第5話「魔王としての居場所」
本を読んでいた。
いや、正しくは「読もうとしていた」――のだが。
「……む、むむむ……んーーーーっ!! 無理じゃああああああ!!」
アマリエの悲鳴が、深夜のボロアパートに響いた。
床に投げ出された本。銀色の表紙には『経営戦略とはなにか』と、堂々たる文字。
「ガンちゃん……ワシはもう……この書の呪いに取り込まれる……」
『それは“インクで印刷された紙”ですニャ。呪いはかかっていませんニャ』
「ほ、ほんとに? この“スウォットぶんせき”という言葉、見ただけで気分が悪くなるんじゃが……」
『読解力が足りないだけですニャ』
「ふぇぇ……知性で敗北……ッ!!」
アマリエは顔を伏せたまま、小さくぶつぶつ言った。
「“マーケティング”ってなんじゃ……“キャッシュフロー”は飲めるのか……それとも回復魔法か……?」
『キャッシュはお金、フローは流れですニャ。飲み物ではありませんニャ』
「な、なんと……金が流れる……“黄金の魔水流”じゃな!!」
『それっぽく言っても意味は同じですニャ』
ヴォルフガングは、静かに本のページを尻尾で閉じた。
「でもな、ガンちゃん……」
『はいニャ?』
「意味はまったくわからんのじゃが、この本……読んでおると、なんかこう、心が震えるんじゃ……!」
『知識がわからなくても、感じ取れるものがある。それは、あなたが生きてきた証拠ですニャ』
アマリエは、しばらく黙っていたが、やがて真剣な顔で言った。
「この書には、何か“力”がある。魔力ではないが……読めば、世界が変わる気がする……」
『まさに、“構造化された力”ですニャ。経営とは、再現可能な“力”を組み立てる術なのですニャ』
「構造……? つまり“組み体操”じゃな!」
『ちがいますニャ』
「……あ、わかったぞ! これは“陣形”じゃな? 魔王軍でもやった! “魚鱗の陣”とか“挟撃の構え”とか!」
『近いですが微妙にズレてますニャ。でも、理解しようとする姿勢は尊いですニャ』
アマリエはぽんと手を打った。
「つまりワシがかつてやっておった“戦略”や“軍整備”も、今でいうところの“けーえー”というやつだったんじゃな!」
『“けーえー”ではなく“経営”ですニャ。正確に言うと、“戦略”と“運用”の両輪ですニャ』
「むぅ……難しいのう……しかし、燃える!!」
突然、立ち上がったアマリエは、本を高々と掲げた。
「わからぬ。だが、これだけは言える! この本は“何かを動かす力”を持っておる!」
『それが“戦略”というものですニャ』
「ガンちゃん……ワシ、もしかして……まだ“戦える”のかもしれぬのう……」
『魔力ゼロでも、“経済”という戦場でなら可能ですニャ。誰でも参戦できる、知の戦ですニャ』
アマリエの中で、何かがひっくり返る音がした。
失ったと思っていた魔王としての“居場所”。その代わりになるものを、今初めて見つけた気がした。
「……魔力なきこの身に、まだ戦場があったとはのう……!」
アマリエは両手で自らの胸をぐっと握った。
「ガンちゃん、ワシ決めたぞ!」
『なんですニャ?』
「ワシ、この“けいざい”ってやつで、もう一度、世界に戦いを挑む! ワシなりの“征服”を始めるんじゃ!!」
ヴォルフガングは、微笑みながらうなずいた。
『それでこそ、魔王ですニャ』
アマリエの目には、あのかつての戦場にいた時と同じ光が宿っていた。
「よし、ガンちゃん! まずは“キャッシュフロー”を鍛えるために、体力作りじゃな!」
『それはちがいますニャ』
夜はまだ深かったが、元魔王の心には、朝焼けが射し始めていた。