三話 朝になって
気がつくと朝だった。夕食を食べた記憶がアーネティリスには無い。
ぼーっとした意識はまるで、風邪をこじらせて熱が出ているような感じ。現実感がいまいち掴めずに、フワフワとした寝起き特有の心地よさに似ていた。もう少し寝ていたかったが。
「んぅ……」
「……っ」
隣にはブカブカのローブを寝巻き代わりに、スヤスヤと寝息を立てる少年。幸せそうな寝顔は見ていて表情が緩む。普通ならかわいらしさを愛でるべきだが、そんな余裕は吹き飛んだ。
一瞬で意識が覚醒していく。
何があったかを思い出す。
唇を奪った少年は当たり前のように籠を抱えて、アーネティリスの手を引いた。家の中に入った二人は、無言でパンの生地をこねて丸めるとナイフで切り込みを入れてオーブンへ。
無言だったのはアーネティリスのみ。少年は嬉しそうに――まるで、こんな作業をずっと夢見ていたかのように、幸せそうに笑って話しかけてきた。生憎、内容は覚えていなかった。
それからパンが焼けるまでの間、少年はなれた手つきで紅茶を淹れてくれた。思考という名の機能が固まったままの魔女は、差し出された紅茶を飲んだ。自分が淹れるより美味だった。
それから食事を取った。その後はいつものように風呂へ。先にアーネティリスが入り、後から少年が入った。別に世話などする必要などないのに、着替えが無い彼のために着られなくなったローブを引っ張り出した事を覚えている。それを着せてやった時の、嬉しそうな顔も。
二人はそのまま二階にある寝室へ。
そして――朝になった。
「どうして……」
傍観者のように感じた記憶に戸惑い、無意識に彼を世話した自分に戸惑う。彼に食事を与えて服を貸し与え、寝台まで貸してやった……それらの記憶が、あまりにも遠かった。
いきなり唇を奪われたのに。
そもそも、名前さえ知らない相手なのに。
魔女の森と呼び恐れられる、あの森を抜けてきた少年。ぞっとするほどの危険をはらんでいるに違いない。それなのに寝床まで一緒にした事が、アーネティリスは理解できない。
いっそ、この場で消し炭に変えてしまおうか。寝台など作り直せばいい。元から実験が長引くと床や椅子で眠る事も多かった。しばらく寝台が無くても別に困る事はないだろう。
魔力が爆ぜる。
迸る殺気。
アーネティリスの手が、ゆっくりと少年に伸びる。
人を殺めるなど初めての事ではない。山賊の類ならそれこそ三桁は葬った。旅をしているとどうしてもその手の輩と遭遇する。そのたびにアーネティリスは彼らを炭に変えていた。
大人でも軽々と殺められるのだから、それよりずっと小さな子供など楽勝だ。
圧縮した魔力を炎の形に組み立てて――放つ。それだけ。
「ん……?」
まるでそれを感じ取ったかのように、もぞりと少年が動く。集中していた意識がぱっと霧散していき、それに引きずられるように音を鳴らしていた魔力もまた消えていった。
小さくした打ちしながら、アーネティリスは頭をかく。それからボサボサになった長い髪を手櫛でさっと整えて、目覚めたらしい少年の完全な覚醒を待った。
「おふぁよーぅ、アーネ」
「……は?」
呂律が微妙な言葉を奏でる声。
にはー、と無邪気に笑った少年は子供が母親に甘えるように、アーネティリス目掛けて飛びついてくる。寝台の上では逃げられず、腕の中に少年を抱く事になった。
かっと頬が熱くなった。他人にここまで密着された事は無い。昨日の事といい、この少年の行動はまったく先読みができなかった。どう対処するべきなのか、まったくわからない。
「何を、言っているのです?」
ようやく搾り出せたのは、すべてに向けた疑問だった。
けれど少年にアーネティリスの疑問は、何一つとして伝わらなかったらしい。彼は少しきょとんとした顔をして、すぐにまた笑顔に戻った。呆れるくらいに、無邪気だった。
「おはようっていったの。朝のあいさつ」
「いえ、そうではなく、名前……」
「名前? あのねあのね、ボクはレスト! アーネとけっこんしたくて、きたの!」
「……」
人の話を聞かないガキだ、とアーネティリスは思う。いや、直球でしか聞こえていないのかもしれない。相手が戸惑っていることなどを受け取らず、ひたすら言葉の意味のみを拾う。
一切拾わないよりはマシかもしれない。
だがどちらにせよ、イラつく事に変わりは無かった。
とにかく無意識に名前を聞かれて答えていたらしいと予測は付く。やたら親しげなのも、名前を教えあったという関係からだろう。……結婚云々は、どうやら違う話のようだが。
「年上の女性を呼び捨てにするのは止めなさい。それと勝手に略さない」
「だってアーネがそうよんでいいって言ったのに……」
「いつですか」
「ばんごはんの時! アーネティリスがながいから、アーネってよんでいいって言ったらいいよって笑ってくれたの! それでねそれでね、ボクはレストなの!」
「……そうですか」
まったく記憶に残っていないが、ここまで嬉しそうに話すならば真実なのだろう。余計な事をしてくれたなと、無意識の自分を詰る。終わってしまった事とはいえ、腹立たしい……。
これからどうすればいいのだろう。
レストという名前しか知らない少年。追い出すというのが最良に思えた。だが、何故かそれを選ぶ事をよいと思えない、そんな自分の心があった。まったくもって自分の心が意味不明。
一人考え込んでいると、ふいにレストが恥ずかしそうにアーネティリスの服を引く。
直後、彼のお腹が小さく鳴った。顔が一気に真っ赤になる。
「……あ、あのね、おなかすいたかも」
「そうですね、朝食にしましょう」
悩んでも仕方が無い。とりあえず食事くらいは与えてやろう。立ち上がったアーネティリスは先に一階へと降りていく。スープは残っていないかもしれないから、何か作らなければ。
人がいいのか悪いのか。さっきまで本気で殺そうとしていたのに、とアーネティリスは呆れ気味に苦笑した。慣れない『優しさ』に戸惑い、気付けば思考は彼の服に移っていく。
服なんてどうでもいいのに、と自らつっこんでおく。だって、彼は今日にでも町へ送っていくのだから。適当な機関に『迷子です』と。それですべて終わらせる事になっているのだ。
ヘタに優しさを思い出してしまったから、こんなバカな事を思うようになったのか。納屋から取ってきたパンの生地を捏ねるための板に叩きつけ、アーネティリスはため息を漏らす。
ただ目覚めて、会話をして、納屋からパン生地を取ってきただけなのに。会話をした以外は普段と何も変わらない。誰かに向かって声を発するという事が、これほど疲れる行為とは。
慣れない事はするべきではない。
「アーネ!」
呼ばれて振り返れば、そこにはレストの姿。まるでお姫様が引きずりそうな丈のドレスを着ているように見えなくも無い。子供の頃の服なので装飾も過多だから、よけいにそう見える。
レストの髪はそこそこ長かった。三つ編みを三段くらいは作れそうな長さだ。
彼くらいの体系の頃に来ていた服の中には、確かドレスもあったはず。あやふやになった記憶と彼を頭の中で重ね合わせてみた。……意外と似合いそうだ。
「ねぇ、ボク何を着ればいいの?」
「とりあえず、今日は買い物に行くので買ってきて上げます……じゃなくて、あなたも一緒に町に行ってご両親のところへ帰りなさい。いいですか? わたしは子供を養う気など」
「子供じゃないよー。それと帰らないからね。だってボクはアーネとけっこんしたくて、ここに来たんだから。ボクがアーネのおむこさんだよ!」
「……」
一瞬、殴ろうかと思ってしまう。
だいたい、結婚する気など一度も持った事がない。ましてやレストのような『お子様』など論外だ。それなら金を持っていそうな貴族の後添えか愛人になった方が、まだ利益がある。
無意識に握った手から力を抜きつつ、アーネティリスは嬉しそうに笑いながら立っているレストを睨みつけた。彼には通じない気もするが、そうでもしないと彼女の精神がもたない。
「ねぇ、何作ってるの?」
「……パンですよ。一緒にやりますか」
「やるやるー。あのね、きのうよりはずっとじょうずにできるからね!」
アーネティリスが半分に割った生地の片方を、板の上でこね始めるレスト。そういえば昨日も一緒に作業したのだった。あの時はこねるのはいいが成形作業に手間取っていた気がする。
しかし一階の作業でコツを掴んでいたのか、レストの手つきはサマになっていた。子供の成長は早いのかと思い、アーネティリスは眺めながら手を止めてしまう。
「アーネ、つかれたの?」
「え?」
「つかれたならボクがやるね!」
貸して貸して、と生地をさっと取るとこねて丸めていくレスト。しばらくぼけっとその姿を見ていたアーネティリスだが、はっと現実に帰ると他の作業に取り掛かり始める。
思った通りにスープの残りは無い。つまり、何でもいいから作らないと、パンだけを食べる事になるのだ。納屋にはチーズとバターもあるが、どちらもおかずとは言いにくい。
やはりスープかサラダ……せめてスープか。アーネティリスはさっき見てきた納屋の中の記憶を引っ張り出すと、その中を念入りに調べ始める。スープの材料になりうるモノを探した。
バターは必要だろう。コクが出て、味に深みが出てくる。
干し肉の類はあっただろうか。探しに行かないとわからない。家の裏にある菜園から野菜を引っこ抜いてこなければいけないのは、干し肉の有無がどうであれ間違いないだろう。
「レスト、わたしは朝食の材料を取りに納屋に行ってきます。もしも納屋にいなかったら裏の畑にいるので、何かわからない事があったら来なさい。いいですね?」
「はぁい」
「ではパンは頼みました。焼き方はわかりますか?」
「うん、何度か見た事があるし、昨日アーネが教えてくれたよ」
「……そうですか。ではよろしくお願いします」
いってらっしゃーい、という声を聞きながらアーネティリスは外へ。納屋の前まで来て籠を持ってくるのを忘れた事を思い出すが、中にも籠があったはずと思い出して戻る事をやめる。
それに、できるだけレストから離れていたい。
いつも一人だった。他人と一緒にいる事にアーネティリスは慣れていない。普段通りに冷たさをこめた口調で応対しているのに、彼は平然とそれを受け入れてしまっている。
あの口調で話しかければ、どんな相手もすごすごと逃げたのに。
調子が狂う。
このままだと壊れてしまうかもしれない。
「どうしよう」
つぶやきながら、アーネティリスは運命を呪う。確かに、善行ばかりしてきたと、言えるような人生ではなかった。なかったけれど、こんな目にあうほど、悪行を重ねた覚えもない。
しばしの間は、ため息が隣人になりそうだった。




