第十五話 記憶に蔓延る悪夢
この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
――物語は五年前に遡る。
その日はいつもと変わらない日だけど、特別な日だと思っていた。
だが、そんな一方的な楽観は放課後の帰り道に消え去る事となる。
まだ幼い面影を残した少女は友人からの誘いを断って、家族の待つであろう家へと真っ直ぐに向かっていた。
短い足を一生懸命に忙しなく動かしながら、姉の誕生日を祝うために急いでいたのだ。そしてその手には少し前から姉の為に作った似顔絵が握られていた。
高等学校に通う姉よりも比較的少女の通う学校の方が授業が終わることが早いため、先に家に帰って姉が玄関の扉を開けると同時にプレゼントを渡そうと思ったのだ。
元々運動が得意ではない少女にとって僅か数分の道のりも息があがるには十分な距離であった。
どうしても身体が気持ちに追いつかない。
必然として走る速度も遅くなってしまう。
それでも大好きな姉の顔を思い浮かべると立ち止まりたくはなかった。
しかし子供の体力には限界がある。自然と下を向きがちになった少女がふらつきながらも脚を動かしていると、前方から声が掛かった。
いや、声を掛けられた気がしたのだが、そこには誰もいない。
「?」
気のせいかと思い、少女は再び家へと足を進めようとしたところで、今度は後ろからはっきりと呼び止められた。
「失礼、そこにいらっしゃるのはミレットお嬢様ではございませんか?」
その声に少女――ミレットは視線と身体を動かすと、そこには父の部下であるフエル・ノイトが立っていた。
フエル・ノイトは父が経営するブルドオムスでも一、二を争う大企業の優秀な社員であり、その実績を買われて一つの大きなプロジェクトを任されている。容姿は細身で無駄な贅肉といったものがなく、子供なからも見て分かる位に高級そうなスーツを着こなしていた。
「…………」
当時、内向的な性格であったミレットは数えるほどしか会話した事がないため、緊張してしまって返事が出来ずにいた。
どうしようどうしたらいいの、と段々と不安になってくるミレットにフエルは優しい笑みを浮かべて彼女に話し掛けた。
「ああ、申し訳ございませんでした。突然声を掛けられれば何方様でも驚くというもの。このフエル・ノイト、配慮が足りませんでした」
深々と頭を下げるフエルにミレットは慌てる。
「い、いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。あ、頭を上げて下さい。あの、父様の仕事の方ですよね?」
「はい、その通りでございます」
社長の御息女から許しを頂いた男は出会った時と変わらず、気品を以て姿勢を正した。仕草の所々にエリートながらも礼儀を重んじているのが感じられる。
だからこそ、父は安心して彼に社運を賭けたプロジェクトを任せているのかもしれない。
社運を賭けた一大プロジェクト――まだ子供と呼んでもいい年齢だったミレットには難しくて理解出来なかったが、それが実現すると今後の人々の生活に大きな利益を齎すと云う事だけは理解していた。
この話も社交界で周囲の大人たちが話し合っているのを小耳に挟んだ程度であったが、それが会社にとって非常に期待を寄せている事はミレットも自覚している。
つまりフエル・ノイトという人物は今や知る人ぞ知る重要人物なのである。
「あの、どうしてフエル様がこのような場所にいらっしゃるのでしょうか?」
そうその人物がどうしてここにいるのか。ここには特に何も娯楽や事業に通じるものはなかったはずなのに、この時間、この場所にいる事に対しての疑問が浮かぶ。
もしかしてこの近くに友人でも住んでいるのでしょうか、と少女らしい事を考えていると、彼は隠す事でもないとばかりにあっさりと口を開いた。
「簡単な事です。ミレットお嬢様のお帰りをお待ちしていました」
「え……?」
フエルが言った内容の意味が理解出来ず、ミレットは固まってしまった。
硬直する彼女を察したフエルは再び頭を下げる。
「申し訳ございません。また言葉が足りなかったようですね。正確には本日のイリアお嬢様のお誕生パーティに私も出席する事になりまして、ミレットお嬢様をご自宅までエスコートさせていただく事になりました」
「そうでしたか。でもそれなら校門の前でも構いませんでしたのに」
「はい、私もそう思いましたが、社長からミレットお嬢様は車での送迎をお嫌いだとご忠告と共に承っておりました。また他人からその様な特別な目で見られる事に懸念を抱かれている事も。以上の過程から、こうして目立たぬ場所で待たせていただいた次第でございます」
「そうでしたか」
フエルの話を聞くと、確かにあの父ならその様な事を言いそうだとミレットは苦笑混じりに納得した。
一般的に大企業の社長と云うものが非常に多忙なのは少女も知っているが、イリアとミレットの父であるウェルス・フォウントは少し世間一般の社長像とは違っていた。
ウェルス・フォウント――七代続く名家の跡取りであり、アドバンスド・ワンと云う大企業を経営する社長でもあるが、ミレットや家族にとっては異なる認識をもっていた。
親馬鹿。家族愛に秀でた男。家族最高主義者。これらはミレットの思っている事ではなく、世間一般から思われ、評価されている事だ。だからといって酷評ではない。それだけ家族を愛して家族の為に時間を割いているにもかかわらず、アドバンスド・ワンを誰よりも上手く経営し、トップの座に君臨し続ける能力を評価する彼への賛辞なのだ。当然、ウェスル・フォウントも世間の動向には聡く、自分がそう評価されている事を知っている。
一度テレビ番組による取材でインタビュアーから今後の経営方針について質問があり、はじめの段階では闊達自在に話しながらも会社が持つビジョンなどについて真面目に語っていたのだが、気が付くといつの間にか家族の自慢話にすり変わっていた。
もちろん只自慢するだけでなく、その合間に企業の背景と彼自身の心境を織り交ぜながらの巧妙な話術は感嘆に値するものであり、取材班にとってもフィルムを無駄にせずに済んだのは救いであったに違いない。
――閑話休題。
フエルを伴った帰宅は互いに無言のまま歩く事となった。元々あまり家族以外に話す事の少ないミレットにとって、父の社員とはいえ緊張するには十分なものであった。
しかし、随伴するフエルは話術こそが彼にとって最大の魅力でもあり、通常であればこのようなギクシャクした状態を善しとしないはずである。それなのに出会った際に話した以外口を開かないのはミレットに遠慮しての事なのか、考えても分からないまま、少女は歩き慣れた帰路を辿る。
変化が訪れたのは家まであと少しという時であった。
フエルがミレットに寄り道を提案したのだ。一瞬、彼が何を言っているのか理解出来なかったが、その理由を聞くに至って納得した。
煌びやかな店内を彩る無数の宝石に囲まれた中、ミレットとフエルの二人はそれらの商品を吟味していた。
そもそも何故このような場所にいるかというと、
「申し訳ありません。私のプレゼント選びに同行していただきまして。当初、部下に用意してもらう手筈でしたが、やはり贈り物というのは自身で選ばなければ価値がありませんからね」
そう言う彼の表情は少し照れくさいものが混じっていて、「もっともその所為でイリアお嬢様の誕生日当日に探す事となってしまいましたが」と内緒話でもするように囁いた。
「いえ、私も姉様の喜ぶ顔を見たいですから大丈夫ですよ」
自然と自分の表情が柔らかくなるのを、ミレットは感じた。多分、今の自分は微笑んでいるのだろう。まともに会話らしい会話をしたのも数えるだけしかないのに人の内面を上手く引き出せる人だと、彼女は自分の行動に驚きながら、口元を手でそっと隠した。
そんなミレットを知ってか知らずか、特にフエルは気にする事もなく目ぼしい宝石を定めたらしく、ガラスケース越しにそのネックレスを指し示して彼女へ確認した。
「こちらにしようと思うのですが、いかがでしょうか?」
彼が選んだネックレスは他に並ぶ商品と比べても一際目を引くものであった。女性的で細身なピンクゴールドのチェーンと、その先端に輝く小さいながらも存在感を持ったダイヤモンドはミレットの目にも入店して直ぐに目にとまった程に魅力的であったのだが――
「あの、フエル様。こちらの品であれば姉様も喜ばれると思うのですが、金額が少し……」
そう、魅力のあるものはそれ相応の価値が付くものである。
この場合に於いてその価値とは、いわば富豪の娘とも云うべきミレットでも目を疑う金額で表示された価格。
十二万ダル。
日本円にして大凡一千二百万円となる。もはや価格設定を疑いたくなる金額であるが、それは確かに存在していた。
「ふむ、ミレット様はこの品では安過ぎる、とおしゃる訳ですね。であれば――」
「いえ、いえ! そうではありません! いくら誕生日だからといってここまで高価な物は姉様も遠慮なさるのではないかと思っただけです。決してこちらの価格をお安いとは思っておりませんっ」
店員に更なる至高の品を用意させようと手を上げたフエルに、ミレットは慌てた様子で制止した。
しかし動作自体は彼の方が早かったらしく、それに気付いた宝石店の店員らしき男性がこちらに歩み寄っている最中であった。
「いつも当店をご利用頂きまして誠にありがとうございます、フエル様。本日はどのようなものをお探しでしょうか?」
ミレットたちの前に立った壮年の男性は、この店に相応しい高級感と清潔感を兼ね備えたスーツを見事に着こなしていた。
「いえ、品は決まっていまして、それを包んで貰おうと思い呼ばせていただきました」
「左様でございますか。それであれば、直ぐにでも包装させていただきます」
あとは水が流れるようにスムーズに話は進んでいく。その状況を呆然とした表情で見送るミレットにフエルは問いかけた。
「ミレット様、一つ問いをしても宜しいでしょうか?」
「え――あ、はい、どうぞ」
「ありがとうございます。では私が身に付けておりますこの腕時計、金額にしてお幾らだと思われますか?」
フエルの左手首に巻かれた腕時計は男性が好んで身に付けるものと同じく、一見無骨でありながらそのフォルムは洗練されており、機能美にも充実しているのが一目で分かる。
かなりの、それこそ十万ダル近くする逸品であることに間違いないだろう。
「あの、間違っていたらごめんなさい。姉様へのプレゼントと同じで、十二万ダルでしょうか?」
恐る恐るといった様子で答えるミレットに、出題者は意味深に微笑んで回答を述べた。
「正解は、『分からない』です」
「……え?」
彼が冗談でも言っているのか、それとも聞き違いだと思ったのか、ミレットは聞き返した。
「えっと、ごめんなさい。もう一度言ってもらってもいいですか?」
「いいですよ。答えは『私にも分からない』です」
「……それは、どういう意味ですか?」
「いえ、簡単なことでして、この腕時計も私が祝いの品として頂いたものなんです。ですからこの腕時計に対する価格は未明であり、送り主が何程の金額を支払われたか私にも分からないのです。それはこれからイリアお嬢様にプレゼントとして用意致します品も同じこと。モノの価値というのは、受け取った方が判断すればいいのです。それ以外の情報は無粋というもの」
種明かしをするフエルの表情はひどく真面目で、その場限りの嘘を言っているようには見えなかった。
「しかし――」
「これは私が選び、それに見合う価値があると判断した品です。その事に対してお嬢様が心苦しく思うことは何一つありません」
確かに人の好意は様々である。行動で表現する者もいれば、形あるもので表現しようとする者もいる。その過程で必要なのは、自分の意思。そう、相手に対して自分がどう思っているか、なのだ。
そのことに気付くと同時に、ミレットは自分の中に抱いていた不安の形の正体を悟った。簡単に言ってしまえば、嫉妬。もしかしたら自分の用意した拙い似顔絵では姉を喜ばせることなどできやしないのではないかという不安と、数ある品の中でも彼が購入した一際綺麗に輝き続けるネックレスならきっと、という嫉妬。
この時、ミレットは大事なことを忘れていたと言ってもいい。
今回はフエルがたまたま高額のネックレスをプレゼントにすることになっただけのこと。そのことに対して、ミレットが心を込めて用意した手作りのプレゼントの価値が問われる可能性は無きに等しい。
何故なら、その品を受け取るのは彼女の姉であるイリアなのだから。家族なのだから、喜ばないはずがない。
それでも、重たく苦い嫉妬の味を知ってしまったミレットは気づけない。
「ところで、ミレット様はどのようなプレゼントをご用意されているのですか? 宜しければお伺いしても?」
「わ、私が用意したのは……――」
「おい、そろそろいいんじゃないか? このガキ、さっさと起こそうぜ」
この場所に似つかわしくない粗野な声がミレットの耳に入り込んだ。
内気なミレットにしては非常に珍しいことだが、この声はひどく不快で、心身共に恐怖心を煽るものだと断定出来た。
「そうだな、もうここまで来ればいいだろう」
まただ。声の方へと振り向こうとしてもそれは叶わなかった。
何故か――答えは簡単で、室内、ひいてはこの世界に響き渡るように声は何処からでも、そして何処からでもなく聞こえてくるのだ。
だが、この店にいる客の誰も気にはしない。フエルも微笑を浮かべたままこちらを見たままだ。根拠などないが、ミレットはこの声自体が自分にしか聞こえないのだと理解した。
「い、いや、た、助け――」
救いを求めるべく、彼女はフエルに手を伸ばそうとしたが、次に聞こえた声で意識は暗転した。
「夢の時間は終わりだぜ、嬢ちゃん」
皆様大変お久しぶりでございます。新話をお待ち頂きました方は感謝の極みです。ここまで一気に読んでいただきました方にも感謝を。
私事が一旦落ち着きましたので、こうして更新をさせていただきました。
これからも宜しければ、皆様の暇つぶしに読んでいただければと思います。