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かいげつ

 弟の鳴き声が、壁を隔てても容赦なく響く。

 それは家中に蔓延する空気を一瞬で塗り替える号令のようだった。母さんはその声にすぐ反応して、台所から慌ただしく駆け寄っていく。食器がぶつかり合う音も、開けっ放しの蛇口から滴り続ける水音も、全部途中で放り出して弟に吸い込まれていく。

 父さんはテレビの音量を下げて、気取った優しいだけの声をかけていく。あやす言葉の一つ一つが、家の空気を柔らかく満たしていく。

「通。大丈夫?」

 母さんの甲高い声が透き通る。僕はいつから名前なんて呼ばれなくなったのか、自分の名前に形作られた輪郭がぼやけてしまうほど前からだっただろうか。

 制服を脱ぎ捨てて、光の当たらない廊下を渡り、リビングへと入り込む。食卓には四人分の食器が並べてあり、それはきっと最低限を怠っていない母さんの素敵なところで、僕をどこまでも中途半端なまま掴んで離さない。だからなるべく存在感を出さないように、リビングに流れるテレビと同じように、透明人間のように、無味乾燥な食べ物を胃に押し込んでその場を去っていく。

 部屋に戻り、机の端に置いてある古びたノートを開く。子どもの字で書かれた星の名前の羅列を見て、今日も思い出を振り返る。

「渡はどの星が好きなんだ。」

 何よりも優しく包み込んでくれた父さんの声が、今だって鮮明に思い起こすことができる。

「僕はね、オリオン座!」

 あの時は、どれがどの星なんて分かるわけなくて。空に輝いている星と積み重ねてきた思い出を照らし合わせることができて、だからこそ綺麗なものであり名前を付けて大切に記録していく、そういうものだと思っていた。

 そんな僕の返答を聞いて母さんが僕だけを見て微笑んでくれるんだ。

 記憶を辿りながら、ノートを憎しみで塗り替えようとする。過去を引き裂いて無かったことにしたいのに、ページに指をかけても紙は震えるだけで破けない。どれほど息を荒げても、名前のついた思い出をまだ大切に取って置いてしまう。力無く項垂れた僕と、埃一つ被ることなく保たれている星の記録だけが、この家で取り残されている。星が僕の最後の居場所で、しがみつけるのはもうそれだけだった。

 弟の鳴き声がまた大きくなる。母さんのあやす声が重なり、胸の奥を押しつぶしてくる。耐え切れず、半袖の上にパーカーを引っ掛けて望遠鏡を担ぎ、家を飛び出した。玄関を駆け出していく音を誰が気にすることもない。

 

 夜の空気は昼間の熱を残したまま湿り気を帯びていて、息を吸うだけで胸が重くなる。額にじんわり汗が浮かぶのは、走ったせいか、それとも苛立ちのせいか。

 イヤホンを耳に差し込み、再生リストからいつもの曲を流す。何度聞いても踏切を渡るタイミングでだけ、初めて聞いた時の高揚と焦燥感が蘇ってくる。見えないものを見ようとして必死に望遠鏡を覗き込む自分を重ねて、望遠鏡を通して見る光の残像が消えたものが今もそこにあると信じさせてくれる。


 赤いランプが点滅する踏切を抜け、自転車のペダルを強く踏み込む。街灯が途切れるたびに夜が濃くなる。アスファルトが砂利に変わり、ハンドルの向こうに黒い水平線が浮かび上がった。

 海辺の端に自転車を停めイヤホンを外し、耳に直接染み込んでくる波の音に包まれる。湿った夏の風が頬を撫で遠くでは虫が鳴いている。

 波が絶対に届かない位置で三脚を砂に沈めて望遠鏡を組み立てる。ネジを閉める時に鳴る掠れた高い規則的な音、無機質で寂しい金属の冷たさ、レンズに残っていた指紋を服の袖で優しく拭っていく感覚。その一つ一つが落ち着きを与えてくれる。

 角度を調整し眩い星の海から北極星を探す。裸眼でも星は見えるけれど、わざわざレンズを覗き込む。遠い存在であると確かめるように、見上げた空の輝きを削ぎ落としていくために、僕には透明なガラスが必要なんだ。

 波の音が心臓の音に同調していき、冷たかった金属が僕の体温と同じになって、ようやく僕は一人の世界にのめり込んでいく。はずだった。

「……そんなに星って綺麗なもん?」 

 背中に投げられた声があっさりと僕の世界を切り裂いた。音を立てず忍び寄る波よりも突然で、心臓が跳ね上がり痛い。恐る恐る振り返ると、月明かりに照らされた同じ学校の制服を着た少女が立っていた。

 海風に煽られて長い黒髪が肩から跳ね、光を含んで揺れる。胸元にはリボンがきちんと結ばれていて、だらしなさとは無縁。けれど足元はサンダルでそこだけ軽やかで少し異質だった。

 ゆっくりと近づいてきた少女の顔が見えたとき覚えがあった。確か同じクラスの浜辺だったはずだ。

「いきなり、なんですか。」

 同じクラスにいる人だとはわかったが、だからって学校で一度も話したことはない。ほぼ初対面みたいな彼女に、威嚇のような警戒心の隠せない声が出る。

 彼女は少し笑って、顎で背後を指す。

「そんな身構えないでよ。私、あそこのマンションに住んでるんだけど、ベランダから君のこと見てたんだよね。最近毎日いるじゃん、気になってたんだよ。」

 まるで隠しておく必要なんてないと言わんばかりにさらりと打ち明ける。そのあけすけな態度がかえって僕を居心地悪くさせる。

「人間観察とか、そういうのが好きなんですか。」

「だれでもは見ないよ。だからって君のストーカーでもないよ。クラスメイトが夜に海でこそこそなんかやってるんだもん。気になるでしょ。」

 気になっただけと無邪気そうに言い、彼女は勝手に僕の隣に腰を下ろしてきて、砂に指で丸を描いて絵描きを始めた。隣に座っていいかなんて僕に聞けば拒絶するのを見越したかのようにスムーズに自分の席を用意する動きに、追い払う言葉も浮かばない。

 潮騒の音が居心地の悪さをさらに大きくする。不自然な沈黙が続く中、どうするべきか分からず、僕は再び望遠鏡に目を向けた。ピントを合わせるふりをして、汗ばむ指先を誤魔化す。

「ねぇ。」

 声が落ちてきて肩が強張る。振り向いた瞬間、彼女の顔がすぐ近くに迫ってきていて、思わず呼吸が止まり時間も一緒に止まっていく。月明かりが頬を縁どって、その瞳が僕を捕まえて離さない。不意打ちとしてあまにりも完璧で、僕の逃げ場を奪うようにして、じっと僕の目を覗き込んでくる。  

「ガラスみたいで、綺麗ね。」

 囁くような声。挑発でも悪戯でもなく、ただ淡々と事実を確認するようで、それが余計に僕を追い詰める。胸が大きく波立ち、喉の奥が焼き付くように乾いた。目を逸らしたいのに、吸い込まれるように彼女の瞳に絡めとられてしまう。

 彼女の目は茶色の中に微かに緑色を含んでいて、ビー玉を透かして見た時のように光が散っていた。そしてその中に自分が映りこんでいるのが見えた瞬間、ひやりと背筋が冷えた。

 僕が言葉を失っていると、彼女は今度は自分の瞳を指さし、口元を吊り上げた。

「でも私の目も綺麗でしょ。自信あるんだ。」

 軽い口調の裏に「見なさいよ」と言わんばかりの強気な圧があり、自分の魅せ方を熟知していて、僕の動揺を楽しんでいるようですらあった。

 やっとの思いで視線を外した僕は、逃げ込むように望遠鏡へ顔を戻したが、さっきまでの動揺が収まらずピントをどうしても合わせられない。指先が滑って、レンズの向こうに映る星は滲み、焦点は揺らぎ続ける。

「……見えてないでしょ、それ。」

 小さく笑う声が真横から落ちてきて、ダイヤルを握っていた指先に不意に細い指先が重なった。ひやりとした感触に息が詰まり、僕は思わず顔を望遠鏡から外してしまう。

 その一瞬の隙を逃さず彼女がすっと代わるようにレンズへと覗き込み、ためらいもなくダイヤルを回した。

「綺麗だね、触れそう。」

 いとも簡単にピントを合わせ満足そうに呟いた彼女は、そのまま砂に体を預けるようにして仰向けに寝転がり、伸ばした手で夜空を掬おうとした。

「でもやっぱり触れない。海に浮かんでる月みたいに。」

 指先は当然どの星にも届かない。けれど彼女は本気で捕まえようとするかのように、何度も形を変えては空を搔いていた。

 僕はその横顔をちらっと見て、無意識に唇をかんだ。裸眼で星を追い、捕まえようとするその無邪気さが羨ましくもあり、どこか苛立ちを呼んだ。

「……子供っぽいですね。」

 抑えきれない感情が、思わず言葉になってしまった。

 彼女は僕に振り向きもせず、星を捕まえようと伸ばした指先をそのままにして笑った。

「でも楽しいよ。」

 さらりと受け流すその声に、僕の小さな反発はたやすく飲み込まれてしまう。

 やがて彼女は手を下ろし、勢いよく上体を起こして砂を払う。月光を背に立ち上がった彼女の影が、長く僕に伸びてきた。

「私、君のこと嫌いだったの。」

 唐突に放たれたその言葉に思考が止まる。

「どこかスカしてる嫌な奴なんだろうなって。」

 彼女はあっけらかんと続ける。けれど、少し間を置いてから口元に柔らかい笑みを浮かべた。

「でも、素直な人なんだね。」

 心臓が不規則に跳ね、返す言葉が見つからない。そんな僕を置き去りにして、彼女は言った。

「今日は来てよかった。」

 彼女は何でもないように言った。その言葉が冗談なのか本心なのか、僕はもう判別することなんてできない。

「明日も来ていい?」

 足で軽く砂を蹴り上げ、少し顔を傾け聞いてきた。喉の奥に引っかかっていた言葉は、彼女の調子に狂わされすでに置き換わっていて、否定にもならない言葉を吐くだけだった。

「勝手にすれば。」

 彼女はそれ以上何も言わず、振り返ることなく砂浜を歩きだした。波の音に紛れていく足音を追いかけることもできず、ただその影が夜に溶けていくのを見送った。夏の夜の幽霊にでも騙されていたんじゃないだろうか。まるで狐にでも化かされていたような、そんな表現が一番似合う時間だった。

 結局その後は星を見る気にもなれなくて、早々に片づけて家に帰った。


 翌朝。

 弟の泣き声で目が覚める。

 昨日はいつもより早く帰って寝たからか、寝不足感は少ない。だからって、憂鬱な事に変わりないけれど。

 布団を蹴飛ばし起きて、制服に袖を通した。鏡に映る顔は、眠気と諦めを貼りつけただけの無表情だった。そのまま家を出る。誰とも会話することなく。

 

 学校に行っても何も変わらない。

 窓際の席でノートを広げ、外の景色を眺めながら一日をやり過ごす。授業中に板書を写すふりをしているだけで、意味なんか入って来やしない。

 休み時間は机の上に突っ伏して寝たふりをしながら、いつも通りやり過ごそうとした。けれど、今まで雑音のように聞き流していたはずの声の波の中で、どうしても耳を引き寄せられる先があった。

 無意識に探してしまった視線の先に、昨夜海に現れた幽霊のような少女が確かに存在していた。僕だけに見えている訳でもなく、多くの人の営みの中にきちんと混ざった状態で。

 彼女はいつも誰かと一緒にいた。グループの境界線をなぞるように軽やかに移動し、誰の会話の中にも柔らかく入り込み、場を乱すことなく調和している。笑うときは自然で、頷く角度も絶妙だ。先生に当てられた時だって模範的な回答をし、ノートだって綺麗に板書しているのだろう。そういう一挙手一投足が「隙のなさ」を作っていて、傍目には完璧にすら見えた。

 その完璧さは昨夜も感じたことだ。的確に僕の世界に入り込んできて、心を揺さぶり意識せざるを得ない状況へと追いやられた。なのに、学校にいる彼女はただそこにいるだけなのだ。自由奔放さが全くなく、ただそこに漂っているだけとも言える。友人との笑い声の中に彼女自身の色は薄く、相槌もぴったりと相手に合わせるようで、自分の意思をそこに置いているようには思えない。誰とでも話しているのに、どこにも属してなどいなくて、透明な膜を一枚隔てて、彼女だけが別の場所にいるようなそんな印象だった。

 無意識に彼女を目で追っていることに気づき、慌てて机の上に置いてある腕に顔を埋める。別に僕にだって人間観察が好きとか、そういうのがあるわけじゃない。

 結局、休み時間が終わっても心は授業に戻らなかった。昼と夜の彼女は決定的に違っていて、昼は誰とでも笑い合い自分が纏った仮面を崩すことなく友人たちの中に混ざっており、夜は自由奔放に人を魅了する。どちらの彼女が本当なのか。幽霊の正体見たり枯れ尾花という言葉もあるが、僕は僕の安寧の中に土足で入ってきた彼女の正体を確かめずにはいられなかった。

 だから放課後、いつもより駆け足で家に帰り、まだ夕闇の残るうちに海へと向かった。

 

 夕闇を切り裂くように海辺へと駆け込むと、潮の香りはいつもより甘く感じた。波の音はより近くで響いているような気がして、水平線に広がる闇でさえ浅く見える。

 丁寧に望遠鏡を組み立てていると、不意に砂を踏みしめる音が近づいてきた。

「良かった。ちゃんといた。」

 振り返ると、制服姿の彼女が立っていた。風に煽られた黒髪がさらりと揺れ、サンダルの足元には細かい砂が絡みついてる。手には小さなコンビニ袋を携えて、昨日と同じように、唐突で、そして自然に現れた。

「来ない方が、気まずくなりそうだし。」

 思ってもいない言葉を投げ返すと、彼女は声を立てて笑った。笑い声は海風に乘って夜気に広がり、僕の中の警戒心が無理やり解かれていく。

「学校で問いただしてたかも、なんて。ほら、これ。」

 彼女はためらいもなく僕の僕の隣に腰を下ろすと、袋から棒アイスを取り出した。パキッと小気味よい音を立てて二つに割り、片方を差し出す。

「半分こ。」

 押し付けられるようにして受け取った瞬間、指先が冷気に刺さる。口に運ぶのをためらっていると、彼女がじっとこちらを見つめているのに気づく。真剣な眼差しでも、からかいでもなく、ただ「早く」と急かす子どものような無邪気さがそこにあって、視線を逸らそうとしても逃げ道を塞がれてしまうようで居心地が悪い。

「……何?」

 思わず突っかかるように言うと、彼女は肩をすくめて悪戯っぽく笑った。唇の端をきゅっと吊り上げ、挑発でもなく、何処か拗ねたような、掴みどころのない笑みだった。

「何かあるわけじゃないよ。ただ見たかっただけ。」

 あまりに無邪気な言葉。それが逆に癪に障る。わざと僕を翻弄しているように見えて、胸の奥にじわじわ苛立ちが広がっていく。

「わざとやってんの。」

 低い声で吐き出すと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。その驚きの色はすぐに消え、柔らかい笑顔に塗り替えられる。

「何が?」

「全部。」

 その言葉に彼女は黙り、わずかに首を傾げて僕を見返した。笑みを崩さないままの沈黙を真正面から受け止めているうちに、僕の苛立ちはきっと表情にまで浮き彫りになってしまったのだろう。

「君にはそう見えてるんだ。」

 僕から視線を逸らし遠くを見つめながら言った言葉がとても無機質に聞こえて。

「答えになってないよ。」

 反射的に吐き捨てた声は、思った以上に鋭く尖っていた。彼女の瞳がその瞬間わずかに揺らいだ気がした。

「……そうだね。」

 肩越しに落とされた声は、先ほどまでの明るさを失っていた。そこには不意に弱さが滲んでいた。完璧だと疑って見ていた彼女の顔が、みんなと同じような顔をしているように見えてしまった。それを目の当たりにして、罪悪感とどうしようもないやるせなさが胸に広がって、息が詰まる。

「……ごめん。」

 喉の奥で掠れるように零れた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。

 彼女はわずかに目を瞬かせ、すぐに「気にしないで」とでも言うように手をひらひら振った。そして、さっきの出来事をなかったことにするみたいに、砂に指を走らせて落書きを始める。横顔にはいつもと変わらない様に見える笑みが戻っていたけれど、その笑みの正体を僕は追求することができなかった。

 気まずさが僕たちを包み込んでいく中、砂に指で線を引きながら黙っていた彼女が不意に顔を上げて空を指さした。

「ねぇ。あそこの4つのオレンジの星を繋げると、魚の骨みたいじゃない?」

 彼女が指さした方向にある星はどう繋いだって、綺麗な正方形になるようにしか見えない。

「そして完成したのがこちらです。」

 砂浜には自慢げに描かれた魚の骨を絵と、その下に堂々と大きな文字で魚の骨座と書かれていた。

「そうは見えないかな。」

「君は想像力が乏しいな。」

 くすくすと笑いながら立ち上がり、描いたものを足で軽く消していく。

「明日も来るね。」

 ふざけているのか本気なのか分からないまま、呆然としている僕をよそに、彼女は僕の喋り方を真似して「勝手にするね。」と小馬鹿にしたように言い、軽い足取りでマンションの方へと歩いて行った。

 残された僕は空を見上げて、彼女の言っていた星をもう一度繋ぎ直してみるが魚の骨のようには見えなかった。それがなんだか、彼女と見えている景色が根本から違うのかもしれない。そんな感覚が小骨のように刺さってなくならなかった。

 

 翌日。

 金曜の夜ほど、家にいたくない時間はない。

 一週間を終えて、母さんは疲れを滲ませながらも弟に笑いかけ、父さんは仕事帰りの顔でその成長を確かめる。僕に向けられる言葉は一つもなく、そこにあるのは「新しい家族」のための時間だった。

 居間の灯りの中で息を潜めては、僕の存在は薄れていくばかりだ。

 弟の泣き声にかき消される前に部屋を抜け出す。望遠鏡を肩に担ぎ、玄関を静かに閉め海へと向かう。昨日彼女は「明日も来るね。」なんて言っていたけれど、あんな風に強く当たってしまった僕がいるところへ本当に来るのだろうか。来なくても、来てもきっと気まずい。どちらがいいかなんて自分でも分からない。それでも海には向かわずにはいられないんだ。僕にはそこしかないのだから。

 

 砂浜につくと先客の姿が目に入った。

 波打ち際から少し離れた場所に腰を下ろし、両膝を抱えて空を見上げている制服姿の少女だった。顔がちゃんと見えている訳ではないが、この時間帯に海にいるのはいつもの彼女だと予想がつく。でも遠巻きに見るその姿はどこか悲しげにも見えて、足取りが重くなる。来ないと思っていた彼女がいて安堵したのと同時に、もしかしたら落ち込んでいるのかもしれないなんて想像が浮かんで躊躇いを覚える。

 けれど近づいてみれば、足元には駄菓子が散らかっていた。チョコ、うまい棒、ラムネ、グミ。まるで縁日の屋台を一人で再現しているみたいで、一人遊びを楽しんでいるのが分かって思わず息が抜ける。やっぱり彼女はそういう人間だ。僕の居場所に勝手に入り込んできて、しかも居心地よさそうに座り込んでいる。

「来てたんだ。」

 少し呆れたように駄菓子を食べながら、星を眺める彼女に話しかける。

「悪い?」

 彼女は肩越しに振り返り、あっけらかんと笑った。

「家にいたくなっかたの。ママがさ、彼氏と出かけちゃって、退屈で。」

 さらりと言い放ったその言葉の奥に、一瞬だけ影のようなものが差した気がして、僕の心に戸惑いを生む。けれど彼女はすぐに自分の横をポンポンと叩き、座れと促してくる。

「ちゃんと君の分もあるから、早く座りなよ。」

 促されるまま望遠鏡を近場に置き、彼女の横に腰を下ろす。横に座ると昨日の事や空気感が強く蘇ってくる。散らばっている駄菓子に意識を逸らそうとしても、蘇ったものは僕の頭の中に散りばめられていって充満していく。さっき一瞬見えた影は何だったんだろうか。楽しそうな彼女は本当に気にしていないんだろうか。気にしていないんだとして、どうして気にしないんだろう。僕だって気にせず過ごすべきなんだろうか。そんな迷いの一つが思わず口から形になって零れてしまう。

「あのさ……。」

 彼女はその先を聞く前に、銀紙の包みを僕の口元に突き出してきた。

「それをまた言うのはナンセンスってやつだよ。」

 何もかも見抜かれているような軽い笑みに、反射的に手を伸ばす。銀紙を剥がすと湿気で少し柔らかくなったチョコが出てきてべたつく感触があった。指先の熱で溶け切ってしまわないように慌てて口に放り込む。最初はただの甘さだったのに、嚙み砕くうちにどこかざらついた苦味が顔を出す。引っかかるその感覚は、彼女の言葉の後味とどうしようもなく似ていて、飲み込むと不思議な安心感が残って、懐かしい味が少し苦しい。

「甘い。」

 漏れた声に、彼女はくすりと笑う。

「懐かしいでしょ、チロルチョコ。」

 ラムネ瓶を振りビー玉をカラカラと鳴らしながら、首を傾げ下から覗き込むように僕の顔を見つめてくる。その仕草に胸がざわめく。まるで、自分の奥にしまい込んだものまで覗き込まれているみたいだ。視線を合わせればもっと何かが見えてしまう気がして、けれど同時に目を逸らすことで彼女を確かめる機会を失ってしまう気もする。見たいのに見られなく、その矛盾が僕の胸を締め付けていく。

「……じっと見ないでくれ。」

 声が少し荒くなったのは、自分でも分かった。

「いつ見ても目も合わせてくれないよね。そんなに嫌なの?」

「得意じゃないんだ。」

「そっか。でも昨日のこともあるし、どうしてやろうかな。」

 冗談ぽく言いながら、彼女は視線を逸らさず少し身を乗り出してくる。その瞳だけは真剣で、もっと近づいてこられるのかと身構えたが、彼女はそれ以上追ってこなかった。

「なんてね。昨日のことも気にしてないし、冗談。」

 その言葉にほっとして、なぜか少し後悔して、自分でもよく分らなかった。

 沈黙が流れ、落ち着きを取り戻してきたころに彼女がまた口を開いた。

「ねえ。休日って何してるの?」

「別に何も。」

「へえ。つまんないね。」

「実際つまんないよ。」

 彼女は「ふうん。」と小さく息をつき、抱えた膝に頬を埋めた。手で砂を掬っては零し、掌に残った粒を確認する。その繰り返しの終わりに、ぽつりと声を落とす。

「私もさ、家にいてもつまんないや。」

 その言葉が砂の上に落ちると、寄せてきた波が一度に攫っていったように思えた。僕は返す言葉を見つけられず、潮の匂いが混じる湿った風を吸い込む。喉に絡むその重さは、自分の家の空気とどこか似ていて、息苦しさと安心の両方を覚える。

「だから最近は、君が海にいてくれて嬉しい。」

 少しだけ顔を上げて、引いていく波を眺める彼女。その横顔はいつもの悪戯っぽさとは違い、寂しそうで、ただ素直だった。

「退屈しのぎのつもりで来たんだけど、思ったよりも楽しいよ。」

 小さく笑みを零し、砂に落ちていた駄菓子を回収してコンビニ袋にしまっていく。その笑みは夜風に吹かれても消えず、鮮明に残った。

「だから、明日も来るね。絶対に。」

「……勝手にすれば。」

 反射的に突き放すような言葉が出た。彼女のはっきりとした言葉に、胸がざわつくのを抑えられなかった。

「そう言うと思った。」

 彼女はくすりと笑い、立ち上がると、砂浜に出きた自分が座っていた後を足で消して帰っていった。

 僕はその背中を黙って見つめる。振り返りもしない軽い足取りが、胸の奥にしっかりと足跡を残していく。


 土曜の夕方は、昼と夜の境界がいつもより長い。薄明るさがしぶとく居座って、街の輪郭をゆっくりと溶かしていく。僕は早めに家を出た。昼間は掃除機の音とテレビのワイドショーで家中が満ちていて、夜は弟の泣き声がそのまま引き継ぐ。どちらにしても、僕の居場所はどこにもない。

 踏切の赤い点滅はまだ眠そうで、列車の気配も遠い。自転車のペダルは軽く、背中の望遠鏡の重さだけがはっきりと確かだった。


 砂浜に着くと、まだ誰もいなかった。波の音だけが近づいたり離れたりして、昼間のざわめきを洗い流すように響いている。三脚を砂に沈め、望遠鏡を据えようとしたとき、ふと手が止まった。

 僕は孤独を埋めるために星を見に来ているのか、それとも彼女に会いに来ているのか曖昧になっているんじゃないか。ネジを回す指先が微かに震える。レンズを拭う仕草に無意味な時間を費やし、鏡筒の角度を何度も変えては戻す。落ち着かない自分を誤魔化すように、それでも彼女を待ち続けた。

 空のオレンジ色が完全に抜け落ちたころ、砂を踏むかすかな音が波音に紛れて近づいてきた。振り返る前から、その足音が誰のものか分かってしまう。胸の奥が期待で熱くなる。声がかかるはずだと待っても、近づいてくるのは足音だけ。何の言葉も落ちてこない不安に背中を押され振り返った。

 そこにいた彼女は、いつもと違って見えた。海風に乱れた髪が頬に張り付き、それを払おうともしない。薄手のカーディガンの袖口を小さな拳で握りしめ、白くなるほど力がこもっている。指先はかすかに震えていて、その仕草は、いつもの無邪気な明るさをすっかり削ぎ落としていた。月明かりに照らされても、影ばかりが濃くなって見える。

「……来たんだ。」

 やっと絞り出した声は、うまく聞こえるか分からない程掠れていた。

「うん。」

 彼女は視線を足元に落としたまま短く返事をし、砂に音を立てて僕の横に腰を下ろした。距離は近く、袖が触れるかどうかの間際で止まる。横顔は笑顔の仮面を脱いだ後の素顔で、その静けさが胸をじわじわと締め付けてきた。

 会話はなく、沈黙が砂浜を覆った。波の音が規則正しく押し寄せ、鼓動のリズムと重なっていく。言葉を探すたびに喉の奥でほどけ、吐く息とともに消えてしまう。吐き出せずに溜まっていくものが胸を満たし、ただ目の前で生まれては消える波を一緒に眺めていた。

「今日、家にママの彼氏が来てさ、三人でご飯を食べたんだ。」

 ようやく彼女の声が沈黙を破った。波音に負けそうなほど静かで、けれど確かに僕の耳に届いた。

「いい人だった。何かあったわけでもないし。久しぶりにママの好物のピザも食べて、とっても美味しかった。」

 その口調は努めて明るい。けれど袖口を握りしめる指先はまだ緊張を解かず、布地はしわくちゃになっていた。

「だから、別に何も悪いわけじゃないの。」

 そう言いながら、彼女はようやく手を解き、袖口の皺を伸ばすように撫でていく。息をひとつ大きく吸い込んで夜空を仰ぐ。けれどすぐに視線を落とし、力なく膝を抱え込んだ。

「……なのに。そこに私の居場所は、やっぱりなかった。」

 言葉の終わりはかすかに震えていた。膝に顔を埋めた肩が、ほんの少し上下する。泣いているのか、それとも堪えているのか。波の音に紛れて確かめられない。もし泣いているのだとしたら、僕はどうすればいい。背中に手を置くべきか、言葉を探すべきか。考えるほど正解が分からなくなり、ただ黙って隣に座っていた。

 やがて彼女は顔を上げた。目の縁は赤くも濡れてもいない。ただ、無理に貼りつけたような微笑みがそこにあった。でも瞳だけは笑っていなくて、光を拒むように冷たく揺れていた。触れたら砕けてしまいそうで、息を呑んだ。

「……泣いてたのかと思った。」

 不器用に出た言葉は、意図せず彼女を追い詰めたかもしれない。

「泣いてたかもよ。」

 彼女はわざと軽く言い、悪戯っぽく笑った。けれどその笑みは不自然に固く、硝子細工のように脆く見えた。僕の視線が重なった瞬間、今にも壊れてしまう気がして、思わず夜空へ逃がす。だが視界の端に、どうしても彼女の姿が入り込んでしまう。

 僕は返す言葉を見つけられなかった。泣かない彼女に、孤独を隠している自分を重ねてしまい、情けなさに胸が焼けた。言葉は波の奥に飲み込まれていき、何も言えず空を仰ぐ。

 彼女は足元の砂を指先で崩すように弄び、僕は天の川を探すふりをした。呼吸の音だけが、互いの存在を確かに示している。波や風の音は遠のき、沈黙の重みが間に満ちていった。

「……僕は、これからも海に来るよ。」

 やっとの思いで口から零した言葉は、自分でも驚くほど素直で、不器用で、それでも逃げられない思いだった。慰めでも、勇気の告白でもない。ただここに来る理由を確かめるように。

 彼女は少し目を見開き、それから小さく息を吐き、口元に笑みを宿した。

「勝手にしたらいいよ。」

 僕がいつも彼女に返す言葉を真似て彼女が笑いながら言う。その笑みは強がっているようにも、どこか安心しているようにも見えて、どちらなのか分からないまま僕の胸に深く焼き付いた。

 波は相変わらず寄せては返し、夜風は髪を揺らしていたのに、その場だけ切り取られたかのような静止した静けさがあった。声をかけるきっかけを探すたび、喉の奥で固まって何も出てこない。もし次に言葉を交わしたら、彼女の仮面が壊れてしまいそうで怖かった。だから僕はただ、隣に座る彼女の横顔を視界の端に焼き付け、忘れないように心の奥に沈める事しかできなかった。

 それから僕らは一度も会話をしないまま、立ち上がった彼女は振り返らずに「またね。」とだけ置いていった。その背中は小さく見えるのに、足取りに迷いはなく、僕が踏み出せなかった場所へ軽々進んでいくように見えた。彼女の背中が見えなくなるまで見送ることはせず、望遠鏡を片付けて僕も早めに帰った。

 家に戻った後も、その光景はまぶたの裏に残り続けた。仮面を外したような彼女の顔、わずかに震えた声、ぎこちなく作られた笑み。それらが繰り返し浮かんでは消えていき、眠りに落ちる直前まで胸を締め付けた。

 僕は海に行くと言った。あの時の一言は、彼女を支える誓いなんかじゃない。ただ、隣に座ることしかできなかった僕の小さな虚勢だった。

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― 新着の感想 ―
なんとなく読み始めたら、素敵な文章で引き込まれました。 大きくなったと思っても、まだまだ子供だったあの頃の自分も思い出せるほど描写が繊細で素敵でした!! 続きも読ませていただきます。
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