第88.5話 サイドストーリー「和平調印式」
永きに渡る人類と魔族の戦争が終結した。
朝焼けが、破壊された大地を黄金に染めていた。
大戦の傷跡を無残に残す魔族の都の跡地には、かつての栄光の面影すら残っていない。
瓦礫と灰に覆われた広場の中心に、仮設の調印式場が組まれていた。
そこは、戦勝者である人類が決定した場所だった。
かつて魔王の玉座がそびえていた城の跡地に、平和の証を刻む――
それはあくまで人類側の“演出”だった。
その場に、ひときわ目を引く黒衣の影が現れる。
全身を覆う漆黒の礼服を纏い、背筋を伸ばして歩くその姿は、見る者すべてに畏敬を抱かせた。
彼女の名は、ヴァルハラ。
魔王の筆頭補佐官 兼 魔王軍最高司令官であり、猫族随一の美貌と知略を誇る猫型獣人。
その日、魔王はすでに捕らわれていた。
人類との交渉の場に立つことを許されず、名代としてヴァルハラが指名されたのだった。
彼女は感情を一切表に出さない。
ただ、魔族としての最後の誇りを胸に、静かに壇上へと上った。
遠くの群衆の中、ひときわ小さな黒猫の姿がその光景を見つめていた。
ヴォルフガング――ヴァルハラの娘であり、勇者の呪いによってすでに人の姿を失っていた者。
(母上は、誰にも頭を下げないニャ。どんな戦いでも、どんな敗北でも、誇りだけは……)
ヴォルフガングの小さな瞳が、揺れる朝の光を映していた。
式典が始まると、人類代表の一人――ベネンヘーリ将軍が壇上に立った。
長身で白髪の老人。
かつて数多の魔族を打ち倒し、人類を勝利へ導いたと称される伝説の賢者。
彼は威厳を湛えた声で言う。
「平和とは、力によって守られる。そして、力とは誓約によって管理されなければならない」
続いて、もう一人の代表――若き英雄、勇者ライトホーリーが前に出る。
白銀の鎧に身を包み、瞳に光を宿す青年。
彼は柔らかい笑みを浮かべ、群衆に語りかけた。
「これ以上、血が流れることはありません。我々は、共に未来を築くべきなのです」
だが、その言葉とは裏腹に、壇上で示された協定文には厳しい条項が刻まれていた。
・第1条:魔族による魔力の全面封印。
・第2条:魔族の都市自治権の制限。
・第3条:魔族の歴史的文献および技術の保管・移譲。
・第4条:人類による査察官の常駐義務。
・第5条(補足):“魔力封印術”の恒久施行。
そして、ただ一つの曖昧な条項。
・第6条:精神伝達能力等の非魔力的手段に関しては、一部のみ例外措置とする。
この第6条が、後にヴォルフガングにわずかに残ったアマリエへのテレパシー能力の根拠となる……
ヴァルハラは一言も発しない。
演説を聞き終え、ただ無言で協定文の末尾に刻印された紋章の下にサインする。
静かに手を震わせながら、彼女はペンを取り、押印した。
その光景を、ヴォルフガングは遠くから見ていた。
母の誇りが崩れ落ちる音を聞いた気がして、胸の奥が痛んだ。
協定が結ばれたその日から、魔族の世界は音もなく崩れ始めた。
人類の査察官たちが魔族の主要都市に入り、次々と研究所や魔法関連施設を封鎖していった。
書物は焼かれ、魔道具は分解、破棄され、記録は全て人類の保護下に置かれるとされた。
ヴァルハラは、それを止めることができなかった。
ただ黙って、全てを見届けるしかなかった。
彼女は最後に、ヴォルフガングの元に訪れ、小箱を渡す。
『これは……母上の……?』
「私たちの未来の種です。すぐには咲かない。けれど、誰かが思い出す時、きっと……」
その夜、ヴァルハラは誰にも告げず姿を消した。
数日後、川辺で遺体が発見された。
争った形跡もなく、静かな表情のまま。まるで、すべてを終えた者のように。
ヴォルフガングは、母の残した小さな手紙を抱えていた。
『もし星が再び私たちを照らすなら、その日こそが未来だ』
それは短くも、すべてを込めたメッセージだった。
母は未来を信じていた。
自らが敗者となっても、希望の火を消さなかった。
ヴォルフガングは、母の跡を継ぐ決意を胸に抱く。
たとえこの身が猫の姿でも、誇りは失わない。
そして、彼女は星空を見上げながら、心に誓う。
『いつか、この世界に、魔族の生きてきた証を……光を残してみせますニャ』
黒猫の小さな影が、夜の闇に溶けていった。




