第6話「これが……社会進化論」
昼下がりの路地裏。
元魔王。見た目18歳の少女、実年齢800歳。
老年期のアマリエの足取りは、いつになく重たかった。
鼻歌を歌いながら歩くでもなく、パンの耳をくわえるわけでもなく、ただ黙って、ぎしぎしと擦り減ったサンダルの音だけが響いていた。
「……ガンちゃん、今日もダメじゃった……」
うなだれるアマリエの肩に、元魔王軍筆頭補佐官の黒猫――ヴォルフガングがちょこんと乗っている。
『人類社会、思っていた以上に“冷たい”ですニャ。もっと温かい世界かと思っていましたが……』
「バイトは不採用、家賃は滞納、腹は減る、背中は曲がる……のう、ワシ、魔王じゃったんよな?」
『記録上は、そうですニャ』
「“記録上”て……!」
泣き笑いのような顔で空を仰ぐ。
今日は少し曇り空。雲がやさしく日差しを遮っていて、街の輪郭が淡くぼやけていた。
「はあぁ……なんかこう……“奇跡の出会い”みたいなん、起きんもんかのう……」
その瞬間だった。
通りの角を曲がったとき、ふわりと甘いハーブの香りが鼻をくすぐった。
――癒やしのしずく亭。
定年前の派遣時代にも立ち寄ったポーションジュースの店だった。だが、今回はどこか様子が違う。
「……あれ、なんじゃろう……この感じ」
その日は、店先に人だかりができていた。
立て看板には『本日限定:特製ローズミントブレンド・増量サービス』と書かれている。
『今日は……イベント日ですニャ』
「イベント日!? イベントというのは……ほら、あれじゃろ! 人間どもがピカピカ光る棒振りながら叫ぶやつじゃろ!? “うおおおー”とか言いながら、謎の歌うたう……!」
『それはライブアイドルの類ですニャ。違います』
目を輝かせるアマリエの横で、ヴォルフガングは冷静に分析していた。
『見てくださいニャ、あの効率。整然と並んだ客。迅速な提供。笑顔の接客。魔力も使っていないのに、現場が“生きて”いますニャ』
「うむ……ワシも、なんか、“戦場”っぽさを感じるぞ……!」
アマリエはそろりと列の後ろに並ぶ。
ヴォルフガングが小声で耳打ちする。
『前の客の動きを観察して、学ぶのですニャ。これは商戦ですニャ』
「おお……ガンちゃん、それっぽい……!」
そして、順番が来た。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いた瞬間、アマリエの背筋が凍りついた。
目の前に立っていた店長。落ち着いた物腰、隙のないユニフォーム。鋭くも柔らかい眼差し。
「……スターシス……!?」
その名を口にしたとき、アマリエの脳裏に、戦火の記憶がよみがえった。
――第四魔将、スターシス。魔王軍の中でも理知的で、最前線の戦略を一任していた魔族。武より智、火より氷。
かつてアマリエの軍を支えた、冷徹な参謀。
その彼が、今、ポーションジュースを手渡しながら――
「ご注文、ローズミントですね。ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべていた。
「え……? な、なんで……!? あのスターシスが……接客……!? しかも、やさしい顔……!?」
『それだけ時間が経ったということですニャ。彼も“適応”したのですニャ』
「うそじゃ……これは幻……これは夢……そうじゃ、これは、夢なんじゃ……」
『夢なら、会計されませんニャ』
現実だった。
アマリエはジュースを買い、店内で飲んだ。
中に入ると、驚くべき光景が広がっていた。
厨房は清潔そのもの。
スタッフは的確に連携し、無駄な動きが一切ない。
システム化された調理台、在庫管理用のタブレット、衛生管理マニュアル。すべてが論理で動いていた。
癒やしと再生のエリクサー。以前立ち寄ったドリンクショップと似ているところがある。
「……これが……“現代の魔法陣”……?」
『いえ、“マニュアル”ですニャ』
ヴォルフガングは、目を細めながら解説を続ける。
『これは“魔力”ではありませんが、“再現性”と“均質性”を持つ“仕組み”ですニャ。おそらく、スターシスが中心に構築したのでしょう』
「スターシスが……?」
アマリエは目を伏せた。
その手に持つグラスは、ほんのり温かかった。
自分は、過去に生きている。
魔王だった頃の威光にしがみつき、誰かの上に立っていた日々を忘れられない。
でも、スターシスは――
魔力を失っても、世界を恨まず、受け入れた。
戦場を変え、戦い方を変え、武器を変え、人生を築き直していた。
「ワシは……なんも、できておらんのに……」
ぼそりとこぼした言葉が、ジュースに沈んでいく。
カウンターの向こうで、スターシスとスタッフが軽く笑い合っていた。
その笑顔は、かつての魔将のものではない。誰よりも、柔らかく、確かな日々を生きる者の顔だった。
「……やっぱりワシは……もう、魔王じゃないんじゃな……」
『そうですニャ。でも』
ヴォルフガングの声は、静かに響いた。
『あなたは、今、“社長”を目指しているのですニャ』
「社長……」
『魔王より、ずっと孤独で、ずっと泥くさい。でも、誰よりも“現代に立ち向かう”戦士ですニャ』
アマリエは、ぽつりとつぶやいた。
「ワシも……いつか、ああなれるかのう……」
その横顔を、ヴォルフガングは黙って見ていた。
スターシスがふと、こちらに気づいたように目を向ける。
目が合う。
だが、何も言わず、何も表情を変えず、スターシスはうなずいた。
まるで、かつての主君への“無言の敬礼”のようだった。
その夜、アマリエは蛾と小虫が飛び回る小さな自販機の前でつぶやいた。
「ガンちゃん……ワシ、生きててええんかのう……?」
『生きてるだけで十分ですニャ。これからが“開戦”ですニャ』
「うぅ……ワシ、なんもできんけど……とりあえず、“社長”って名刺だけ作ってみるかのう……」
『まずは資本金ですニャ。缶ジュース我慢してくださいニャ』
「……無理じゃ」
でも、彼女は笑っていた。
少しだけ、背筋を伸ばして。少しだけ、明日を見ようとしていた。
魔王としての人生が終わっても。
彼女の物語は、まだ――
終わっていなかった。