第59話「生き抜いた証」
「覚えとるかの? あの頃、ワシは毎朝コンビニの弁当で、おにぎりのフィルムを剥がす元気もなかったんじゃ」
「……覚えてるよ!アマリエちゃん、便器に“今日もよろしく頼むのじゃ”って話しかけてたし」
「それはワシなりの神聖な儀式だったんじゃ! トイレに敬意を払って……いや、ほんとはただの寂しさじゃったけど……」
リンゼスは黙ってモップを握り直し、拭き掃除を続けた。
「……死のうと思ったこと、あったよね?」
アマリエの肩がびくりと震えた。
「……あった。何度も、何度も」
「私も同じ。だけど、なんでだろう。アマリエちゃんの“おはよう”が、私には唯一の救いだったんだ」
「……ワシも、リンゼスちゃんの“お疲れさま”が、どんだけ救いじゃったか……」
清掃会社の派遣時代。
夜、アマリエは一人事務所の隅で泣いていた。
当時の自分は、ヴォルフガングとくらいしか口をきかず、存在していないような日々だった。
でもあの日、床掃除をしていたリンゼスに「それ、私のエリア」と笑いながら言われた。
それだけだった。
たったそれだけのことで、世界がほんの少し、色を帯びた。
「ありがとうなのじゃ」と言ったら、「どういたしまして!」と返ってきた。
それが、どれほど嬉しかったか。
「……ワシ、あの日から、ちょっとだけ死ぬのをやめてみたんじゃ」
「アマリエちゃん。初心ってのはさ、何か特別なものじゃない。
あの時、アマリエちゃんが“死ななかった”って事実。それがすべてなんだよ!」
アマリエははっと顔を上げた。
「ワシが……死なんかったから、今があるんじゃな……」
「そう。だから、あの頃の自分を否定しちゃいけない。
今を生きるアマリエちゃんを、立派だと誇ってやりなよ~」
「リンゼスちゃん……ワシ、間違ってなかったんかのぅ……」
リンゼスはモップを肩にかけて言った。
「経営ってのは掃除みたいなもんじゃない?全部を一気にピカピカにはできない。
でも、ひとつずつ、手で拭いてくしかない」
アマリエは涙ぐみながら、ニカっと笑った。
「ワシ……もうちょっとだけ、頑張ってみるのじゃ!」
その瞬間、ヴォルフガングがドアの隙間からひょっこり顔を出した。
『初心回帰のチャンスですニャ』
「……ガンちゃん、いつから聞いとったんじゃ」
『最初からですニャ』
事務所へ戻ったアマリエ。
「ガンちゃん、ワシ決めた! 今日から“おコメ一粒も無駄にしないマジメ魔王”として再出発するんじゃ!」
『三日前はラーメンスープ、一滴も無駄にしないと言ってましたニャ』
「じゃあ今回は“真マジメ魔王”バージョン2.0じゃ!」
『更新頻度が高すぎますニャ……』
マサヒロが心配そうに声をかけてきた。
「社長、大丈夫ですか?」
「ワシな、ちょっと昔の知り合いに会って……少し、元気もろうたんじゃ」
マサヒロはふっと微笑んだ。
「社長はやっぱり、すごい人ですね。いろんな過去があって、でもそれでも前を向くって……かっこいいです。社長、なんか輝いてますよ」
「そうか!?ふふん、 今日、洗顔のあとに“無敵フェイスパウダー”塗ったからの!」
「……いや、そういう意味じゃないですけど……でも、なんか、改めて惚れ直しましたね」
「ぬはッ!?ワシの美貌についにヤラれたかっっ!!フヒヒッ!!
ワシにもそういう日が来たかぁぁぁぁぁ!見たかガンちゃん!
魔王ハーレム伝説ここから始まる!」
「……は、はい、まぁ……あはは」
背後でヴォルフガングが頬をプーっとふくらませながら、小声で呟いた。
「ぷぅぅ……」
マサヒロがふと足元を見やると、ヴォルフガングが彼の足に頭を擦り付けていた。
「ガンちゃん、どうしたの? 甘えんぼさんだな〜」
(バカ……)
魔王は“初心”を思い出した。
それは決して、誇らしい経験でも、美しい物語でもない。
でも、間違いなく“生き抜いた証”だった。
そして今──この“命”で、何を創っていくのか。
彼女の中に、再び灯った小さな決意の炎は、仲間たちと共に燃え上がろうとしていた。