第88話「魔族教育支援基金を設立せよ!」
朝の社内定例会議室は、魔族と人類の従業員たちの熱気であふれていた。
ガラス越しに差し込む日差しが、テーブルの上の資料を淡く照らし、
静かな緊張感を空間に染み込ませている。
その中心で、魔王アマリエはなぜか巨大なカバのぬいぐるみを抱えながら座っていた。
会議室の重厚な空気とはまるでそぐわない光景だったが、社員たちはもう慣れきっていた。
「ねぇガンちゃん、そろそろワシ、なにか感動的なこと言いたいんじゃが〜!」
黒猫ヴォルフガングは、アマリエの足元で尻尾を小さく揺らすと、冷静にテレパシーを返す。
『……また突然ですニャ。ですが、ちょうどいい話がありますニャ。
以前お渡しした財務報告書、読んだかニャ?』
「うん、読んだ!数字がいっぱいだった!」
『読んでませんニャ……』
アマリエは机の下でカバのぬいぐるみに頬ずりしながら、突然手を上げた。
「発表があるのじゃ!」
一同の視線が彼女に集中する。
「ええと、その、えっと……ワシは、会社の利益を!子どもたちに分け与えることに決めたぞい!
魔族の子どもたちに、教育を!なんかこう、ぴかーん!と光る未来を!」
社内にどよめきが走った。
その言葉がただの思いつきではなく、心の奥底からの衝動であることを皆が感じ取ったからだった。
マサヒロは、少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと目を細めて微笑んだ。
「……本気ですね、社長」
アマリエは勢いで立ち上がり、ぬいぐるみを掲げるように叫んだ。
「名付けて、“魔族教育支援基金”じゃっ!」
だがその影には、黒猫の沈黙があった。
ヴォルフガングの記憶にだけ刻まれている、ある日の風景――
人類との敗戦時。
和平条約調印式の朝、焼け落ちた魔族の都に立つ黒衣の猫族の女性、ヴァルハラ。
彼女が一言も語らず、ただ誓約書を見つめていたあの日。
魔力封印の誓約の中で、唯一残された第6条。
その曖昧な一文に、彼女は最後の希望を託した。
その日、彼女が残した最後の手紙には、こう綴られていた。
『魔族の未来に、たったひとつの光を。星が再び照らすその日まで。
魔族の子どもたちが、“奪われなかった希望”に手を伸ばせるように』
ヴォルフガングは誰にも気づかれぬように、そっと目を伏せた。
その夜、アマリエは記者会見に向けて張り切っていた。
会議室の隅で
「よし、衣装はキラキラで!ティアラとかつけたらどうじゃろ!?未来感あるじゃろ!?未来感!!」
と叫んでいたが、ヴォルフガングはそっとため息をついた。
『社長は本当に……誤魔化しが効かないニャ。
でも、だからこそ、伝わるものがあるのかもしれませんニャ』
物語は、また一歩、誰かの未来に近づいていた。




