうなの?」
「はい、実は私、学校に友達がいないんです」
にこりと笑みを浮かべながら、なんてことのないような口調で、とんでもないことを言う。
「何があっても、僕はアルミちゃんの味方だからね」
つい勇気付けたくて、僕はそう断言した。
本心ではきっと、辛い気持ちでいっぱいだろうから。
「やですね、そんなに大げさに捉えないで下さい」
自嘲するような薄笑いを浮かべて、アルミちゃんは話し始める。
「えっと……恥ずかしい話なんですが、私は勉強がとても苦手です。中間期末テストではどの教科でも五十点以上を取ったことが無いのです」
「それは、なんというか……」
「その上、私は運動が得意ですからね。自慢じゃないですが、体育の授業なら男子以上に良い結果が出せます。……わかります? 運動が得意な女子なんて、おかしいですよね?」
「……珍しいとは、思うかなぁ」
体育は得意、だけなら分かるけど、男子以上となると、……ちょっと異常事態かもしれない。僕が困ったように口ごもる。
アルミちゃんはハァ……とため息を吐いた後、更に苛立ち爆発させた。
「ふんだ。どうせ私はお馬鹿なサルミちゃんですよ。真白井のマシラは猿のマシラだって、誰が最初に言ったのか、いつのまにかクラス全員がそう呼んでました。上手い事言ったつもりなんでしょうけど、ふざけんなって気分です」
吐き捨てるように言うと、乱暴な手つきでスプーンを掴み、貪るようにアイスを口に運んだ。
口の周りをベッタベタにさせながら、尚も怒りを爆発させる。
「ホント意味わかんない。なんで他人をこき下ろして見下して、それで満足出来るでしょうかね? 男子はまだ良いですよ、直接サルミってハッキリ言ってくるから、言い返しても後腐れがないです。でも、女子連中は影でヒソヒソ裏でコソコソ……どうしていいか分かんないですよ、こんなの」
「うーん……」
事のあらましは、なんとなく理解できた。
話を聞く限りでは、単に劣った部分をからかわれているだけで、それ以上に酷いことはされていないらしい。
本人が聞けばもっと怒るかもしれないけど、僕は少しだけ安心していた。
どうやら、性質の悪い虐めではないようだ。
まぁ、尋常じゃなく強いアルミちゃんが虐められること事態がありえないと思うけど、そこは学校という場所が持つ土地柄の恐ろしさだろう。アルミちゃんは、『自分だけが何故こんな目に……』と思っているかもしれないが、皆が皆、意外とそう思っていたりするんだ。そうこうしてもがいている間に、学校ってのはそういう場所だって気付いたりもする。
「アルミちゃんも普通の女の子なんだねぇ」
改めてそう実感する。誰しもが持つ悩みなんて、強いアルミちゃんには無縁だと思っていた。
でも、納得がいかないのが本音だ。
こんなに良い子なのに一人ぼっちなんて、どう考えたって変だろ。
これだけ強くて他人に優しくできる子なんだから、むしろ沢山の友達がいるものだと想像していた。
「私は学校では人を殴ったりしません。ジークンドーについて語ったりもしません。自分で言うのもアレですが、割と真面目……だと思います。でも何故か、こんなことになってて……」
怒りを全て出し切ってしまったのか、声のトーンが幾ばくか落ちてしまった。悲しそうに眉を伏せ、赤くなった目元が潤んでいる。
そんなに深刻に捉えなくていいんだよ、と言ってあげるのは簡単だ。だけど、そう告げた所で現状は何も変わらない。
「だったら、勉強の方も得意にしてしまおうか」
「え?」
「僕が教えてあげるよ」
「え、えぇぇ!?」
僕が当然のように言うと、アルミちゃんは驚愕の声を上げた。
「み、宮成さんって、勉強得意なんですか?」
「まぁ……学年テストで五番以内に入る程度には」
「す、凄い!」
中一程度の勉強くらい、高校生なら誰だって余裕だよ。……とは言わなかった。上から目線で偉そうにするのは同級生達だけで十分だろう。
僕はアルミちゃんの傍らに置かれたボストンバックを指差す。
なんで学校のカバンを持っているのか、ずっと不思議に思っていたのだ。
「そこに勉強道具が入ってるよね?」
「はい……アイスを食べ終わった後に、そのまま学校に行こうと思っていました。宿題で分からない所が多くて……補習にも参加してるんですけど、それでも理解出来なくって……」
「分かった。ならまず宿題を終わらせよう。分からない所は僕が教えるから、ここでやっちゃおうよ」
「……いいんですか? 何から何までお世話になってしまって」
僕は頷く。
勉強が苦手で酷いあだ名を付けられたのなら、勉強が得意になってしまえばいい。馬鹿にする要因が無くなれば、そう呼ぶことは出来なくなるだろう。
とはいえ、それはただの応急処置のようなものだ。周囲の悪口を止める効果しか無いのは、僕にも分かっている。クラスでの孤立は以前続くかもしれないし、むしろ逆に余計に鼻につくと思われるかもしれない。
だけど、このまま何もしなくても一人ぼっちなのは一緒だし、それに学生なんだから、勉強が得意になって損はないだろ?
僕の提案に戸惑っていたアルミちゃんだが、その表情から迷いが消えるのは早かった。
傍らに置かれた鞄から勉強道具を取り出し、テーブルの上に並べていく。
「覚悟して下さいね……私、馬鹿ですから、怒りたくなったら容赦なく怒鳴って下さい」
「そんなことしないって」
ていうか、アルミちゃん相手にそこまで強気になれる奴なんて居ないと思う。
でも、そう分かった上で言っているとしたら――難儀な勉強会になりそうだ。
✽ ✽ ✽
こうして突発的に始まった勉強会は、夕暮れ時になるまで続いた。窓から赤い光が差し込まれ、時間の経過に気付いた僕は作業を中断して頭を上げる。
アルミちゃんは右手で額を抑えながら、左手に握ったシャーペンを問題集に向けていた。
「……今日はここまでにしよう」
僕がそう言っても反応は無い。無視をしているのではなく、聞こえていないのだろう。
そんな凄まじい集中を遮るのは非常に申し訳ないが、そろそろ帰らないと家に着く頃には真っ暗になってしまう。
僕は両手を叩いた。パシンと弾ける音がして、驚いたアルミちゃんが訝しげに頭を上げる。
「もうちょっとなんです……もうちょっとで、数学が終わりますから」
「でも時間が時間だし」
「宮成さんに教えて貰わないと、進まないんです。お願いします、後もう少しだけ……っ!」
すがるような声を出し、一向に椅子から立ち上がろうとしない。だけど、焦りながらでは問題は解けないだろう。
勉強を教えてみて分かったのだが、この子は馬鹿ではない。
ただ、どうにも要領を掴むのが下手だ。
見たこともない文法や、初めて見る問題に直面すると、『分からない』という気持ちだけが暴走して何も考えられなくなってしまうらしい。
それを把握した僕は、分かりやすくて丁寧な説明を心掛けた。
焦らなくてもいい、ここには君を馬鹿にする人は居ないから、ちょっとずつ理解していけば良い。ゆっくりと噛み砕きながら教えるのは時間が掛かるが、結果的にはそれが功を奏したらしい。途中からは、アルミちゃんは殆ど質問をしなくなっていた。要領を掴めれば、後はその物凄い集中力が一気に問題を解いていく。
集団での授業だと、全体の流れに置いていかれてしまうのは仕方がない。でも、家庭教師でも雇えばすぐに勉強が得意になる気がする。
だから、アルミちゃんは馬鹿じゃない。
「うぅぅ……分かんない」
「だから焦って頑張っても仕方ないんだって……明日も手伝ってあげるからさ」
「本当に!?」
この驚き声にもずいぶん慣れた気がする。
当然のように返事をするのも、これで何度目だろう?
「流石に一日勉強しただけじゃ得意にはなれないよ。とりあえず宿題を終わらせて、夏休み明けのテストで良い点取って貰いたいなって思ってるんだけど……ちょっと押し付けがましい?」
「そ、そんなことないです。嬉しいです!」
「良かった。じゃ、帰ろっか」
店の外に出ると、焼け付くような気温は穏やかになっていた。
空にはまばらにちらつく雲が浮かび、その向こう側には鈍く光る太陽が透けて見える。
涼しげな風が吹いており、肌を撫でるようにして通り抜けていく。ずっと冷房を浴びていた体にはそれが心地良かった。
来た時のような急ぎ足ではなく、ゆったりとした歩調で帰路につく。
様々な建物が立ち並ぶ大通は、当然ながら人通りが多く、道路は車の渋滞が視界のはてまで続いている。
そんな混雑の流れに沿うようにして、僕等は並んで歩いていた。
「宮成さん、今日は本当にありがとうございました」
隣で歩くアルミちゃんが、僕を見上げながら感謝を告げる。
「美味しいアイスを奢ってくれただけでなく、まさか勉強まで見て貰えるなんて、……私は宮成さんにどうお礼を返せばいいのでしょう?」
「そんなの要らないよ。僕が昨日のお礼をしたかったんだからさ」
「……でも、やっぱり何かお返しがしたいです」
そう言ってくれるのは素直に嬉しい。
だけど、やっぱり僕がお礼を頂く云われは無い。もし昨日、偶然アルミちゃんが通りかかってくれなかったら、僕は働いて得た給料の全額を奪われていた。アイスを奢り勉強を教えた程度でその恩が全て返せ たとは思えず、むしろ、もっともっと僕に頼って欲しい。というのが内心の本音だった。
「宮成さんは欲しいものってあります?」
しかし、そんな僕の想いは通じていないらしい。柔らかな笑みを浮かべながら、そんなことを訪ねてくる。
これに僕は苦笑しながら答えた。
「なら格闘技について教えてよ。流石に本格的な訓練は難しいけど、護身術くらいなら身につけて損は無いだろうし」
よし、我ながらベストな回答だ。相手の好意を無下にせず、得意な分野に興味があることを示すのは悪くないだろう。
……と思ったのだが、アルミちゃんは首を横に振った
「それは、止めておきましょう。練習中に怪我でもしたら大変です」
アイスを食べていた時は、『一緒に稽古します?』と気軽に誘ってくれていたのに、まさか断られるとは思ってもいなかった。
「それに……何かあったら、私が守ってあげますから」
そう言ったアルミちゃんの頬がほんのりと染まる。
確かに、一から鍛えるよりはその方がてっとり早いかもしれない。
嬉しい半面、少しだけ複雑な気分だ。
アルミちゃんの助けを必要とする事態とは、昨日のカツアゲや、バイクが突っ込んで来た時のような、自分じゃどうにもならない危機的状態のことを指す。そんな状態に陥ることを期待されている気がして、ぞくりと寒気がした。
でもまぁ、そういう危険に身を晒さないように気を付ければ良いだけか。
対処法はいくらだってある。カツアゲにしてもひったくりにしても、一人でいる人間を狙うのが得策だからだ。なので、こうして今みたいに大通りを歩いているだけでも、そういった危険を避ける効果はある。
それさえ分かっていれば問題ない。アルミちゃんには悪いが、そんな機会は二度と訪れないだろう。だから、素直にありがとうとは言えなかった。
「あ、そうそう、明日の朝はバイトがあるから勉強会は昼からでいい?」
遠くを見るようにして目を逸らし、僕は明日の話を始めようとする。
しかし、アルミちゃんからの返事はない。
強引に話を打ち切ったのは不味かっただろうか?
そう思った僕が視線を戻すと、アルミちゃんが消えていた。
「ア、アルミちゃん!?」
驚いた僕が辺りを見回す。すると、遥か後方にその姿があった。
人混みの流れに逆らいながらアルミちゃんは来た道を逆走していく。小柄な体を俊敏に動かし、人との間に生じる僅かな隙間を縫うようにして進んでいく。
慌てて僕は追いかけるが、アルミちゃんのように上手く走れない。なんとか避けようとするのだが、肩と肩がぶつかり、見知らぬ人からギロリと睨みつけられてしまう。
「すみませんすみません、ホントにすみません」
小声で謝りながら、僕はアルミちゃんを追うものの、一向にアルミちゃんには追いつけない。このままではみるみる距離が遠ざかってしまう。
――と思いきや、アルミちゃんはピタリと足を止めた。
「アルミちゃん、待って!」
アルミちゃんは、大通りから逸れた脇道を見ていた。
睨みつけるような鋭い目つきで、脇道の先を食い入るように見つめている。その様子は真剣そのもので、とても声なんか掛けられそうにない。
同じようにして、アルミちゃんの頭上から道の先を見たものの、建物の陰が薄暗くて何も見えない。その先に何があるかは、奥に進まなければ分からないだろう。
嫌な予感がする。
僕の反省が無惨に砕かれてしまうような、最悪の予兆を肌身にひしひしと感じ取っていた。
「わ、私は、一体、どうすれば……」
振り返ったアルミちゃんは、慌てふためいていた。先程の獣のような瞳は見る影も無くなり、額からは汗がにじんでいる。
その様子から察するに、かなりの緊急事態らしい。
「この先で、何が起こってるの?」
僕が聞くと、アルミちゃんは絞り出すような声で説明した。
「えっと……さっきのアイス屋さんで、私のことをサルミって呼んだ女の子達、が、居ます。あの子達の悲鳴が聞こえました。何が起こっているかまでは分かりませんが」
「聞き間違えじゃなくて? 女の子なんて遊んでる時はキャーキャーうるさいもんだよ?」
「いえ、確実に悲鳴でした。間違いありません」
アルミちゃんがこれ程までに取り乱している時点で、分かってはいた。普段学校の同じクラスで聞いている声だから、聞き間違えはしないだろう。
だとしたら、アルミちゃんが動けないのも当然だ。
もし、この道の先でクラスメイトが襲われていたとして、それを暴力で解決してしまえば学校での肩身が更に狭くなる。ちょっと運動が得意なだけでクラスから浮いてしまったのに、自分の本気の能力を見せてしまえば、もっともっと嫌な目で見られるようになってしまう。
この状況は、僕を助けた時とは訳が違うのだ。
でも、アルミちゃんは本心では助けたがっている。アイスクリーム屋での一件があったにも関わらず、あの子達を助けようと考えている。
本当に優しい子なんだ。
だから僕は、彼女の為に恩返しがしたいと思った。その気持ちはあの時から、ずっと変わっていない。
「よし、それじゃ僕が見てくる。アルミちゃんはここで待ってて」
そう言った後で、ごくりと生唾を飲み込んだ。恐怖心をぐっと押さえ込み、薄暗い脇道を見据える。
ぐずぐずしている暇はない。アルミちゃんを押し退けるようにして、僕は一歩を踏み出した。
「ま、まってください、危ないですよ!」
アルミちゃんが僕の袖を掴んだ。
「大丈夫だって、ちょっと見てくるだけだし、それにやばそうだったら携帯で警察呼ぶから」
僕はアルミちゃんを安心させようと、あっけらかんとした口調で答える。だけど内心では、警察に頼る気なんてさらさら無かった。警察を呼んだ所でこの交通量の多さでは到着が遅れてしまうことは分かりきっている。必要なのは今すぐ助けに迎える人で、それが現状では僕以外に居ないのだ。
僕は捕まれた手を強引に振りほどき、一気に走り出した。
脇道は建物の陰に覆われていて、不気味なくらいに薄暗かった。大通りから遠ざかるにつれて喧噪が聞こえなくなり、自分の足音だけが周囲に反響する。
分かれ道は見あたらず、まっすぐに伸びる道をひたすら前進する。先に待ち受ける何かに恐れを抱きながらも、ペースを緩めることだけはせず、むしろ心臓が破れそうになるくらい全力疾走だった。そうでもしないと恐怖に負けて引き返してしまいそうだったからだ。
そのかいあって、五分もしない内に人影を見つけられた。
そこには四人の男女が居た。二人の男がそれぞれ女の腕を掴み、女は引き剥がそうと必死に抵抗しているようだ。
「おい、やめろ!」
僕は大声を上げる。それに反応した四人は動きを止め、ほぼ同時にこちらへと顔を向けた。
近付くにつれて、その姿が鮮明になっていく。
陰に隠れていた輪郭が、明確なものへと変わっていく。
「……あ」
人影の正体がはっきりした瞬間、僕の口から間の抜けた声がこぼれ落ちた。
そして、どうやら向こうも僕を理解したらしい。
金髪の髪をハリゼンボンのように逆立てた男と、黒いサングラスにタンクトップの男。
そこに居たのは、昨日の夜、僕を襲った二人組だった。
まさかの再会に思考が停止してしまった僕等は、無言のまま見つめ合ってしまう。
口火を切ったのは、金髪の男だった。
「おいテメェ、昨日の暴力女はどうした!」
少女を掴んだまま大声で吠える。その表情は引きつっている。
彼が聞くのも当然だ。アルミちゃんに蹴り倒された記憶はトラウマになっていても不思議ではない。こんな時に再開してしまえば、また昨日のように叩きのめされると思ったのだろう。
「そんなことより、その子達をどうするつもりなんだよ」
「うるっせぇ! いいから答えやがれ!」
「……今は居ない」
僕が答えると、金髪の男は明らかにホッとした様子だった。強ばった表情から力が抜け、口角をいやらしく釣り上げる。
「お前一人かよ。それで何だ、偉そうにお説教かましに来たわけか?」
「悪いことやってる自覚があるなら、辞めましょうよ。」
「嫌だね。つーか、お前等が悪いんだぜ? 俺が女で遊ぼうとしたのは、昨日の憂さ晴らしがしたいと思ったからなんだぜ?」
金髪は、ヘラヘラと人を馬鹿にするような笑みを浮かべる。僕が苦い表情になったのが嬉しいらしく、調子に乗った金髪は更に汚い言葉を投げかけた。
「テメェみたいな男よりも、女と遊ぶ方が百倍気持ちいいもんな。男からは金を奪えばそれで用無しだけどよォ。女は捕まえて、人気のないトコに連れていけば、後は好き放題オモチャにしてストレス発散出来るんだからなァ」
「イヤァァァ!離してえぇ!!」
金髪の言葉を間近で聞いた少女が、金切り声を上げた。
だが、男が掴んだ手の平に力を込めると、少女は苦痛に顔を歪め、大人しくなった。まるで諦めてしまったように、虚ろな目を地面に伏せる。
「おい、この女を捕まえとけ」
金髪が、掴んでいた少女を後ろへ押しやり、サングラスの男がそれを捕まえる。
両手が自由になった金髪は、僕を鋭い目で見据えた。
「お前には借りがあったからなァ、返してもらうぜ。宮成鞘都クンよぉ」
「……借りがあるのは、僕にじゃないだろ」
「アァ?」
凄んでみせる金髪に対して、僕の口は驚くほど饒舌に動いた。
「カッコつけんなよ、中学生の女の子にボコボコにされた金髪クン。お前のそれはただのやつあたりだ。何が借りだ、取り繕ってんじゃねぇぞ」
「……ぶちのめす」
喉の奥から発せられた低い声は、僕をビビらせるには十分だ。ここまで大口を叩いておきながら、その恐怖に全身が硬直してしまう。
だから、目前に向かってくる拳に対して、避けることも守ることも出来なかった。
眉間に激突した瞬間、瞼の裏で火花が弾ける。正面からまともに殴られた僕は、そのまま背中から後ろに倒れた。
ズキズキと、まるで焼けるような痛みが額から発せられる。
「ま、ただの口だけ野郎だってことは分かってたけどな」
嘲るような声が頭上から発せられ、金髪は僕の傍らに立ち、カカトを肩に振り降ろした。
瞬間、突き刺すような痛みに苦悶の声を漏らす。
「うぐっ……」
サディストな笑みを浮かべ、金髪は僕を見下ろした。
「テメェみてぇな口だけ野郎はジワジワ虐めてやるよ。仲間も呼んで、全員でボコってやる」
どうやら、僕を虐めるのが楽しくて楽しくて仕方がないらしい。ゲヒッケヒッと、過呼吸にも似た呼吸を繰り返しながら、カカトを更にぐりぐりと捻るようにして押し込んでくる。
僕は悲鳴をグッと飲み込み、その伸びきった足を睨みつけた。
アルミちゃんに教えてもらったことを思い出せ。
あの子の格闘技、《ジークンドー》は、流れる水のような動きで相手を瞬殺するのが理想だと言っていた。その理念を体言するように、アルミちゃんの動きは素早く、繰り出される拳や蹴りは目にも留まらぬ速さだった。
そんな彼女が言う自分自身の長所は、引きが速いこと。
繰り出した拳をそのままにすると間接が捕まれるので、どんな格闘技でも素早く引くのは基本として教えている。
――と、あの子は言っていた。
「テ、テメェ!!」
僕は倒れた姿勢のまま、両手で金髪の足を掴んでいた。左手で臑を掴み、右手で膝裏から間接をわしずかみにする。
そして、掴んだ足を肩から引き離すと、僕は強引に投げ飛ばした。
体制を崩した金髪は地面に倒れ込む。
それと同時に僕は起き上がり、サングラスの男へと走る。
「逃げる準備をして!」
僕は大声で叫び、二人の少女を見た。
青ざめた顔の少女達は驚きに目を見開き、そして、小さく頷いた。
それを確認した僕は再び、アルミちゃんの教えを思い出す。
鍛えていない手で殴ろうとすると、拳を怪我してしまうかもしれない。だけど、掌低を使えばシロウトでも怪我することなく殴ることが可能。
女の子達を捕まえ、両手が塞がっているサングラス男に己を守る術は無い。女の子を盾にしようとしても、少女達はそれぞれ逃げだそうと抵抗しており、むしろ捕まえたままでは全身ががら空きになってしまう。
僕はサングラス男の目前まで近寄ると、右手の肘を引き、渾身の力を込めた。
食らえ! 僕の必殺、驚くほど遅いネコパンチ!
がら空きの顎をめがけて、掌低を一直線に打ち出す。
顎にまともに入れば、どんな相手でも脳しんとうを起こして立ち上がれなくなる。……らしい。
――が。
僕の掌低が捉えたのは、サングラス男の腕だった。
僕の腕よりも二周りくらい太い腕が、僕の攻撃から身を守っていた。
その指先には、何も掴まれていない。
サングラス男の肩口から後方を見やると、二人の少女が一目散に走り去っていた。
どうやら、無事逃げ出せたらしい。
みるみる小さくなる背中を見つめて、ほっと息を吐いた。
次の瞬間、サングラスの男が僕の右頬を殴った。
完全に油断していた僕はよろめき、後ろへ後ずさる。すると、既に立ち上がっていた金髪が僕の足首を 蹴り上げ、尻から地面に落下させられた。
頭がぐわんぐわんと揺れる。
まるで回転椅子に座って振り回された後みたいに、視界の焦点が定まらない。
「やってくれたなぁ、よく頑張ったよ」
金髪とサングラス、二人に僕は取り囲まれてしまう。
「ヒーロー気取りなテメェは女を助けたみたいだけどよ、それで誰が、テメェ自身を助けてくれるんだ?」
いつのまにか手に携帯を持っていた金髪は、手慣れた様子でメールを打ち始める。僕にはそれを止めることが出来ず、ただ呆然と、仲間を集めようとする様子を見つめ続けていた。
「マジでボロ雑巾にしてやるからな、覚悟しろよ」
吐き出された脅しの言葉を聞いて、歪んだ視界がようやく元に戻った。どうやら、殴られたショックで軽く意識が飛んでいたらしい。
冷静さを取り戻した僕は、思わず悲鳴に似た叫びを上げた。
「や、やめろ! それだけは駄目だ!」
「今更助かろうってハラか? なら命乞いでもしてみるんだな。聞いてやらねぇけど」
「違う! 俺は君等とその友達に言ってるんだよ!」
「ハァ? 何言ってんだお前?」
「いいか、アルミちゃんはもの凄く耳が良いんだ。昨日、僕を助けに来てくれたのも、今日、女の子を襲うお前等を見つけたのも、全く同じ理由なんだ。襲う人間の罵声や襲われる人間の悲鳴を聞きつけてやってくる。そんな彼女が今までこなかった理由は、自分の力を同級生に見られたくなかったからで、あの子達が居なくなった今最も危険なのは――」
早口でまくし立てる僕の後ろで、トン、と小さな足音が聞こえた。
僕は目だけで後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、言わずもがな――堅く握られた拳をわなわなと振るわせている少女。
彼女はしゃがんで僕の側に寄り添うと、そっと耳打ちした。
「危なくなったら逃げるって……さっき、そう言いましたよね」
怒気の籠もった静かな声。
それが耳の中を通り抜け、そのまま心臓に突き刺さったような気分だった。金髪のくだらない脅しのセリフよりも百倍くらい恐ろしい。
「なんで私に嘘吐いたんですか?」
「いや、その、アルミちゃんの為に何かしたかったんだ」
「私だって、宮成さんの為に何かしたいんですよ? 私の気持ち、分かってた筈ですよね」
「う、うん。ごめん」
「もういいです、宮成さんの馬鹿」
アルミちゃんは大きなため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……でも、ありがとうございました」
そして一歩だけ前進し、野生の獣のような目で二人の男を睨みつける。
「あなた達、仲間を呼んだんですよね? 何人来るんですか?」
「……」
「聞いてます?」
無視されたアルミちゃんが、その場で地面を蹴った。
すると、その小さな足から、鋼鉄同士をぶつけ合うような鋭い音が発せられ、辺り一帯に反響する。それを聞いて、まるで魂が抜けてしまったかのように白くなった金髪が飛び上がりつつ答えた。
「お、おおおぉぉぉぉぉぉそうだ! 今から八人は来るからよォ。謝るなら今の内だからな!」
「八人、か……相手の武器次第では、楽しめそうかな」
「ア、アルミちゃん、何をする気なの?」
僕が聞くと、くるりと振り返った彼女の表情は、寒気がするくらいの笑顔で
「ただの八つ当たりですから、気にしないで下さい――まずは、そこの!」
そのまま更に一回転すると、無防備な背中を隙だと勘違いした金髪に、強烈な回し蹴りを放つ。
金髪の拳よりもずっと早く、右こめかみを蹴りが捉えた。
建物の壁に全身をうちつけた金髪は、そのままずるずると腰を落とし、動かなくなった。
「大丈夫です。手加減してますから」
僕が聞くより先に答えられてしまう。
「私は、ずっと考えていました。私の力は、何の為にあるのだろうって。必死に頑張って、稽古を繰り返して手にした能力で、私は何をすればいいのだろうって」
僕に背を向けたまま、アルミちゃんは語る。
「でも、ボロボロになった宮成さんを見て、百店満点の答えが出ちゃいました」
なんとなく、その表情は晴れやかなものだろうと想像が付いた。
「あなただけは、私が守ります。これから先絶対に何があろうと……後悔は、今日だけです」
いつのまにか、この前と同じように消えていたサングラスの男を意に介せず、アルミちゃんは仁王のように立ち続ける。
程なくして、見た目が派手な連中やってきた。
わらわらとやってくる仲間の多さに、愕然とさせられる。どう見ても、十人を越えた仲間が集まっていて、まるで人だかりのようになっていた。彼等は押しつぶすような圧力となって、僕等の元に近寄ってくる。
僕は尻餅をついたまま、後ろからアルミちゃんの袖を引っ張った。
「やっぱり逃げよう相手が多すぎる!」
しかしアルミちゃんは、そんな僕の提案を無視して、にっこりと笑う。
「大丈夫です」
「な、なにが!?」
「こう見えて私、結構強いんですよ」
✽ ✽ ✽
翌日、僕はバイト先でレジを打っていた。
頬にガーゼを張っているので、お客さんには驚かれてしまうのだが、額の包帯は昨日の間に取ってしまった分、まだマシな反応だと思える。
あの後――アルミちゃんが金髪の仲間達を全員なぎ倒した後で病院に行ったのだが、対した治療は施されなかった。包帯は明日になったら取っても良いと言われたので、まぁバイトにも支障はないだろうと判断した。
レジを打ちながら、ちらりと時間を確認する。
現在の時刻は十二時五十分。後十分でバイトが終わる。
それからは、あの子の勉強会だ。
「やっほー、昨日ぶりだねー怪我は大丈夫?」
「あ、ナリミヤさんホントにいた~」
十分後、店の外で待っていた僕は目を瞬かせた。
やってきたのは二人の少女だった。アルミちゃんと同じ中学校の制服を着ているが、気安く話しかけられるような知り合いなんて僕には居ない。
だけど、その顔にはなんとなく見覚えがある。
……思い出した。昨日、アルミちゃんのことを馬鹿にしていた二人だ。ケバい化粧が一切無くなっているので、なかなか気付けなかった。
「「昨日はありがとうございました!」」
元気な声が盛大にハモる。そう言った彼女達は僕に頭を深々と下げた。そんな光景を、店内から出てきた買い物客が、訝しげに眺めている。
嬉しいが、それ以上に恥ずかしくなった僕は「もう分かったから」と上擦った返事をする。
「アタシ、逆島刹那。アルミの同級生! 今日はよろしく」
「わたしは折部佑樹です~」
「あ、あぁ、僕は宮成鞘都、です、けど……」
つい反射的に自己紹介を返してしまった。
で、どういう状況なの、これ?
そして、そんな彼女達の後ろから、遅れてアルミちゃんがやってきた。目の下には青い隅が刻まれていて、顔色もどことなく悪い。おぼつかない足取りに、ゆらゆらと不規則に揺れる体は、まるで今にも倒れてしまいそうだった。
見かねた僕は、慌ててアルミちゃんの元へと駆け寄る。
「アルミちゃん、どういう状況なのこれ!?」
僕が訪ねると、掠れた声で説明を始めた。
「昨日、二人からメールが来たんです……宮成さんについて教えろって……それが、朝まで続いて……それから兄と日課の稽古をして……今に至るという訳です」
「もしかして、寝てないの?」
「大丈夫です……稽古中に蹴りをモロに受けて、十分くらい眠りましたので……」
「それの何処が大丈夫なの!?」
「あはは……あぅっ」
突如、アルミちゃんの足がガクンと揺れた。転んでしまいそうになる彼女の体を、僕はとっさに受け止める。
胸に顔から倒れ込んだアルミちゃんは、寝息をたて始めてしまった。
「あはは、アルミったら大胆だねぇ」
「いいなあー、わたしもギュっとされたい」
「……」
後ろから追ってきた二人が、好き勝手な感想を述べる。
アルミちゃんがこうなった原因は君達にもあるんだぞ、と怒るべきだったのかもしれない。
だけど、僕の胸で眠るアルミちゃんは穏やかな寝顔をしていた。むにゃむにゃと小さな寝言を呟きながら、微笑みすら浮かべている。
きっと嬉しかったんだろう、同い年の女の子同士で話が出来て。
それがすぐに分かってしまったから、僕は何も言わずに、ただアルミちゃんの頭を優しく撫でた。
よかったね、頑張ったね、アルミちゃん。
「で、君等も宿題終わってないの?」
僕が不意打ちのように聞くと、二人の背筋がシャンと伸びた。そして罰の悪そうな顔になり、えへへ、と困ったように笑う。
それはまるで、隠していたイタズラがバレた子供のような反応だった。
「お願いします~、優しくて格好良いナリミヤさん」
「宮成くんと勉強したらアイス奢ってくれるんだよね?」
思わずため息を吐いた。アルミちゃんから何を聞いたのかは知らないが、色々間違ってる。
「僕の名前はミヤナリだし、それにアイスなんか奢らないからな」
「えぇー!? アルミだけズルい!」
抗議の声を無視して、僕はアルミちゃんを背中でおんぶした。彼女の体は小柄で柔らかくて、ほんのりと暖かい。
「ここから十分くらい歩いた所にファミレスがあるから、そこまで行くよ」
「えぇー、ファミレスなんかつまんない! もっとオシャレなトコがいい!」
「大声出すな、アルミちゃんが起きちゃうだろ」「やだやだやだ!」
「だから静かにしろって……」
くっ、これが現役中学生の実態か。
シャツの腹の部分を捕まれてしまって、思うように動けなってしまった僕は、あまりの面倒臭さに逃げ出したくなってしまう。
そんな時、ふいに背中のアルミちゃんが身を捩らせた。無理に抵抗すると、揺れで起きてしまうかもしれない。そんな、どうにもならない状況に気付き、観念した僕は、ほとんど嘆くように言った。
「あーもう、分かったよ。昨日のアイスの店でいいんだな?」
「うん! やったー!」
「本当に良いんですか、ナリミヤさん?」
「いいよいいよ、もう皆の分も奢るよ!」
逆島刹那と、折辺佑樹。
この子達ならアルミちゃん友達になってくれるかもしれない。
そう、この状況は、ワガママ娘達と仲良く話す絶好の機会なのだ。そんな大事なものを、僕が潰してしまう訳には行かないのだ。
払ってやりますとも、アイス代くらい。
作ってやりますとも、楽しく話せる場所くらい。
僕の恩返しは、まだまだ終わらないのだから。
「それじゃ、行くよ」
「「はーい!」」
僕が歩き始めると、元気な声と共に二人がついてくる。
なんとなく、背中のアルミちゃんが笑ったような気がした。