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みづき

 振り返れば、単純な話だった。

 彼女に拒絶されてから数日が経ち、あれほど頭の中を埋め尽くしていたざわめきが、潮が引くようにすっと消えていった。残ったのは、妙に澄み渡った視界と、やけに冷静な自分の思考だった。まるで熱に浮かされていた間の記憶を一歩引いた場所から見直しているような感覚で、思い出していけば理解できないことなんてひとつもなかった。

 彼女が初めて夜の海で孤独を漏らしたとき、僕は何も返せなかった。ただ精一杯ひねり出して「これからも海に来るよ。」と言っただけだった。でも、きっと彼女にとってはそれでよかったのだ。だからこそ、彼女はその後も海に現れ続け、やがては放課後や休日までも僕に時間をくれた。

 けれど、最初にその時間を壊したのは僕だった。夜の海に行かなくなり、望遠鏡も持たずに一人で布団に沈み込んで眠りこけた。彼女がもしかしたら待っていたかもしれないなんて考えもしないまま。それでも彼女は優しくて、水族館に誘ってくれたのに僕はまた、彼女を正しく掴めなかった。クラゲを前にして心から「似てる」と言ったはずなのに、伝わったのはきっと僕の思いとは違う形だったのだろう。

 そして最後の決め手は、あの一言だった。

「私の名前も呼んだことないくせに。」

 彼女があんな言葉を吐き出すまでに、いくらでも修正できる余地はあったはずだった。けれど僕は、自分の不安や焦燥を優先して、彼女を見失ってばかりいた。


 振り返った全てに納得できた僕は、何事もなかったかのように以前の日常へと戻った。放課後は真っすぐに家に帰り、夜になれば家での孤独から逃げるように望遠鏡を担いで海に行く。休日だってつまらない過ごし方をした。どうしようもなくしつこく残った熱が、心の中で頭角を現し始めるまではそれでよかった。自覚した恋心の置き場を探す毎日の中で、吸い寄せられるように水族館へと向かう事にした。あの日確かに彼女と似ているものがそこにあると確信して、それを見れば何かが変わると盲目的に信じていたからだ。

 休日の館内はあの日と変わらない様に人で賑わい、親子連れやカップルが明るい声を響かせていた。僕はほかの水槽の魚になんて目もくれず、クラゲの展示室へと導かれていった。青白い光の中、水槽には無数のクラゲが浮かんでいる。透き通る身体を揺らし、光に照らされながら静かに群れていた。

 見世物として展示されているそれは、確かに彼女と似ていた。窮屈な箱の中に閉じ込められ、綺麗な姿で漂っている姿は学校での彼女とそっくりで、夜に会った自由な彼女とは程遠かった。もしかしたら彼女自身もここにいるクラゲと似ていると感じていて、学校で「クラゲ」と呼ばれるたびにこの群れの中の一匹としか見られていないことを重ねていたのだろうか。だからこそ、海での彼女を知っている僕が否定してくれていることを望んでいたのかもしれない。そんなことは露知らず僕は「似てる」と返しただけだった。水槽の光に照らされながら僕はまたひとつ理解する。彼女を見ていたつもりで、結局のところ何一つ見えていなかったのだ。


 水槽の前で悟ったその感覚を抱えたまま、僕は水族館を後にした。外に出ると、夕暮れの風がまだ熱を含んでいて、湿った空気が肌にまとわりつく。気づけば足はまっすぐ駅へ向かうのではなく、商店街の方へと伸びていた。理由は分からない。ただ無性に、たい焼きが食べたかった。あの日、彼女に半ば強引に買わされ、口いっぱいに広がった甘さと熱さ。それを思い出した瞬間から、もう抗えなかった。

 行列の短い店先で紙袋を受け取り、まだ湯気の立つたい焼きを片手に歩き出す。皮を割ると甘い匂いがふわりと鼻を掠め、胸の奥にぼんやりとした温かさが広がった。

 そのとき正面から笑い声が近づいてきて、反射的に顔を上げる。そこには、先輩と肩を並べて歩く彼女がいた。彼女は楽しそうに何かを話し、先輩は柔らかく笑い返している。二人の距離感は自然で、傍目にはどこからどう見ても「そういう関係」にしか見えなかった。

 そんな二人を見て僕はどこか安心した。彼女が一人じゃないと分かってほっとしたようなそんな感じで、噂の真相が分かっても今の僕にはどうでもよかった。視線を逸らし、たい焼きにかぶりつくと、熱々の餡が舌を焼き思わず顔をしかめる。舌に残るじんじんとした火傷の感覚を確かめながら、僕はそのまま家路についた。


 玄関に辿り着き、扉を開けた瞬間、中から母さんの声が当たり前のように響き渡った。

「おかえり。」

 けれど、その「当たり前」が胸に重くのしかかる。僕はその言葉を、ずっと受け流していた。毎日のように耳にしていたのに、まるで背景の雑音みたいに扱っていた。彼女に対しても同じだったのだろう。彼女の孤独を聞いたときも、水族館で言葉を求められたときも、僕は結局、自分の目の前にいる人をまっすぐ見ようとはしなかった。僕はただ、自分の欲求や不安に答えを求めていただけだったのだ。

 だから、彼女に拒絶されるのは当然だったと言える。それでもまたいつか、もしも彼女が退屈しのぎにでも僕の前に現れてくれることがあるのなら、その時は彼女の目をきちんと見られるように。彼女の声を、彼女自身のものとして受け止められるように。

 そのために僕は、まず人と向き合うことを始めなければならない。

「……ただいま。」

 だいぶ遅れて、少し大きな声でそう返した。

 母が怪訝そうに「どうしたの?」と笑う気配を感じたが、「なんでもない。」と軽く笑って返した。


 その夜、家族四人で囲んだ食卓は、いつもと同じ献立と他愛ない会話で埋め尽くされていた。

 以前の僕なら、孤独で苦しいと感じていたはずの光景。けれどそのときは、不思議と胸の奥にじんわり温かさが染み込んでくるように思えた。

 海で、学校で、彼女と過ごした鮮やかな日々に比べれば何てことのない時間。

 その「何てことのない」ものこそが、僕の足元を確かに支えているのだと、初めて気づいた。


 それから僕は人生で1度も、海月(みづき)と関わることはなかった。

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