第58話「元魔王、原点を思い出す」
アスヒラクフーズの本社プレハブ、応接室。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まるで天界の怒りのように眩しくて、アマリエは椅子の上でゴロンと丸まっていた。
「ぐおおぉぉ……太陽よ、なぜワシにだけ牙を剥くんじゃあああ……!」
『……ただの日差しですニャ、社長』
黒猫のヴォルフガングが、机の上でしっぽをパタパタさせながら冷静にツッコミを入れる。
「うぅ、やっぱワシもう、社長辞める! 今日から“伝説の床拭き魔王”として生きることに決めた!」
『それ、以前に“幻の雑巾王”って名乗って撤回した設定ですニャ』
「そうじゃったか!? ワシ、また前世の記憶が混ざったかも……」
『いや、それはただの記憶違いですニャ』
しばらくの沈黙の後。
「……ワシ、もうダメかもしれん……」
うなだれる魔王アマリエ。
いつもは天真爛漫なおバカっぷりを振りまいている彼女だが、今はその顔に翳りがある。
『社長……顔色が優れませんニャ』
「ガンちゃん……ワシ、ほんとはずっと思っとったんじゃ……社長とか無理だったんじゃないかって……」
その言葉に、ヴォルフガングの尾がぴたりと止まる。
『……スラーリンの件で、かなり精神的なダメージを受けているニャ』
クレームの嵐、闇ポーション問題、社内の空気も重苦しく、誰もが疲弊していた。
「ワシが社長なんかやっとるから、こんなことになってしもうたんじゃろうか……」
机に突っ伏す魔王の頭の上に、そっと黒猫の前足が置かれる。
ふわりとした柔らかい感触。
「じゃがな……ガンちゃん……ワシ……ワシ……もうあの頃には、戻りとうないんじゃ……」
ヴォルフガングはそっと、足をどけ、ゆったりと応接室から去った。
墓石の脇にある社員食堂へアマリエは一人、塩辛味ポーションを手にして向かっていた。
「ハァ……この塩辛味を持ってしても、心の傷は癒えんのぉ……」
社員食堂のドアを開ける。すると、そこには懐かしい背中があった。
額にバンダナを巻き、年季の入ったモップを手に、黙々と床を磨いている魔族の少女。
「あ、あのぅ……もしかして……リンゼスちゃん!?」
「……」
少女は手を止め、振り向く。
優しい笑みが、記憶の中の“あの人”と重なった。
「やっぱり……アマリエちゃん!」
「わ、ワシ、生きとったんじゃよ!? 社長になったんじゃ!」
「社長……そりゃまた、ずいぶん出世したね」
「あ、いや、そんな……ワシなんて、まだまだ目くそ鼻くそ以下の存在じゃけぇ……」
「その口の悪さは相変わらずだね~」
リンゼスとの会話で、アマリエはかつての辛い清掃派遣時代を思い出す。
「ワシな、あのころ、ほんとにツラかったんじゃ。毎日朝から晩まで便器と向き合って、ついに便器に“ワシのところに来ないか”ってプロポーズしてしまったほどじゃ」
「……断られてたよね」
「しかも“私は既に使用中です”って断られたんじゃ……」
二人はしばし、無言で見つめ合った。