第2話「はじめての空」
電車を降りた瞬間、違和感があった。
音が、少ない。
いや、正確には——
“いつもの音がない”。
アナウンスも、人のざわめきも、足音も。
あの、頭の奥にずっと残るようなノイズが、ない。
(……静かだな)
思わず立ち止まる。
駅は小さくて、古かった。
改札も一つしかない。
人も、ほとんどいない。
さっきまで乗っていた電車が、ゆっくりと離れていく。
その音が、妙に遠く感じた。
(本当に来ちゃったんだな)
スマホを握りしめる。
画面には、農場からの案内メッセージ。
迎えは来ない。
バスで最寄りまで行って、そこから徒歩。
(まあ、そりゃそうか)
都会みたいに、何でも揃ってるわけじゃない。
頭ではわかっていた。
でも——
(……ちょっと不安だな)
小さく息を吐く。
今さら引き返す理由もない。
バスに乗る。
乗客は、自分を含めて三人。
全員、無言だった。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。
建物が減っていく。
代わりに、緑が増えていく。
気づけば、空が広くなっていた。
(こんなに……広かったっけ)
思わず見上げる。
遮るものがない。
ビルも、電線も、ほとんどない。
ただ、空がある。
それだけなのに、妙に落ち着かない。
(なんか……変な感じだな)
慣れていない。
今まで、こんな景色をまともに見たことがなかった。
バスを降りる。
そこからは、歩きだった。
道は細くて、舗装も少し荒れている。
周りには、畑と、木と、家がぽつぽつ。
人の気配は、ほとんどない。
(これ、本当に合ってるのか?)
スマホの地図を何度も確認する。
電波も少し不安定だった。
しばらく歩くと、小さな看板が見えた。
『◯◯農場』
矢印が、奥を指している。
(……ここか)
少しだけ、緊張する。
ここで働くことになる。
生活が変わる。
そう思うと、現実感がじわじわと押し寄せてきた。
砂利道を進む。
足音が、やけに大きく響く。
少し開けた場所に出ると、建物が見えた。
古いが、しっかりした造りの家。
その周りに、畑が広がっている。
そして——
「……あ」
人がいた。
畑の中で、誰かがしゃがんでいる。
帽子をかぶっていて、顔はよく見えない。
手には、何かの苗。
土に触れている。
その動きが、妙に自然だった。
無駄がない。
慣れている。
声をかけるべきか迷う。
(あれ、どうすればいいんだ……?)
とりあえず、近づく。
足音で気づいたのか、その人が顔を上げた。
目が合う。
女性だった。
思っていたよりも若い。
同年代か、少し下くらい。
頬に、土がついている。
髪はまとめられていて、少しだけ乱れていた。
でも——
「……誰?」
第一声は、少しだけ警戒していた。
「あ、えっと……今日から働くことになってる、佐藤です」
慌てて名乗る。
声が少し裏返った。
女性は、じっとこちらを見る。
数秒。
「……ああ、聞いてる」
短く言うと、立ち上がった。
土を軽く払う。
「遅い」
「すみません……道、少し迷って」
「一本道だけど」
言葉に詰まる。
「……まあいい」
そう言って、こちらに近づいてくる。
距離が縮まる。
(近い……)
なんとなく目を逸らす。
「荷物、それだけ?」
「はい」
「軽いね」
「必要最低限だけにしました」
「ふーん」
興味があるのかないのか、よくわからない反応。
「とりあえず、案内する」
そう言って、歩き出す。
その後ろを、ついていく。
歩きながら、ふと思う。
(なんか……思ってたのと違うな)
もっとこう、厳しい人を想像していた。
無口で、無愛想で、怒鳴るタイプ。
でも、違う。
無愛想ではあるけど、
どこか淡々としているだけで、嫌な感じはしない。
家の中に入る。
木の匂いがした。
「ここ、寮」
「一人部屋?」
「うん」
思っていたよりも、ちゃんとしている。
「風呂とトイレは共同。飯は時間になったら呼ぶ」
「わかりました」
簡潔な説明。
それでも、十分だった。
「あと」
女性が少しだけ振り返る。
「無理しなくていいから」
「え?」
「最初はみんなすぐバテる」
そう言って、また歩き出す。
その言葉が、少しだけ意外だった。
(……優しいのか?)
わからない。
でも——
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
部屋に入る。
荷物を置く。
静かだ。
でも、さっきまでの静かさとは違う。
息が詰まるような静けさじゃない。
ただ、何もないだけの静けさ。
ベッドに座る。
(……なんか)
言葉にできない。
でも、確かに違う。
今までの生活と。
少しだけ、深く息を吸う。
空気が、ちゃんと入ってくる感じがした。
(……変われるのかもしれないな)
ふと、そんなことを思う。
そのときはまだ、
それが“何が変わるのか”までは、わからなかった。
ただ——
あの人の顔が、少しだけ頭に残っていた。
土まみれで、
どこか無表情で、
でも——
ほんの一瞬だけ見えた、あの表情。
あれが、何だったのか。
それを知るのは、もう少し先の話だ。
第2話 完




